小牧・長久手の戦いを味わい尽くす古戦場
長久手古戦場は現在、古戦場公園として整備されています。秀吉方の武将であった池田恒興(いけだつねおき)や池田元助(もとすけ)親子も主力となって戦いましたが、この地で討死にしてしまいます。そのためここには恒興を弔った勝入塚(しょうにゅうづか)や元助を弔った庄九郎塚(しょうくろうづか)が築かれています。塚を目の前にすると、現在の穏やかな風景とは裏腹な、当時の戦の厳しさに思いを馳せる時間に。そして改めて、自分達は歴史の上に立っているのだということを実感します。ちなみにこれは余談ではありますが、公園内には弓道場があり、高校時代に弓道部だった僕は、ここで大会に出場したことがあります。古戦場で弓を引くというのは、非常に味わい深い体験でした。

歴史のど真ん中!血風吹き荒れた8か月
小牧・長久手の戦いへのモチベーションが高まったところで、古戦場公園の中でも今注目のスポットである、令和8(2026)年の4月にオープンしたばかりの長久手古戦場記念館を訪問。学芸員の井戸裕貴(いどゆうき)さんにお話を伺いました。

「小牧・長久手の戦いは、天正12(1584)年3月から11月まで、8か月続いた戦いとされていますが、一番大きな戦いが4月9日に起きた『長久手の戦い』でした。とはいえ江戸時代などの資料を見ていると、“小牧の陣”や“長久手の戦い”という言葉は出てくるのですが、小牧・長久手の戦いと表現する資料はほとんどありません。この言葉が使われるようになったのは、歴史学者たちが、この戦いをまとめて捉えるようになってからなんです。実際には、この期間の戦いは、現在の愛知県だけでなく、三重県など各所で行われていました」と井戸さん。

まず最初に驚いたのは、小牧・長久手の戦いというのは総称だったということです。数多の戦いをワンセットで表現することは、秀吉VS信雄・家康という構造を理解するための工夫であり、かつての当事者たちが明確に線を引いて認識していたわけではないのです。しかしこの一連の戦いを経て、秀吉は信雄と和睦・休戦。そして戦いの大義名分を失った家康を秀吉は懐柔し、天下統一へと歩みを進めていきました。この点からも小牧・長久手の戦いは、当時を語る上でのメインストリームであることは疑いないでしょう。
新たな発見!歴史は今も精細化し続けている
秀吉よりも軍事力で一枚上手となった家康……、そんな印象のある小牧・長久手の戦い。秀吉は家康を武力で打ち破ることを断念し、政治的手腕を持ち込んだ、というイメージが色濃くあります。しかしながら2026年8月、兵庫県たつの市で発表された書状によって、そのイメージが覆されそうな流れもあるそうです。
「秀吉が家臣の脇坂安治(わきざかやすはる)に送ったもので、『家康が人質を出すから和睦しようと持ちかけてきた。同意せずにいたら、さらに人質を出すと言ってきた』という内容でした。時期的には秀吉と信雄の和睦が成立する前です。我々の中では軍事的に家康優勢・秀吉劣勢の認識でしたが、戦に音を上げたのは逆であると言わんばかり。これには驚かされました」と井戸さん。

これまでの歴史観を大きく覆す発見。大河ドラマ『豊臣兄弟!』イヤーに発見されたというのも、運命めいたものを感じずにはいられません。無論、この書状の内容は秀吉の主張であり、認識の齟齬(そご)や虚勢のようなものが含まれていないとも限りません。実際に信雄サイドの書状には、秀吉から和睦を持ちかけられたと書かれているものもあります。それでもこれまでの定説に加え、新説が加わることで、ますます歴史の深みと面白さが増す発見だと思います。
これもひとつの“天下分け目”の戦い
実際に秀吉の戦意は、小牧・長久手の戦い休戦後も、まだ失われてはいなかったのだそうです。
「天正13(1585)年11月に近畿地方で、大きな地震(天正地震)が発生します。当時、秀吉は再度、家康を攻める準備をしていました。しかし復興でそれどころではなくなり、戦の計画は頓挫したと言われています」と井戸さん。
この地震の有無で、歴史の教科書は随分変わったはずです。秀吉が計画通りに攻め込んでいたとしたら、今度こそ家康は凌ぎ切れたかどうかわかりません。そうなれば秀吉に臣従し、豊臣政権内での地位を確立し、未来へ備えた家康の立ち回りも、現在の歴史通りにはいかなかった可能性も大きそうです。もちろん、家康が秀吉を打ち破るパターンだとしても、大幅に展開は変わります。歴史は様々な要素が絡み合って形作られているのだと実感するばかりです。
そして同時に、この地震があり、秀吉の攻撃計画が実行されなかったからこそ、結果として日本史における小牧・長久手の戦いの重要性が、高いものになったとも言えるでしょう。これほど歴史の物語に影響を与えた割には、教科書での扱いも、そして我々の中での存在感の面でも、小牧・長久手の戦いは、いささか影が薄いと言わざるを得ません。重要度を考えれば、もっとフィーチャーされても良いはずです。結果的には、この戦いも十分に“天下分け目”だったと言えるわけですから。
「ただ、実際には秀吉と家康の直接対決というイメージとは裏腹に、正面から戦場でぶつかったわけではありません。長久手の戦いでも、秀吉が駆けつけた頃には家康は帰還済みでした。それも理由のひとつなのかもしれません。また、小説やドラマで大きく描かれていないので、印象に残りにくいのかもしれませんね」と井戸さんは語ってくれました。

現代の技術、古からの史料。ハイブリッドで楽しい展示
長久手古戦場記念館は、古から伝わる史料だけでなく、最新技術を活かした展示内容で、老若男女問わずに楽しみながら理解を深められる施設となっています。近隣の巨大ショッピングモールや人気大型家具店は、しばしば利用している僕ですが、ここは初訪問です。和樂webライターのひとりとしては不覚……。その分、読者と同じ目線で、たっぷりと満喫させていただきました。
まず何と言ってもインパクト大だったのが、巨大な長久手合戦図屏風です。原本は徳川美術館所蔵のものですが、この長久手古戦場記念館に展示されているのは復元模写。歴史と共に蓄積されたダメージや破損部位を含め、当時使われたものと同素材・同原料にて補完しながら、完成時の状態を再現している逸品です。力強く、静止画でありながら躍動感さえ感じさせる、迫力満点の逸品です。

さらに驚かされたのは、プロジェクションマッピングによる解説。立体的なスクリーンに映し出される、山々や川などの地形とともに、各隊の動きも映像にて解説され、俯瞰で戦の一挙手一投足を観察することができます。まさに本物の戦いの気配を感じさせ、何ともスペシャルな体験が味わえます。視覚的要素と、歴史を感じさせる貴重な史料といった硬派な展示があり、飽きさせない工夫が随所にありました。

個人的に嬉しかったのは収蔵展示。いわゆる展示から一歩踏み込んで、収蔵庫を覗き見できるような構造になっています。金属製のラックに整然と保管され、温度や湿度の管理がされている様子も感じられるのです。実銃の火縄銃をはじめとする品々の素晴らしさもさることながら、その保管状況に歴史へのリスペクトが滲み、胸を打たれてしまいます。

ゲームで挑戦する火縄銃体験や、陣羽織・兜の試着および撮影といったアトラクション的なセクションも非常におすすめです。ここでは僕も実際に体験させてもらいました。
最後に
知れば知るほどに、戦国史どころか日本史全体の分岐点になったとわかる“小牧・長久手の戦い”。だからこそ、もっと知られても良いのでは?と口惜しい気持ちがあります。
愛知県民であり、今回取材をさせていただいた者として、微力ながら語り部となれればと思います。もちろん創作物で、いつかこの8か月にフォーカスした作品が映像化される日が来たならば、出演できるように腕を磨いて精進しておきますよ!
長久手古戦場記念館
住所:愛知県長久手市武蔵塚204
開館時間:9:00~17:00(最終入館16:30)
休館日 火曜日(祝・休日の場合開館、翌平日休館)
料金:大人(高校生以上) 400円(但し、企画展開催期間は変更する可能性あり) 中学生以下無料
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