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2025.03.03

全長150メートル!? “人魚の骨”を800年守り続ける龍宮寺を訪ねて

この記事を書いた人

「今回の取材なんですけどね」
私は隣を歩くカメラマンに声をかけた。

「送った企画書通りで変更なし。で、今回は『人魚』なんで」
「ええ」
「『骨』と『掛け軸』メインで」
「ええ」
「撮影お願いします」
「ええ」
反応が一本調子のカメラマンに、いきなりぶっこみたくなった。
「で、その人魚、150メートルあったらしくて」
「えっ?」「メートル?」「ホントに?」「センチじゃなくて?」「センチっしょ?」

なんだよ。
矢継ぎ早に5連続の質問か。
まさか、そこまで反応するとは思いもしなかった。
「それを、今回の取材で訊くんで。着きましたよ」

向かった先は、九州の一大都市である福岡県の「博多」。
それも、最寄り駅は博多駅から地下鉄で1駅隣の「祇園(ぎおん)」駅。その2番出口すぐそばにある「冷泉山 龍宮寺」が、今回の取材先だ。

福岡市博多区にある「龍宮寺」

なんと、コチラの龍宮寺。
先ほどもご紹介したが、寺には昔から伝わる「人魚の骨」があるというではないか。
人魚って……。
そう、上半身が人間で下半身が魚類という、あの「人魚」である。それも、この人魚、なぜか超巨大。掛け軸には150メートルほどだと記されているとか。
そこで、真偽をこの目で確かめようと、遠路はるばる訪ねたというワケである。

実在する「人魚の骨」。
その姿かたちは、一体、どのようなものなのか。
そもそも人魚の骨が龍宮寺にある理由は何なのか。
本当に超巨大なサイズなのか。

それにしても、疑問が多過ぎる今回の取材。
カメラマンのように矢継ぎ早に質問を浴びせないことを祈りつつ、覚悟を決めて寺の門をくぐったのである。

※冒頭の画像は「龍宮寺」の人魚の掛け軸「人魚図」です
※本記事の写真は、すべて「龍宮寺」に許可を得て撮影しています

寺の名前も、じつは人魚が由来?

「この寺の縁起はね。元々は……ちょっと昔の話からの方がいいね。ずっとここら辺はね、昔、海やったんですよ」
こう話されるのは、「冷泉山 龍宮寺」45代住職の岡村龍生(りゅうせい)氏。
今回、快く取材に応じてくださった、生まれも育ちも博多で、博多大好きという御仁である。

「冷泉山 龍宮寺」 45代住職 岡村龍生(りゅうせい)氏

ご住職の手には、昔の博多の地図。
当時の博多を説明すべく、即席地理の講義が始まった。
「長浜というのは、今の長浜通り。ずっとここら辺は海やったんですよ。今は色々建てられてもう全部埋まってね。住吉大社の前は全部海。で、橋で繋がってたわけなんですね」

今や博多駅を中心に高層ビルが並び、多くの車が行き交うザ・都会の「博多」。そんな場所がじつは海だったとは、にわかに信じられない。

「このあたりで1222年に人魚が上がったと。漁師の網に引っかかったとか、打ち上げられたとか。まあ、そういうことで、誰も見たこともないような生き物が上がったんでしょうね。それを博多の人たちは『人魚』って言ったんでしょう」

1222年というのは、貞応(じょうおう)元年のこと。
鎌倉時代の初期あたりだろうか。ちょうどこの前年には、鎌倉幕府を揺るがした「承久の乱」が起こっている。後鳥羽上皇が討幕の兵をあげ、幕府に鎮圧された事件だ。

「当時の占い師、陰陽師ですよ。安倍大富(あべのおおとみ)という人がね、この人魚を見て、これは今から国家が栄える象徴だからって、手厚くお墓を立てて埋葬しなさいと。昔から人魚の肉を食べると長生きするという、そういう迷信というか、言われがあったもんで、博多の人たちが食べようとしたのを戒めてね」

ご住職が地図の中にある橋を指す。
「この橋の両側に『観音堂(かんのんどう)』と『荒神堂(こうじんどう)』があって。で、橋のたもと、観音堂のそばにお墓を建てて埋葬して。その後に、お寺の伽藍(がらん)を整えて、寺を建てたわけです。それが龍宮寺の始まりです。だから、今も境内に観音堂と荒神堂があるんです」

境内奥にある観音堂(龍宮寺)/ 寺門から見える荒神堂(龍宮寺) そばには灯籠や狛犬の姿も

確かに、寺の門をくぐってすぐに見えたお堂があったが。そちらが「荒神堂」だとのこと。荒神は不浄や災難を除去する神とされ、火と竈(かま)の神として、当時より信仰されてきたという。

そして、境内の奥にあるのが「観音堂」。
当時は「浮御堂(うきみどう)」とも呼ばれており、この観音堂に安置されているのが「聖観世音菩薩」である。慈覚大師作と伝えられ、じつは海中より出現したという説もあるのだとか。現在も博多七観音の1つとして多くの人に信仰されている。

それにしても、である。
人魚のみならず、この2つのお堂も同じ時間を経て、現在まで無事に残っているとは驚きだ。
なお、創建当時は真言律宗の寺院だったという龍宮寺。谷阿上人(たにあしょうにん)により開山され、6世の空吟上人(くうぎんしょうにん)の時には浄土宗に改宗されている。それから何度か場所を移し、慶長5(1600)年に現在の場所に落ち着いたようだ。

「人魚が上がったということで。都から勅使として冷泉中納言(れいぜいちゅうなごん)が来られて、見聞されてるんですよ。京都からわざわざ公家が来るとね。大ごとですよ。博多は。それで、昔は『博多の津』とか言われとったのを、その方が来たので、その名を取って『冷泉の津』になったわけ」

ということは……。
もちろん、この辺り一帯が「冷泉町」というのも、龍宮寺の山号が「冷泉山」というのもすべては彼の名から来ているというコトか。

人魚は「龍宮」からの使い、そして、勅使である「冷泉中納言」。
この2つから、寺の名がつけられていたとは想像もしなかった。
成り立ち、そして、その名前まで。
すべては「人魚」から始まったのである。

全長150メートルの謎に迫る

さて、取材が進む中で、どうしても訊きたいコトがあった。
カメラマンが過剰反応した人魚のサイズについてである。
注目したのが、例の人魚が描かれた掛け軸だ。

人魚が描かれた掛け軸「人魚図」

「ここに永禄〇年って書いてあったんですね、だから室町末期ぐらいと思うんですけどね。昔はこれ出しっぱなしで、雨やら風やらで。ちょうど大事なところが見えなくなってるわけで」

なるほど。
確かに、うまい具合に何年かが全く見えない。誰が描いたかも、いつ頃の作品なのかも不明だが。「永禄」は、正親町(おおぎまち)天皇の代の元号だ。室町時代(戦国時代)の1558年から1570年までだから、この間に描かれたのだろう。

人魚が描かれた掛け軸「人魚図」の拡大版。中央部分に「永禄 年迄」と見える

「想像図ですよ。今みたいに写真とかがあるわけじゃないし。人魚をずっとねこのお寺は祀ってるということで。可視化というか、皆さんの目に見えるみたいに描いてあるんですよね」

よく見ると、手には赤いモノが見える。
「それは宝珠。仏様が持ってるね。仏教的に描かれてます。以前、学習院女子大学の教授が見に来られて。人魚とかを研究された方でね。(人魚に)ちょっと赤いリボンがついてるでしょ。それって『リュウグウノツカイ』(という深海魚)にも同じように赤いひれがついてるって言われてましたね」

人魚が描かれた掛け軸「人魚図」の拡大版

確かに。
てっきりデザイン的なモノかと思ったが。
そうではなく、ちゃんとした意味があって「赤色」のリボンが使われているのか。

「博多には『博多長橋』というのがあって。ここで昔は貿易しよったんですよ。色々大陸から入ってきたものが、この橋を通って、博多の津に入ってきて。だからこの橋は、ものすごい重要な橋だったらしいんですよ」とご住職。

一体、何の話が始まるかと思ったが。
とにかく黙って拝聴した。

「この橋、長さが81間(けん)あったらしいんですよ。今でいうと150メートルぐらいの長い橋だったんです」

うん?
150メートル?
偶然か?

「ここに長さ81間っていうのが書いてあるんですよね。但し書きにね。『長サ八十一間の人魚也』って。でも、そんな生き物はいませんのでね。150メートルとかの生き物はね」

人魚が描かれた掛け軸「人魚図」の拡大版。中央部分に「長サ八十一間の人魚也」とある

一刀両断とはまさにこのこと。
私の質問が出る暇もなく、思いっきり否定された。
まあ、常識の範囲で考えれば、確かにそんな生物はいないだろう。
でも、どうして、そんな内容の文言が掛け軸に記されたのか。

「この橋があったら博多の町は栄える。とても大事な橋だったらしいんです。(一方で)人魚は国が栄える象徴、吉兆ですから。この橋と人魚をかけてね。まあ、この橋がなくなると、博多の街は衰退するという意味合いもあったらしいんですけどね。だからああいう表記になったと」

なるほど。
人魚の出現は、博多の町を支えた「博多長橋」と同じく重要だった。だが、時と共にその意味合いがどんどん薄れ、形式的に「橋と人魚が同じ」という伝え方となってしまったのか。道理でと納得した。

平成13(2001)年8月の「博多灯明ウォッチング」の様子(旧冷泉小学校グランド)「150メートルの人魚」とまではいかないが、巨大な人魚を灯明で表現している

こうして最大の謎が解けたところで。
いよいよあとは、待ちに待った「人魚の骨」とのご対面である。

800年前の人魚の骨とご対面

それでは、お待たせしました。
貞応元(1222)年に博多に現れた人魚の骨。
かれこれ800年が経過したという、貴重なそのお姿を拝ませていただこう。

長い月日を経た「人魚の骨」。
意気揚々と箱の中を覗き込む。
置かれているのは、意外にも茶色くなった骨。数えると6点ある。一体、どの部分の骨なのかはさっぱり分からないが、注目すべきはその大きさだ。
フツーに、デカい。

龍宮寺の人魚の骨

正直、反応に困る。
というのも、見ても「ああ、それそれ」とピンと来ないのだ。
例えば、日頃見慣れた魚の骨とかであれば、当然頷けるのだが。いかんせん、人魚そのものを見たことがない。ましてや、骨となれば、余計にそのサイズ感も分からない。

「『人魚』っていうから『人魚』で伝わってるわけで。誰も見たことないもんね。その当時、写真とかカメラとがあればね、まあ、ずっといい伝えでね」

まさしく、ご住職のおっしゃる通り。
もう少し前に身を乗り出して、凝視する。
なんだか、黒光りしている。ピカピカだ。まさに丁寧に磨かれているような外観に驚いた。

人魚の骨(拡大版)

「みんな触っていくからね」とご住職。

なるほど。
そうか。人魚といえば「不老長寿」のイメージが強い。少しでもその効果にあやかりたいと、参拝した人たちが触るのだ。

ただ、触るのは「骨」だけではないらしい。
「(境内の)人魚塚も昭和30年代に再建しとるんですよ。その前のはもうボロボロでね。昔は、ほら『砂岩』っていうて掘りやすい石じゃないですかね。みんな削っていったりしとるんですよ、お守り代わりに。長生きしようと思って」

それにしても、人間の欲望とは、なんと底知れぬものなのか。
「そりゃそうですよ。昔はもうちょっと、少しでも長生きしたいっていう想いがね。今は100歳っていわれてね、医療も進んで。でも、昔はそうじゃなかったから」

再建された人魚塚(龍宮寺)

ちなみに、コチラの人魚塚だが。
再建時に場所も少し移動されたとか。その際には残りの骨はなかったという。
「もうずっと埋葬されたまま。昔は土葬やからね、もう土に返ってるんじゃないですかね」

おっと。
それなら、余計に貴重だ。

「明治のね、始めぐらいまでは、毎月、荒神さんの縁日があったんですよ。いっぱいお店が出てすごく賑わってたらしいんです。その時に、その人魚の骨をたらいに入れて水を張ってね、その水を皆飲んでたらしいですね、不老長寿ということでね。ただ、それは不衛生ということで、明治の始めには、もうやめてますけどね」

現代ではありえないと思うことも、当時は大真面目に信じられていた。
じつは、江戸時代後期の国学者、平田篤胤(あつたね)もその1人。どうやら人魚の存在と長寿の効果を信じていたようだ。天保13(1842)年の書簡によると、晩年に「人魚の骨」を手に入れ、長生きすべく、仲間と共にその骨を削り水に浸して飲んだと書かれている。なんなら家族に人魚の骨を送っていることから、相当本気だったようだ。ただ、その甲斐もなく翌年に死去しているため、人魚の効果はなかったとも。

山田孝雄 著 『平田篤胤』 宝文館 1940年(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

今度は、少し距離を取って、人魚の骨を眺める。
やはり、骨のサイズが半端ない。
「20年ぐらい前に、志賀島(しかのしま)のマリンワールドで、全国の水族館の館長の会があって。その人たちがだいぶここに見に来て。(人魚の骨は)恐らく哺乳類の骨であることは間違いないと。それから、大きさからいうとジュゴンじゃないかと言われたんです。どうか分からんけどね」

ただ、一方で。
「深海魚」という見方もあるという。

「人魚が上がったのが1222年。元号が変わった年なんですよ。同じ天皇でも昔はころころ元号が変わってたんでね。縁起の悪い年だからとか。その前には地震とか火山とか色々天変地異が結構あったんですよ。その後に現れとるわけですよね。この見たこともないような生き物はね。だから深海魚とかね、ああいうのが上がってきて、それを初めて見て『人魚』と言ったんじゃないかという説もあるんですけどね」

藤原頼資の『頼資卿改元定記』には「改元すでに年中行事の如し」と記されるほど、鎌倉時代は改元が頻繁に行われた。
所功、 久禮旦雄、 吉野健一著『元号 年号から読み解く日本史』によれば、元暦2(1185)年に「文治」と改元されて以降、南北朝時代となる「元徳」元(1329)年まで、約150年間に使用された元号は48。2年に満たない元号は12もあるという。
ちなみに、改元の理由は天皇の即位のみならず、地震や火災、疾病、彗星の出現など様々。特に「災異改元」がかなり多い。

地震が多かった鎌倉時代。
それなら、なんらかの影響を受けて深海魚が浮上してきた可能性もあるだろう。
だが、いかんせん、当時の状況を再現することはできない。あくまで推測でしかないのだ。
当時、人魚の骨が人々の希望の象徴となっていたのであれば、さらなる追究は不要とも思う。

「まあ、お寺を少しでもね、栄えさせるということで。その人魚を利用してっというか、少し皆に見せていただいてるわけですよ」

なお、コチラの人魚の骨と掛け軸だが、一般公開はされていない。
観光ボランティアガイドを頼めば、見学は可能だとのこと。また年に1回は、行政のイベントでこの周辺が数日間ライトアップされ、その期間中は一般公開されるという。ご住職曰く、4、5000人が龍宮寺を訪れ盛大に賑わうのだとか。
是非とも、この機会に足を運ばれるのはいかがだろうか。

見納めにと、もう一度だけ人魚の骨に手を合わせ、取材が終了した。

取材後記

「岡山のお寺で、人魚のミイラをね、科学的に調べて作りもんやったとかいう話、知ってます?」

ご住職にいきなり話を振られ、確かにそんなニュースがあったことを思い出した。
令和5(2023)年2月7日に新聞数社が報じた内容によれば、岡山県浅口市にある「円珠院」秘蔵の「人魚のミイラ」を1年かけて科学的に調査したところ、じつは「造形物」であったことが結論づけられたというのである。

「でも、それはね、昔から人魚にまつわる不老長寿のね、そういう憧れとか願いなんかを込めて作ってるんだろうということでね」とご住職。

この記事を書く上で調べたのだが。
江戸時代以降、多くの人魚のミイラが作製されたという。その行き先は国内のみならず、最終的には大英博物館(イギリス)やライデン国立民族学博物館(オランダ)など、まさかの海外の博物館にまで及んでいるとか。どうやら、意外に造形物のミイラは流通していたようだ。

ちなみに、国内では人魚のミイラが10体以上現存することが確認されている。現在、その多くは博物館や寺社が所有。正体が判明しているものもあれば、ないものもある。ただ、未だ公にされず、どこぞの「家宝」として人知れず存在する可能性も否定できない。

それにしても、である。
仮に「人魚」の正体が分かったところで、そのあとはどうするのだろうか。関係者でもないのに、つい、いらぬ心配をしてしまう。
もはや、この類の議論には「正解」などないのだろう。どちらがいい、悪いではない。ただ単に、それぞれの考え方や価値観の違いだ。

フランス人から奉納された「人魚」の寄木(よせぎ)細工

最後に。
ここから先は、いつもの個人的見解となるのだが。
確かに、謎があれば解き明かしたいと思うのも無理はない。ましてや科学技術の発達で、不可思議な事象、そして様々な謎の解明が可能となったのだ。ある種の「知識欲」とでもいおうか、そんな欲求も、もちろん理解できる。

だが、一方で。
科学とは真逆の立ち位置に、目には見えないモノが存在する。
「信仰」や「祈り」など、科学的には証明が難しい精神世界だ。

そっと当時の人たちに思いを馳せてみる。
度重なる災異に疲弊していたであろう人々の前に、突如現れた見知らぬ生き物。
のちに「人魚」と呼ばれ、「吉兆」とされて大事に葬られる亡骸。
「(当時は)この人魚を大事に大事にしてね。今から国家がまた栄えていく象徴だからってね」とご住職。

一体、彼らは、そこに何を見出したのだろうか。

恐らく、それは、ささやかで純粋な「願い」だろう。
穏やかに安心して暮らしたいという「願い」。
1年でも長く生きたいという「願い」。
そして、僅かばかりの「安堵」。

そんな人々の長きにわたる「祈り」が、目に見えない形で積み重なっているのだ。
今更、正体など関係ない。
そこにあるのは「有形」の姿かたちをゆうに超えた「無形」の存在。

「これも調べたいとか言われるけど、そういうことは、一切させませんけどね」
力強いご住職の言葉が胸に響く。
「今後もずっとお守り続けていかれるんでしょうね……」と私。

「代々ね。これがあるから龍宮寺って名前でね。お寺の寺宝ですよ」
ご住職の笑みがこぼれる。

もう、それで。
それだけで、十分だ。

写真撮影 大村健太

基本情報

名称:冷泉山 龍宮寺
住所:福岡市博多区冷泉町4-21
公式webサイト:なし

参考文献
山田孝雄 著 『平田篤胤』 宝文館 1940年
矢吹重政 著『平田篤胤と秋田』 三光堂 1943年
川添昭二 著 『中世九州の政治と文化』 文献出版 1981年6月
津田元貫 著 『城志 巻1至3』 筑紫史談会 1919年10月
藤木久志 編 『日本中世気象災害史年表稿』 高志書院 2007年11月
所功、 久禮旦雄、 吉野健一 著 『元号 年号から読み解く日本史』 文藝春秋 2018年3月

書いた人

京都出身のフリーライター。北海道から九州まで日本各地を移住。現在は海と山に囲まれた海鮮が美味しい町で、やはり馬車馬の如く執筆中。歴史(特に戦国史)、社寺参詣、職人インタビューが得意。