前編はこちらから: 散る桜と咲く桜、なぜ両方が美しい?神経美学者が見つけた「美を感じる脳」
中編はこちらから:鏡を見ずに、衣擦れの音を聞きながら。着物に宿る「美しいアフォーダンス」とは
古語「ありがたし」と英語「サブライム(sublime)」
伊藤仁美(以下、伊藤) 西洋から生まれた神経美学を、日本人にどう届けていくか。その課題はどう考えていらっしゃるのですか?
石津智大(以下、石津) 鋭いご質問です。短い答えを先に言うと、「まだわかりません」というのが正直なところです。
ロンドンで崇高・畏敬のMRI実験をしていたころ、西洋の被験者には「サブライム(sublime)」、日本人には「崇高、畏敬」と伝えていたのですが、自分でやっておきながら両者の理解が同じではないことに気づいてしまった。百パーセントの翻訳ができないんです。

10年以上研究してきて、いま一番近いと感じている言葉が、古語の「ありがたし」。「有ることが難しい」と書いて、「そこに存在していること自体が奇跡的である」という感覚です。単なる感謝の意味ではありません。西洋のサブライムが本当に伝えたいのは、ここなんじゃないかと。
ただ希望もあって、私たちは生物学的には同じ脳を持っているはずです。能舞台の余白や静寂、東洋の掛け軸は西洋の人にもまったく通じないわけではなくて、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』にも10秒の無音があり、西洋の大聖堂にも左右非対称のものがある。表現系が違うだけで、感じ取る力は人類普遍のものだと思っています。
AIに「内臓」をつけるプロジェクト
石津 いま私が取り組んでいる大事なプロジェクトに、「AIに内臓をつける」というものがあります。
伊藤 内臓ですか。
石津 目的は「AIに道徳を学ばせる」こと。生成AIの進化があまりに速くて、人間の道徳観をAIが学習しないまま能力だけ伸びていくと、両者の間に様々なズレが出る。これを揃える「Human-AI Alignment」という学問分野がすでにあって、その重要な課題の一つが道徳観なんです。

東大の國吉康夫先生と一緒に取り組んでいるのが、赤ちゃんロボットに内臓をつけて観察するというアプローチです。子どもにも「原初の道徳心」があるといわれていて、「自分が心地よいことは相手も心地よいだろう」「自分が痛いことは相手も痛いだろう」と、自分の体を使って相手をシミュレーションするんですね。
でも大人の道徳観は、「自分は痛くても相手のために身を挺す」というものです。それを実現させるには、まずそもそも自分が痛みを感受できることが必要になりますね。そのために人間が経験するような痛みや不快を受けとれるように身体を作る。
その不快を乗り越えてでも他者に何かしてあげる行為ができたら、そのAIには、人間のいうところの道徳観が生まれている、と考えられるかもしれません。
資生堂と取り組んだ「畏敬体験」の映像
石津 同じ流れで、資生堂さんと取り組ませていただいたプロジェクトも興味深いです。「畏敬」という体験についてのものなのですが、畏敬体験というのは、自分よりも圧倒的に巨大なものを前にしたときの圧倒感や、自己が小さく感じられる体験です。
これが今、北米でも企業の方々の注目を集めている理由は、畏敬を感じた後、人は他人への優しさが強くなる、つまり「向社会性」が増えるからなんです。カリフォルニア大学の実験で、誰かが困っている場面、たとえば物を落としたとき、前もって畏敬を感じさせていた人たちは率先して拾ってあげるという結果が出ています。

16Kのモニターに映す映像作品を、資生堂と資生堂クリエイティブの方々が作成するプロジェクトのお手伝いをしました。見ているだけで畏敬体験ができて、自己感覚が縮小すると、肌の悩みやストレスも縮小する。化粧品会社が、若々しい肌だけではない美、たとえば刻まれたシワの美しさ、お年を召した方の柔和な表情の美しさにも目を向ける、その大切さを訴える意味でもあったんです。
伊藤 マザー・テレサの晩年の写真を見たときに感じる美しさと近い気がしました。先ほど映像も拝見しましたが、最後に滝が広がって虹が見えた瞬間、自分が自然の中で生かされているとあらためて感じました。

三世代の着物と、メタバースに欠けている感覚
伊藤 日常の些細なことに悩んでいたとしても、祖母が着ていたものを纏った瞬間、時の軸がぐっと奥行きをもって立ち上がってくるんです。「自分はとても小さなことで悩んでいたんだな」とふっと思える瞬間があります。
石津 三世代にわたる着物を着ていたら、それを血のつながった祖母やひいおばあさまが着ていたという事実だけで、守られている感じがします。

ここで興味深い問題と結びつきます。メタバースの世界では、現実世界に比べて、物や人を大事にしなくなることが知られています。アバターに暴言を吐いたり、物を粗末に扱ったり。デジタルデータだから、という理由もありますが、もう一つ大きいのは「自分のもの」という感覚の希薄さです。
心理学に「保有効果」という概念があって、自分が所有していると感じているものに対して、人はより大事にし、価値を高く感じる。三世代にわたる着物のあり方は、この保有効果のひとつの例かもしれません。メタバースの中で現実の価値をどう実装するかという問題に、ファッションではない着物のあり方が、何かヒントを持っている気がします。
心地よいと、美しいは隣り合わせ
伊藤 私が「纏う」をお伝えするときに大事にしているのが、誰かが決めた美しさではなく、自分が心地いいと思う感覚なんです。心地よさと美しさは、ものすごく近いところにあると思っていて。
石津 とても面白いテーマです。ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館にコルセットや中世のドレスがありますが、あれを見ていると、「衣服によって体を形作る」という思想がすごく強い。伊藤さんのお話は「自分の心地よいように着られる、それがいい」というあり方で、すごくいいコントラストです。

伊藤 着物を纏うことで心地よさに目を向け続けていると、選択の連続である毎日の中で、自分の心地よさに正直に生きていけるのではと思っているんです。流行っているからとか、誰かが言ったからではなくて、自分は本当に心地いいと思っているかを見つめてみる。こういう時代だからこそ、そういった直感力が大事になってくるのではないでしょうか。
石津 まったく同意です。生成AIの時代、誰かが、あるいはアルゴリズムが「心地よさそう」と決めたものが際限なく流れてくる。みんながアクセスできるから、そこに差が生まれにくく、価値も生まれにくい。その中で「本当に自分が心地いいもの」を選ぶ力こそ、今の時代に必要な感覚です。誰も選ばなくていい時代になったからこそ、選ぶ行為そのものに価値があります。
「無」の美と、loneliness と solitude のあいだ
伊藤 先生がこれから挑戦されたいことは。
石津 いま一番訴えたいのは、「無」についてです。何もなくても、何も聞こえなくても、人間は美しさや感性的な情報を生み出すことができますが、生成AIが跋扈する状況ではそれは起きにくくなっていると思います。「無音」だけれど、そこに音楽の美を感じているとき、脳がどう反応しているか。それを示すことで、いろんな人に見えない、聞こえないものの価値に気づいてもらいたいと思っています。
もう一つは「孤独」についてです。英語には loneliness と solitude の二つがあって、loneliness(孤立)とは会いたいのに誰にも会えないことです。こちらは対処する必要があります。でもsolitude、つまり一人でいる時間、自分の中に潜っていく時間は、一人でないとできない大事な時間でもあります。こちらは、私たちに必要な孤独のあり方だと思います。
いまはポジティブを最大化してネガティブを最小化する風潮ですが、孤独の時間の沈潜、悲劇から生まれる美しさも畏敬の感覚も、社会を結びつける力を持っている。「ネガティブでもいいんですよ」と神経美学を通して訴えていきたい。これがこれからの挑戦です。
伊藤 素晴らしいですね。今日は、すごく勉強になるお話ばかりでした。ぜひ、着物を纏うときの脳の動きを先生と一緒に研究したいです。
石津 やりましょう。洋服と着物、同じ人で実験的な統制も取れます。
伊藤 はい、実験体としてぜひ。

(Text by Tomoro Ando/安藤智郎)
(Photos by Yuji Imai/今井裕治)
Profile 伊藤仁美
着物家
京都の禅寺である両足院に生まれ、日本古来の美しさに囲まれて育つ。長年肌で感じてきた稀有な美を、着物を通して未来へ繋ぐため20年に渡り各界の著名人への指導やメディア連載、広告撮影などに携わる。 オリジナルブランド「ensowabi」を展開しながら主宰する「纏う会」では、感性をひらく唯一無二の着付けの世界を展開。その源流はうまれ育った禅寺の教えにある。企業研修や講演、国内外のブランドとのコラボレーションも多数、着物の新たな可能性を追求し続けている。
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和を装い、日々を纏う。Profile 石津智大
神経美学者/関西大学教授
1979年、東京都生まれ。2009年、慶應義塾大学大学院で心理学博士を取得後、渡欧。ウィーン大学心理学部研究員・客員講師、ロンドン大学ユニバーシティカレッジ生命科学部上席研究員などを経て、2020年より日本に活動拠点を移し、大学で教育・研究に従事している。著書に『神経美学—美と芸術の脳科学』(共立出版)、『なぜアートに魅了されるのか』(共立出版/分担執筆)、新著『泣ける消費』(サンマーク出版)など。
Shiseido Beauty Park INFO

Shiseido Beauty Parkは資生堂社の研究開発拠点の1-2階にあり、創業以来受け継がれてきた「Art & Science」のDNAを感じられる体験型施設。1階では、先進サイエンスに基づく未来の美の可能性を、2階では、”Art”の視点から五感を通じて資生堂社の歴史と美意識を体感できます。
「AWE体験」に着目した、見るだけで美しくなれる映像体験「Beauty Retreat Theater」

AWE体験とは、果てしなく広がる壮大な風景などに触れ、自身の存在の小ささを感じる体験のこと。脳活動に変化を起こし身体の炎症を抑え、利他の精神を高めるなど心や身体、そして社会へと様々な良い影響をもたらすことが報告されています。世界最大級の16K大画面と映像に合わせて調合された香りによる特別な映像体験です。
所在地:横浜市西区高島一丁目2番11号
アクセス:
みなとみらい線「新高島」駅 1・2番出口すぐ
JR/市営地下鉄「横浜」駅 東口から徒歩10分
入場料:無料
定休日:月曜日、年末年始(月曜日が祝日、振替休日の場合は、火曜日が定休)
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