織田信長を兄に持つ数奇な運命の始まり
生涯についての記録がほとんどないお市は、生年も没後などから推測された天文16(1547)年の説が有力とされています。信長とは13歳ほど歳が離れていたため、物心ついた頃、すでに織田家では父、織田信秀(おだのぶひで)が亡くなり、信長と弟の織田信勝(おだのぶかつ)による争いが起こっていました。実母の土田御前(どたごぜん)は弟、信勝を溺愛し、家督を継がせようと暗躍するなど、穏やかではない家庭環境の中、幼少期を過ごしていたのです。その後、信勝による信長への2度の謀反があり、兄弟でありながら、信長は信勝を殺(あや)めてしまいます。二人の兄が憎しみ合い、家族が悲劇に見舞われた経験は、「戦国武将とは、いつ何時、家族とて敵になるかもしれぬ」という思いを、深く刻み込んだのではないでしょうか。そう思ってしまうほど、その後のお市の人生には、身内同士が争い合うという壮絶な悲劇が繰り返されるのです。
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勢いづく信長による政略結婚
父、織田信秀の死後、家督を継いだ信長は、家族、家臣といえど、自分に逆らう者は、容赦なく切り捨て、突き進んでいきました。そしてついに、信長は永禄10(1567)年、美濃国、斎藤龍興(さいとうたつおき)の稲葉山城を陥落させ、手中に収めます。この頃から、天下布武を掲げ、足利義昭(あしかがよしあき)に頼られた信長の野望は、さらに大きくなっていったのです。まさに破竹の勢いで、時に暴君となり、周りを従わせていきます。隣国の近江では、南近江の六角氏と北近江の浅井氏の関係が悪化。勢力を強めつつあった浅井家の家督を継いだ長政と同盟を結ぶことで、近江も勢力下に入れようと考えた信長は、妹のお市と長政との政略結婚を押し進めます。その結果、六角氏を抑えた織田軍は、長政も協力する形で義昭を奉じての上洛を成功させました。
この時のお市は20歳頃と想定され、当時としては遅い結婚と言われていました。これは想像の域ですが、厳しかった父、愛情をかけてもらえなかった母、敵となった弟というように家族愛に恵まれなかった信長にとって、お市は唯一信頼のおける身内だったのではないでしょうか。そのため、お市を手元に置き、強い絆を育んだのではないかと思ってしまうのです。その一つの根拠となるのが、天正10(1582)年に京都妙心寺で開催された信長の百日忌法要です。この時に作成された史料『卒哭忌(百日忌)拈香(そっこくきねんこう)』の記録に、主催者としてお市であろう人物の名が記されています。織田家の娘としての誇り、信長を兄と慕った気持ち、その一方で、自分の愛する夫を自害させた相手、お市の複雑な心のうちはどれほどだったことでしょう。そして、こうした悲劇は娘たちにも受け継がれてしまうのです。

3人の娘に恵まれ、家族平和な日々
この時代、政略結婚、そして世継ぎを生むことは、女性にとって大きな役割とされてきました。お市も、後に歴史に大きな影響を与える3人の娘を生み、育てます。それが秀吉の側室・淀殿(よどどの)となる長女の茶々、大津城主だった京極高次(きょうごくたかつぐ)の正室となる、次女の初、徳川家康の3男、2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の正室となる3女の江です。あまりに有名な美人3姉妹は、いくつもの小説やドラマにも登場しています。
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子どもたちの立派な成長が物語るように、頼もしく、優しい夫であった長政と仲睦まじく暮らしていたのでしょう。長政の長男、万福丸(まんぷくまる)も養子に迎え、愛情をかけていたようです。
兄・信長との対決に夫を支える妻
しかし、戦乱の世、幸せな時間は束の間であったことを、お市の人生を追うと改めて痛感します。立派な兄と優しい夫、その2人が対峙することになるとは夢にも思わなかったでしょう。信長は義弟の長政に相談もなく、元亀元(1570)年に、上洛を拒否した越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)を攻めます。長政にとって、越前一乗谷城主の朝倉家は、浅井家を支えてくれた恩義ある一族。この朝倉家を滅ぼそうと兵を送り込んだ信長に対し、反旗を翻し、挟撃しようとしたのです。信長にとっては、大切な妹を嫁がせ、契りを結んだ義弟に裏切られ、怒り心頭となりました。
お市が、長政と義景が組み、織田軍を追い詰めようとしていることを知らせるため、下女に「袋小路」をイメージさせるあずき袋を届けさせたとの逸話が語られています。これはあくまで作り話とされていますが、浅井家に嫁いだとはいえ、大切な兄の窮地に心を痛め、どちらにも思いとどまることを願ったのではないでしょうか。
しかしその思いも届かず、窮地を脱した信長は、長政を完全に敵と定め、攻撃に出ます。それが、元亀元(1570)年6月28日、近江の姉川で繰り広げられた浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍による「姉川の戦い」でした。
織田信長像(模本)(https://colbase.nich.go.jp/)
戦国の世に翻弄されたお市
天正元(1573)年、遂に織田軍は小谷城を包囲し、落城させ、長政は自害を決意します。この時、娘たちを逃し、長政と共に自害を望んだお市でしたが、それを長政は許さず、娘たちと共に織田家に引き取られていきました。この時、長女の茶々は5歳、初は4歳、江は生まれたばかりでした。そのため、父を殺されたことも認識できていなかったのではないでしょうか。娘たちはお市とともに、織田家で不自由のない暮らしの中で育ちます。しかし、再び、悲劇が彼女たちを襲うのです。
近江に安土城を築いて、着々と勢力を伸ばし、天下統一まで後一歩のところで、天正10(1582)年6月2日、明智光秀の謀反による本能寺の変で、信長は自害してしまいます。お市の人生には、身近な人々が「自ら命を絶つという壮絶な運命」がつきまといます。
信長が亡くなると、お市は、信長の家老筆頭であった柴田勝家と再婚するのです。この時お市は36歳、一方勝家は61歳と、20歳以上の歳の差があったと言われています。しかし、この結婚が、やがて娘たちから母を奪うことになってしまうのです。戦乱の世とはいえ、幼き頃から両親に甘えることさえ許されない環境に置かれた彼女たちが、後に天下人の側室や正妻へと駆け上っていくのは、世に対する復讐、執念だったのでは、と感じてしまうほどです。
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二度目の結婚で強い戦国の女性へと成長
父親のような年齢の勝家との再婚を受け入れたお市の心とは、どのようなものだったのでしょうか。勝家は、父、信秀の時代から織田家の家臣として忠誠を誓い、その後、信長の筆頭家老となり、天下統一を目指す信長を支え続けました。織田家にとってかけがえのない人物であった勝家に対し、尊敬や感謝の念を抱いていたのだと思うのです。やはりお市には、織田家の娘としてのプライドと強い情があったのではないでしょうか。
秀吉と対立した勝家は、天正11(1583)年に、賤ケ岳(しずがたけ)の戦いに敗れ、居城であった北ノ庄に籠城。追い詰められた勝家は、抵抗もむなしく、北ノ庄城にて自害の道を選びます。この時、まだ若いお市に逃げるよう勝家は諭すのですが、共に自害すると覚悟を伝えるのです。お市には、こんな言葉が残されています。
「たとい女人たりといえども、こころは男子に劣るべからず」
戦乱の世の悲劇に翻弄された女性ですが、いくつかの逸話を知るにつれ、武家の家に生まれた女性としての誇りと強さが垣間見られます。娘たちに未来を託したお市は、こうして37歳で激動の人生を終えました。
壮絶な最後に残された辞世の句
さらぬだにうちぬるほども夏の夜の夢路をさそふほととぎすかな
<現代語訳>そうでなくても眠る間もないほど短い夏の夜に、この世との別れを急かすのかホトトギスよ
これがお市の辞世の句です。それと対になるのが、勝家の
夏の夜の夢路はかなき後の名を雲居にあげよ山郭公(ほととぎす)
<現代語訳>夏の夜の夢のように儚い人生だった我が名を、空高く語り伝えてくれ、ホトトギスよ
実直でまじめ、無骨な男といわれた勝家ですが、娘のように思っていたお市とのわずかな結婚生活は、まさに夢のような日々だったのではないでしょうか。
最後まで、お市を救い出したいと思っていたほど、慕い焦がれていた秀吉。その歪んだ愛情は、その後、茶々を側室にすることで結実させていきます。
戦いによってそれぞれの思いが時に憎しみへと変わる戦国時代の悲哀。戦国の世の影に隠れてしまいがちな女性の一生。兄も2人の夫も高名な武将だったお市にとって、生きるということは常に死と向い合せだったのでしょう。それは、幼き頃に、家族が憎しみ合うという現実を突きつけられてから、ずっと続いていた思いだったのかもしれません。
お市の人生を語る史料はなくとも、夫たちを支え、意志のある娘たちのその後を見るにつけ、才があり、凛とした強い女性だったのではと思いを馳せてしまいます。辞世の句には、自分の人生を生き切った強さが、彼女の美しさをより際立たせているように感じるのです。
アイキャッチ:菊花に蝶 菊川英山(https://colbase.nich.go.jp/)
参考書籍:『お市の方の生涯「天下一の美人」と娘たちの知らざれる政治権力の実像』 黒田基樹著(朝日新聞出版)
『戦国の女性たち』小和田哲男編著(河出書房新社)『浅井三姉妹の真実』 小和田哲男編 (新人物往来社)
『日本大百科全書』(小学館)

