天下人となる兄の秀吉は、織田信長に仕えるまでの若い頃に何をしていたのか、良質な史料では確認できません。江戸時代に書かれた『絵本太閤記』などでは、若い頃の話が面白おかしく語られていますが、それらはかなり脚色されたものです。まして秀吉の弟・秀長となると、なんと34歳まで、良質な史料には全く登場しません。このため前半生の正確なところはわからないのですが、34歳の時点で、信長の有力な家臣になっていますので、早い時期から兄に従って、信長に仕えていたであろうことは推測できます。大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも、いくつかの史料をもとに脚色して、秀長の若い頃が描かれるのでしょう。
そこで今回は、江戸時代に書かれた『前野(まえの)家文書 武功夜話(ぶこうやわ)』や、小瀬甫庵(おぜほあん)『太閤記(たいこうき)』などを参考にしつつ、歴史的事実と突き合わせながら、秀長の初陣や若き日の活躍を探ってみます。
『太閤記』が描く少年時代の秀吉
「母が懐(ふところ)に日輪が入る夢を見て妊娠して誕生した」
小瀬甫庵の『太閤記』にそう記される秀吉が生まれたのは、天文6年(1537)のこと。まるで天下人になることを暗示する、「太陽の申し子」であったといわんばかりの秀吉誕生のエピソードですが、その4年後、天文10年(1540)に誕生したのが弟の秀長です。3年後の、天文9年誕生という説もあります。秀長には特に、誕生のエピソードは伝わっていません。秀吉誕生のエピソードはもちろん創作でしょうが、派手な兄と、その陰にいる弟という兄弟の立ち位置が、こんなところからも感じ取れます。
『太閤記』の著者、小瀬甫庵は学者で、大村由己(おおむらゆうこ)の『天正記(てんしょうき)』や、太田牛一(おおたぎゅういち)の『大かうさまくんきのうち(太閤さま軍記のうち)』などを元に、江戸時代の初めに『太閤記』をまとめました。秀吉の伝記としてもっともよく知られていますが、甫庵の価値観が強く打ち出され、史料を改変した記述などもあるため、「史料的価値に乏しい」という評価も。その辺も踏まえたうえで、参考にする必要があります。なお太閤記というタイトルの書物には他に、『絵本太閤記』や『川角(かわすみ)太閤記』などがあり、それらと区別して『甫庵太閤記』と表現される場合もありますが、一般に『太閤記』といえば、甫庵の『太閤記』を指します。
『太閤記』には、秀吉の父親は尾張国愛知郡中村(現在の愛知県名古屋市中村区)の住人、筑阿弥(ちくあみ)で、幼少期より秀吉が大変利口なので、僧にすべく寺に入れたところ、秀吉は嫌がって8歳頃に寺を飛び出し、諸国を転々とした、とあります。秀吉の母親や弟の秀長、姉妹については触れられていません。最近の研究では、父は尾張清須(きよす)城の織田大和守(おだやまとのかみ)に仕え、負傷して帰農したという木下弥右衛門(きのしたやえもん)とされ、母はなか。姉がとも、藤吉郎(とうきちろう、秀吉)の弟に小一郎(こいちろう、秀長)、妹にあさひがいたと考えられています。一説に筑阿弥は、弥右衛門の死後、母のなかが再婚した相手とも、また弥右衛門の別名であるともいわれ、よくわかりません。いずれにせよ近年では、とも、藤吉郎(秀吉)、小一郎(秀長)、あさひの4人は、弥右衛門となかの子どもであったとされています。

『武功夜話』と小一郎のスカウト
諸国を渡り歩いた秀吉が、織田信長に仕えるようになったのが永禄元年(1558)、秀吉18歳の頃のことでした。持ち前の才覚で最底辺の身分から少しずつ上昇していき、数年後には、自分の右腕となる人材を求めて、中村で暮らす弟の小一郎の前にひょっこりと現れます。その時の様子を、『武功夜話』は次のように記します(意訳は筆者)。
「(木下小一郎は)尾張中村の人で、藤吉郎の弟である。武士になろうという気はさらさらなく、中村で畑仕事にいそしんでいた。永禄5年(1562)、藤吉郎が百人足軽頭へと出世した際、故郷の中村に帰り、小一郎にこう言った。『わしもいまや織田様の百人足軽頭となり、50貫文(かんもん)の給地をあてがわれる身となった。しかし身一つで、信頼できる一族の者がおらず困っている。乱世に生まれて、名を後の世に残そうと思うのであれば、武家に奉公するに限るぞ。そこでどうだ、お前も鍬(くわ)を捨てて、わしに力を貸してはくれぬか』」
時に木下藤吉郎秀吉26歳、小一郎秀長22歳でした。
『武功夜話』は尾張の土豪・前野家の動向を記した覚書(おぼえがき)で、前野家文書と呼ばれる古文書群の中の一つ。前野家の子孫である吉田家の蔵の中から、昭和34年(1959)の伊勢湾台風をきっかけに見つかったといわれます。前野家は秀吉の古参の家臣である前野長康(ながやす)の一族で、関係の深かった蜂須賀(はちすか)氏や生駒(いこま)氏、さらに織田信長や秀吉の記述も多く、その中には秀長に関する記述も含まれていました。秀長の若い頃の活躍を知る上で、貴重な史料ではありますが、後世に書かれたと思われる内容も散見され、偽書ではないかと、信憑性に疑義を呈す研究者が多く存在します。一方で、江戸時代にまとめられたものであり、確かに内容的な誤りはあるものの、参考資料として貴重であるとする研究者も少なくありません。そうした議論の対象となっている史料であることを踏まえつつ、本記事では参考にすることにします。
秀吉の下で働き始めた小一郎が、具体的にどんな仕事をしていたのかは記録がありません。おそらくは信長に認められるよう、日々走り回る秀吉の、裏方の仕事を任されていたのではないでしょうか。武士出身ではない秀吉には、家臣がいないため、新規に人を集めて自前の「木下隊」をつくらなくてはなりません。兄がかき集めた荒くれの流れ者たちを、多忙な兄に代わって木下隊の一員としてまとめていくために、小一郎は相当な努力と苦労を重ねていたはずです。
なお、小一郎が秀吉の下で働き始めたのが永禄5年とすれば、信長はすでに3年前に尾張をほぼ統一し、2年前には桶狭間(おけはざま)の戦いで東海の大勢力今川義元(いまがわよしもと)を討ち取っていました。また前年には、美濃(現、岐阜県)の斎藤義龍(さいとうよしたつ)が病没、息子の龍興(たつおき)が跡を継いでいます。そして永禄5年正月に、信長は三河(現、愛知県東部)の松平元康(まつだいらもとやす、後の徳川家康)と同盟し、その目は、北方の美濃に向けられていました。

美濃攻めの始まり
永禄6年(1563)、信長は本拠を尾張清須(きよす)城から、北方に新たに築いた小牧山(こまきやま)城に移すと、美濃斎藤氏と連携して信長に敵対する、犬山城の織田信清(のぶきよ)を破り、尾張を完全統一します。そして、いよいよ本格的に美濃攻略に取りかかりました。『武功夜話』などによると、美濃攻略では秀吉だけでなく、小一郎も大いに活躍することになります。
犬山城に接して流れる木曽川は、尾張と美濃の国境(くにざかい)でした。犬山城は木曽川南岸の尾張側ですが、北岸の美濃側にも城が複数あります。川を挟んで犬山城の西南にあるのが伊木山(いぎやま)城、犬山城の北東に鵜沼(うぬま)城(宇留摩〈うるま〉城とも)、さらに鵜沼城の北、蛇行した木曽川沿いにあるのが猿啄(さるばみ)城でした。
美濃攻めに関わる城(国土地理院地図を加工)
『武功夜話』によると、信長が犬山城攻めに出陣する前、秀吉が斎藤方の伊木山城、鵜沼城の攻略を提案。犬山城攻略後の、美濃攻めの足がかりになると信長は喜び、
「伊木山城の伊木忠次(いぎただつぐ)を抜かりなく、味方につけよ」
と、秀吉自前の騎馬武者5騎、足軽100人の手勢に加えて、新たに30名を貸し与えます。彼らは松倉城主の坪内利定(つぼうちとしさだ)をはじめ、蜂須賀正勝(まさかつ)、前野長康ら、濃尾国境木曽川沿いの地侍たちで、地元の地理に精通し、また斎藤方にも顔見知りが多いという強みがありました。地侍30名につき従う者たちを合わせると、およそ400人。これに自前の手勢を加えた計500人を、秀吉は率いることになります。なお秀吉の騎馬武者5騎の中の1人が、小一郎でした。
伊木忠次と伊木山城
秀吉は500人を半分に分け、一隊は蜂須賀正勝、前野長康に託して伊木山城に向かわせます。蜂須賀、前野両名が、伊木山城主の伊木忠次と懇意なので、味方につくよう説得するためでした。片や秀吉はもう一隊を率い、鵜沼城の北西、少し高い場所の巾上(はばがみ)に布陣、城主の大沢次郎左衛門(おおさわじろうざえもん)の説得にあたります。『武功夜話』には、蜂須賀・前野の説得で伊木忠次の心が動き、秀吉の陣にまで出向いて、織田に味方することを約束。美濃攻略への大きな一歩になったと記されていますが・・・。実は、これは事実ではありません。
というのも、伊木忠次は斎藤方ではなく、最初から信長の家臣であったことがわかっているからです。伊木はもともと香川長兵衛(かがわちょうべえ)と名乗り、美濃攻めで手柄を上げ、信長より伊木山城を与えられました。その際に、名を伊木清兵衛(せいべえ)忠次と改めています。太田牛一の『信長公記(しんちょうこうき)』には、
「信長はこの山(伊木山)に登って砦を堅固に造り、両城(鵜沼城、猿啄城)を見下ろして居陣した。宇留摩(鵜沼)の城は、信長がすぐ近くに陣を構えたので、とても守り切れないと判断して、城を明け渡した」
とあります。つまり伊木山に城を築いたのも、鵜沼城を開城させたのも信長自身だった、ということになりますが、さすがにすべて信長自身がやったとは考えにくく、織田勢(具体的には秀吉隊)がやったことを、『信長公記』はそう表現したと考えれば、つじつまは合うでしょう。つまり伊木山にはもともと堅固な城はなく(斎藤方の小さな砦はあったかもしれませんが)、秀吉は手勢の半数を割いて、まず重要拠点となる伊木山を押さえたということです。
小一郎の初陣「巾上の陣」
伊木山から鵜沼城は、直線距離で2km余り。伊木山山頂に旗を林立させれば、鵜沼城から視認できたかもしれません。一方、鵜沼城の西北2km、巾上に布陣する秀吉は、2つの軍勢を見せつつ、鵜沼城主大沢次郎左衛門の誘降に臨んだのでしょう。
鵜沼城周辺地図(国土地理院地図を加工)
『武功夜話』によると、秀吉の説得によって大沢は織田家に降りますが、信長からの赦免がなかなか下りなかったため、秀吉は丸2日間、鵜沼城内に滞在します。いわば、大沢が無事に赦免されるまでの人質でした。もし信長が許さなければ、秀吉は大沢に殺されても文句は言えず、そのいさぎよい態度に、大沢はすっかり心服したと記されています。
やがて鵜沼城は、無事に無血開城。秀吉は本隊が布陣する巾上に戻るため、城に多少の兵を残して、少数の手勢で竹藪の茂る坂を上っていました。無血開城成功で、多少警戒心がゆるんでいたのかもしれません。突如、300余りの軍勢が秀吉一行を襲います。北方の関城主で斎藤龍興の重臣、長井道利(ながいみちとし)配下の奇襲でした。竹藪にはばまれて秀吉らは自由が利かず、たちまち窮地に陥ります。浅野長勝(あさのながかつ)、林孫兵衛(はやしまごべえ)ら側の者たちが秀吉を守り、低い場所に駆け下りて防戦しますが、絶体絶命でした。この時、秀吉の危機にいち早く気づいたのが、少し先を進んでいた小一郎の一隊でした。小一郎らは取って返すと、長井勢の側面に突っ込みます。小一郎に従う木曽川筋の屈強な地侍たちは、火花を散らして戦い、中でも大嶋雲八(おおしまうんぱち)は関鍛冶の大太刀を振るって、敵を蹴散らしました。それまでほとんど実戦経験がなかったであろう小一郎も奮戦、竹林を切り払って防戦に一役買うなどして、見事に秀吉を救い出しました。「巾上の陣」と呼ばれるこの戦いが、小一郎の実質的な初陣と考えられます。
この永禄8年(1565)の鵜沼城攻略を足がかりに、信長は猿啄城を攻略、さらに東美濃方面を制圧。じわじわと西美濃の、斎藤龍興の居城・稲葉山(いなばやま)城を圧迫していきました。しかし稲葉山城の守りは固く、敵地である長良川の岸に、稲葉山城攻略の前線基地となる城を築くことが必要になります。それが、のちに「一夜城」の名で伝説となった、墨俣(すのまた)城の築城でした。
あまりにも危険な築城
『太閤記』によると、信長は重臣らを集め、こう言います。
「これまで美濃にたびたび攻め入ったが、見るべき成果がない。そこで川向こうの敵地に要害(城)を築き、軍勢を配して、稲葉山城を落とす算段をつけたいと思うが、どうか」
重臣らは「見事な軍略」と賛同するものの、敵地に城を築くのは容易ならぬことであり、自ら手を挙げる者はいませんでした。その後、信長は秀吉を召し寄せ、敵地への築城について意見を求めます。秀吉は川筋の野武士たちの力を借りれば、築城は可能と進言、さらにその指揮を自分に任せてほしいと信長に願い出て、許されました。川筋の野武士というのは、鵜沼城攻略に協力した、蜂須賀正勝や前野長康ら、木曽川筋の地侍のことです。
信長の言う川向こうとは、墨俣を指していました。墨俣は現在の大垣市墨俣町にあり、東から木曽川、西から犀(さい)川、五六(ごろく)川、糸貫(いとぬき)川、天王寺川がすべて付近で長良川と合流し、まるで「洲(す)の俣」のようだったといわれます。古くから長良川の渡河点であり、交通の要衝でした。しかし、大雨が降ればたちまち増水して一面水びたしとなり、尾張への退路が遮断されます。また稲葉山城と大垣城に挟まれた地なので、築城しようとすれば、斎藤勢が大挙して攻めてくることは火を見るよりも明らかでした。秀吉にすれば、信長に大見得を切ったものの、木曽川筋の地侍が、危険な仕事に協力してくれるかはわかりません。
墨俣と美濃・尾張周辺地図(国土地理院地図を加工)
『武功夜話』は、次のように記します。秀吉はまず、木曽川の地侍の中心の一人、松倉城の坪内利定を訪れ、協力を求めますが、坪内や前野の一族は、敵地に砦を築くのはあまりに危険であるとし、助力するとは言いません。松倉城に泊まり、翌日も粘る秀吉に、前野忠勝(ただかつ)が
「このような大事を決行できるのは、蜂須賀党をおいて他にない。蜂須賀党がやるのであれば、我らもともにやろう」
と言うので、日を改めて蜂須賀正勝の屋敷に向かうことになります。秀吉に同行するのは、前野忠勝、坪内利定、林孫兵衛、そして小一郎らでした。
小一郎の真情
屋敷で秀吉の話を聞いた蜂須賀正勝も、さすがにためらいます。秀吉は、
「木曽川を使って資材をひそかに墨俣に運び、一夜のうちに馬止柵(うまどめさく)を何重にもめぐらしておけば、敵が攻めてきても鉄砲で防ぎながら築城できる。どうか承知してもらえまいか」
と、言葉をつくして説得しようとしますが、蜂須賀正勝は無言のままでした。
その時、意外にも同席していた小一郎が口を開きます(意訳は筆者)。
「私のような者が申し上げるのは、大変おこがましい限りですが、この度の墨俣の一件、兄がお受けいたしました上は、首尾よく参らぬ場合は、命はないものと覚悟をいたしております。我ら兄弟、さしたる武辺もありませんが、先ごろ名を上げることができましたのも、皆様方のご尽力のたまものでございました。この度の大役成就のため、どうかお助けいただけますよう伏してお願い申し上げます。私が兄の下に参ってより早や5年、幸いにして皆様方にお目にかかることができました。世の変転を知らず、あばら家に暮らし、土いじりで生涯を終えていたら、皆様方と知り合う機会もなかったでしょう。皆様方は長年野にあって、立身を望まぬ、大変義侠心の篤い方々と承っております。この度の大いなる計画も、兄一身の栄達を望むものではありません。美濃平定は、乱世を治める足がかりと心得ております。ぜひとも、皆様方のご協力を賜りますよう、心よりお願い申し上げます」

訥々と語る小一郎の言葉に嘘いつわりはなく、朴訥ながら仁義に篤い人柄をその場の誰もが感じ取りました。短い沈黙ののち、蜂須賀正勝が口を開きます。
「墨俣の一件、お引き受け申す」
一同は歓喜の声を上げるとともに、蜂須賀正勝の心意気に感じ入りました。蜂須賀正勝を動かしたもの、それは理屈や損得ではなく、小一郎の、正勝らを人物と見込んで、信じる姿勢にあったのかもしれません。『武功夜話』は、こう記します。
「蜂須賀彦右衛門(ひこえもん、正勝)、前野将右衛門(しょうえもん、長康)、木下藤吉郎殿はさることながら、御舎弟小一郎様に心ひかれ候由(そうろうよし)」
蜂須賀、坪内、前野らの協力を得て、一説に1,000人以上を動員し、永禄9年(1566)9月1日に墨俣築城を開始。資材を筏(いかだ)で運び、稲葉山城からの攻撃を退けつつ、数日で城を築いたといわれます。『太閤記』は、こう記します。
「敵勢を矢で防ぎつつ、普請にたずさわる者は夜を日についで働いた。かくして7日、8日頃には城はほぼ完成し、塀や櫓も組みあがり、その夜中に塗りあげ、長屋にいたるまで完成して、厳然とそびえて見えるようになったため、敵側も全く戦意を失ったという。また堀の工事も急いで進めたため、間もなく完成し、武器食料などを運び込み、秀吉公に守備の兵をつけて据え置かれた」
なおこののち、信長が稲葉山城を攻略するのは、翌永禄10年(1567)のことです。以後の小一郎秀長の活躍については、また改めて、別の記事で紹介したいと思います。
参考文献:小瀬甫庵原著、吉田豊訳『太閤記㈠』(教育者新書)、吉田蒼生雄訳注『武功夜話 第一巻』(新人物往来社)、太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)、柴裕之編著『豊臣秀長』(戎光祥出版)、『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社)、谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)、『日本城郭大系9 静岡・愛知・岐阜』(新人物往来社) 他

