【1】飛躍の始まり 永禄3年(1560)、27歳、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る
ポイントの1つ目は永禄3年、27歳のときの、桶狭間(おけはざま)の奇跡的な勝利です。
信長は天文3年、尾張国(現、愛知県西部)の有力者、織田信秀(のぶひで)と正室の間に生まれました。信秀は、尾張の南半分を支配する清須(きよす)城の織田大和守の配下でしたが、実力を蓄え、隣国の三河(現、愛知県東部)や美濃(現、岐阜県)にまで攻め込む勢いを示します。若き日の信長は野山を駆け、傾(かぶ)いた格好で「うつけ者」と呼ばれますが、正室濃姫の父、美濃の斎藤道三(さいとうどうさん)は信長の器量を見抜いていました。
19歳のときに父・信秀が病没し、家督を継ぐと、主家の織田大和守軍が攻め寄せますが、撃退。2年後に主家を滅ぼして、清須城を奪います。美濃では斎藤道三が息子の義龍(よしたつ)に討たれ、義龍は信長と敵対。そんな中、同母弟の信勝(のぶかつ)が信長に2度謀叛(むほん)し、やむなく弟を手にかけました。26歳のときに尾張北半分を治める岩倉城の織田伊勢守家を滅ぼし、ほぼ尾張一国を平定。その翌年に、駿河・遠江(するが・とおとうみ、現、静岡県)・三河を領有する今川義元(いまがわよしもと)の大軍が尾張に侵攻します。絶体絶命のピンチでしたが、信長自ら桶狭間で休息中の義元本陣に斬り込み、奇跡的な勝利を収めました。翌年、三河岡崎城の松平元康(まつだいらもとやす、のちの徳川家康)と同盟し、尾張の東の守りを固めると、信長の目は北の、斎藤家の美濃に向けられます。

【2】天下布武と包囲網 永禄11年(1568)、35歳、足利義昭を奉じて上洛、義昭を15代将軍に
ポイントの2つ目は永禄11年、35歳のとき、足利義昭(あしかがよしあき)を奉じての上洛です。
永禄6年、信長は清須城から北方の小牧山城に本拠を移転、美濃攻めを本格化させます。美濃では斎藤義龍が病没し、息子の龍興(たつおき)に代替わりしていましたが、美濃攻めは容易でありませんでした。それでもおよそ7年かけて、永禄10年、斎藤龍興を居城・稲葉山城から追い、美濃を奪うことに成功します。
信長は稲葉山城を岐阜城と改めて本拠とし、「天下布武」の印を用いて、天下平定の意志を内外に示しました。なお、この場合の天下は、畿内を意味していたともいわれます。そんな信長を頼ってきたのが、13代将軍足利義輝(よしてる)の弟で、亡命生活を送る義昭でした。義輝は将軍でありながら、家臣の三好(みよし)勢によって京都で討たれ、将軍は三好氏らが都合のよい人物を据えるという、無法がまかり通っていました。信長は、義昭の後ろ盾となることを約束します。なお義昭と信長の仲介役を務めたのが、義昭に従っていた明智光秀(あけちみつひで)でした。永禄11年、義昭を奉じて大軍を率いた信長は、抵抗勢力を破りながら上洛。義昭を15代将軍にして室町幕府を復興するととともに、畿内の敵対勢力を一掃、畿内平定を実現します。義昭は大いに感謝し、これによって将軍を補佐する信長の名は、全国に知れわたりました。
一方で信長は、各地の敵対勢力との戦いを、このときから強いられることになります。敵対勢力らの連携は、一般に「信長包囲網」と呼ばれます。包囲網の時期や区分の仕方には諸説ありますが、本記事では元亀元年(1570)から天正8年(1580)までの約10年間に、第1次、第2次、第3次の3つの包囲網があったという説で紹介します。
発端は元亀元年、上洛要請に応じない越前(現、福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)を、信長が攻めたことでした。突如、信長軍の背後を、北近江(現、滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)が衝きます。信長は辛くも脱出して挟撃(きょうげき)をかわし、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破りますが、これに呼応するように摂津(現、大阪府北中部他)で三好勢が敵対。また浅井・朝倉連合軍が近江で織田方の城を攻め、これに比叡山延暦寺も協力します。さらに一向一揆(いっこういっき)の元締めである大坂本願寺も敵対を表明。これが「第1次信長包囲網」でした。このとき、将軍義昭は終始信長に協力して対処にあたり、義昭と朝廷の仲裁で敵対勢力とは一時的に和睦します。もちろん事態が解決したわけではなく、信長にすれば態勢を整えるためのインターバルであったでしょう。

【3】室町幕府の終焉 天正元年(1573)、40歳、槇島城で挙兵した足利義昭を破り、追放
ポイントの3つ目は天正元年、40歳のとき。足利義昭の京都追放と、室町幕府の終焉です。
一時的な和睦が長続きするはずもなく、約半年後の元亀2年(1571)5月、大和(現、奈良県)で松永久秀(まつながひさひで)が信長から離反すると、各地の敵対勢力も再挙し、浅井、朝倉、比叡山、本願寺、三好らによる「第2次信長包囲網」が形成されました。対する信長は、「各個撃破」で臨みます。まず同年9月、信長は比叡山を焼き討ちし、敵対勢力に容赦しない姿勢を示しました。ところが翌元亀3年、戦国最強を謳(うた)われた甲斐(現、山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)が西へ進撃、信長の同盟者・徳川家康を遠江三方ヶ原(みかたがはら)で打ち破ります。信玄がこのまま織田領に侵攻すれば、信長は包囲網で身動きができぬ中、信玄と戦わなくてはなりません。信長は大ピンチを迎えました。そしてあろうことか、将軍義昭が信長を見捨て、包囲網陣営に味方します。「勝ち馬」に乗ったのでした。ところが、三河まで進んだ武田軍は突如、反転し引き上げてしまいます。信玄が病に倒れたためでした。信玄はほどなく逝去。
将軍義昭は大いにあわて、信長と和睦しますが、3ヵ月後に再び挙兵。信長の報復を恐れたため、ともいわれます。信長は義昭の拠る宇治の槇島(まきしま)城を落とすと、義昭を京都から追放しました。ここに室町幕府は、実質的に滅亡。しかし将軍義昭の策謀は、この後も信長を苦しめることになります。
包囲網陣営の形勢が不利となる中、信長は8月に朝倉、9月に浅井、11月に三好義継(よしつぐ)を滅ぼします。見事な各個撃破でした。12月に松永久秀が降伏し、「第2次信長包囲網」は崩壊。残る畿内の大敵は、大坂本願寺のみとなりました。

【4】包囲網の消滅 天正8年(1580)、47歳、本願寺、大坂より退去
ポイントの4つ目は天正8年、47歳のとき。大坂本願寺の退去と、信長包囲網の消滅です。
本願寺との決戦を前に、信長は天正2年(1574)、尾張に近い伊勢(現、三重県東部)長島一向一揆を殲滅(せんめつ)。このときの先陣の1人が、木下小一郎(きのしたこいちろう)でした。翌年5月には家康の要請に応えて三河長篠(ながしの)に出陣、武田信玄の息子・勝頼(かつより)率いる武田軍を打ち破ります。さらに8月には越前の一向一揆を殲滅して、本願寺の影響力を削ぎました。そして天正4年(1576)5月、いよいよ大坂本願寺攻めが始まります。
本願寺の守りは堅く、信長は木津川口を水軍で封鎖して、本願寺の補給を遮断。ところが7月、西から現れた大船団が信長の水軍を破り、本願寺に食糧を運び入れます。中国地方の覇者・毛利(もうり)氏の水軍でした。実はこのとき、毛利氏の領内に将軍足利義昭がいます。義昭は毛利輝元(てるもと)に信長と戦うことを求め、輝元は承諾、本願寺を支援しました。また将軍義昭は毛利と協力して信長を討つよう、甲斐の武田勝頼、さらに越後(現、新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)にも呼びかけます。武田信玄と並び、戦国最強を謳われた謙信もまた、承諾。毛利や謙信が信長との戦いを決断したのは、信長の勢力があまりに急拡大したことへの強い警戒感がありました。かくして毛利、本願寺、上杉、武田らによる「第3次信長包囲網」が形成されます。プロデューサーは、将軍足利義昭でした。
この情勢に天正5年(1577)、大和の松永久秀が再び挙兵。同年9月には加賀(現、石川県)の手取川(てどりがわ)で、柴田勝家(しばたかついえ)率いる織田軍を、上杉謙信が打ち破りました。謙信はいったん越後に戻り(このため、松永久秀は敗死)、翌天正6年、信長との直接対決が予想される中、病で3月に急逝します。一方、中国地方では、毛利氏が播磨(現、兵庫県南部)の諸勢力を織田方から寝返らせ、播磨平定を進めていた羽柴秀吉は、別所(べっしょ)氏の三木(みき)城攻めを強いられました。さらに織田家重臣で摂津有岡(ありおか)城の荒木村重(あらきむらしげ)が謀叛、本願寺と結びます。これに呼応するように、毛利の大船団が再び木津川口に来航。
これに対し信長は、大砲を備えた大安宅船(おおあたけぶね、一説に鉄甲船)の艦隊を派遣して毛利水軍を迎撃、本願寺への補給を阻止しました。翌年には明智光秀が丹波(現、京都府中部、兵庫県東部)・丹後(現、京都府北部)を平定、摂津有岡城が落ち、天正8年(1580)1月には羽柴秀吉が三木城を攻略、播磨を平定します。孤立した本願寺は閏3月に和議に応じ、大坂を退去。10年に及ぶ信長と大坂本願寺との戦いが終わり、将軍義昭が画策した「信長包囲網」もここに消滅しました。


【5】戦国最大の謎 天正10年(1582)、49歳、本能寺の変
ポイントの5つ目は天正10年、49歳での、本能寺の変による最期です。
包囲網消滅後、北陸では柴田勝家が加賀を平定、中国では羽柴秀吉が因幡(現、鳥取県東部)、淡路を平定して毛利の勢力を西へ後退させます。天正10年3月には、信長の長男信忠(のぶただ)が中心となって宿敵武田氏を滅ぼしました。中国では羽柴秀吉が備中(現、岡山県西部)の高松城で毛利輝元と対峙し、毛利との最終決戦に秀吉は信長の出馬を仰ぎます。承諾した信長は明智光秀を先発させ、自ら京都へ赴いたところに起きたのが本能寺の変でした。天下統一を目前にした信長を、なぜ光秀は討ったのか。戦国最大の謎とされています。

以上が信長の生涯のアウトラインですが、いかがでしたでしょうか。年表のすべては下に掲載します。また、もう少し詳しく知りたくなった方は、和樂webの関連記事もぜひ、ご一読ください。




