Culture
2019.11.15

信長も秀吉も、戦国時代は何をしたら天下統一だったの?歴史のプロに聞いてみた!

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「戦国時代っていつからいつまで?」「天下ってどこからどこまで?」えっ…そこから?! なんて言わないで! 歴史の知識ほぼゼロな和樂web編集部スタッフが、ず〜っと気になっていた戦国時代の疑問を、歴史のプロに聞いてみました。

たぶん日本一やさしい戦国時代入門

2020年、大河ドラマの舞台は戦国時代。主役は明智光秀。歴史に詳しい人ならおもしろいだろうけど、基本のキの字もわからない。そんな私たちでも、戦国時代のことを楽しく学べるコンテンツはないだろうか?
そんな思いから生まれたのが、この企画です。戦国時代にまつわる質問を、歴史のプロにぶつけて全て答えてもらいます! 回答は、和樂webのライター・辻 明人さん。質問は、和樂web編集部(コパ子、きむら、とまこ)です。

辻さんを取り囲む3人。左から、兜をかぶっているのがコパ子、紺色の羽織を着ているのがきむら、右の赤い羽織を着ているのがとまこ。3人とも歴史に関しては、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康をなんとな〜く覚えているくらいの知識量。

【辻 明人さん プロフィール】

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。編集部を離れるも、いまだ燃え尽きておらず、noteに歴史記事を自主的に30日間連続で投稿していたところ、高木編集長に捕獲される。「歴史を知ることは人間を知ること」だと信じている。ラーメンに目がない。

戦国時代って何…?

― 戦国時代って、どんな時代か簡単に教えてください!

ハイリスクハイリターン、誰にでもチャンスのある時代です。いつ殺されるかもわからない極めてハードな状況ではありますが、足利将軍がいない中、全国に有力大名が現れて、誰でも野望を持つことができました。武士でなくても、実力と才覚次第で出世、あわよくば天下統一を目指せる夢のある時代だったと思います。

― 戦国時代はいつからいつまでのことを指しているんですか? 年号をなかなか覚えられなくて…。

諸説ありますが、一番覚えやすいのは「応仁の乱(1467年)」が始まってから「大坂夏の陣(1615年)」が終わるまでの約150年間です。

超ざっくり年表。

まずは、戦国時代の始まりとされる1467年の「応仁の乱」について。それまでの京都は足利将軍が統治する室町時代が続いていましたが、やがて将軍の弟と息子で後継争いが始まります。これが「応仁の乱」の始まりです。

両軍ともに兵を集めてだんだんと大きくなり、しまいには「良い条件だすからこっちこない?」みたいな駆け引きまで始まって、もう誰が敵だか味方だかわからなくなってしまう。そんな状態が10年間続き、京都がぐちゃぐちゃになる。いわゆる「乱世」…その名前のとおり、世の中が乱れてしまうわけです。これが戦国時代の始まりです! そのあとは「じゃあ俺が!」「私が!」と全国のあちこちから戦国大名が登場します。

― 将軍の後継争いが戦国時代の始まりだったんですね!

そうなんです。その後、織田信長の後押しで足利義昭が15代将軍に就任し、統治を図るんだけど、将軍と信長が喧嘩して、最終的には信長が将軍を京都から追っ払っちゃうんですね。それで室町幕府が滅んじゃう。これが1573年のことです。

ちなみに戦国時代の期間には諸説あると言いましたが、こんな考え方もあります。教科書では室町時代(戦国時代)と江戸時代の間に「安土桃山時代」って入っています。覚えていますか?

信長や秀吉が活躍した時代を安土桃山時代(織豊時代)と呼んで、戦国時代と区別する考え方もある。

安土桃山時代は、信長が室町幕府を滅ぼした1573年から、関ヶ原の戦いを経て江戸時代に入る1603年までの期間を指します。戦国時代はそれ以前のこと、という捉え方です。

― う〜ん。なんとなく、覚えているような…。

細かく説明してみましたが、時代の区分は、正直、あまり気にすることはないです。しょせん後世の人間たちが便宜的に区分したものなのでそれを厳密に覚えても意味がない。「応仁の乱」で統治がぐちゃぐちゃになって、最終的な戦いが「大坂夏の陣」で終わる。それさえおさえればOKです。

何をしたら天下統一なの?

― 信長が登場しましたが、天下統一の「天下」って、どこからどこまでのことを指しているんですか?

きましたね〜! はい。まずは、この地図をご覧ください。みなさん、天下統一ってどこからどこまでを支配することだと思いますか?

― 北海道から九州まででしょうか?

現代の全国と同じようなイメージですよね? ところが、信長が将軍を後押ししていた頃までは、天下ってもっと狭い地域のことを指していたんですよ。どこからどこまでかというと…今でいう京都府の南部と奈良県、あと大阪府。関西よりも小さな「畿内」というエリアのことを「天下」と呼んでいたんです。

京都を中心とする畿内(山城、大和、摂津、河内、和泉)=天下だった。

― えっ……? 天下、小さっ…!!

なんでこのエリアが天下だったのかというと、ここに天皇と足利将軍がいたから。しかも将軍の勢力がおよぶ範囲って、このエリアだけなんです。この頃は全国に将軍の力がおよんでいなかったんですよ。
信長は1567年に岐阜県にある稲葉山城(岐阜城)をとったあと、「天下布武」というスローガンを掲げ始めるんですね。これは天下統一という意味に誤解されやすいのですが、この場合の天下は、全国ではなくて、足利将軍が統治する畿内のことと最近は考えられています。畿内に武を布(し)いて、将軍の統治を確立させるという意味。そして1568年に足利義昭を後押しして京都で将軍にし、室町幕府を復興した時点で、信長の「天下布武」はほぼ達成されるんです。

ただしその後、将軍が信長と敵対して室町幕府が滅び、信長が畿内の外の敵対勢力を制圧していく中で、信長の目は全国制覇に向けられていきます。つまり足利将軍の代わりに信長が中央を掌握し、諸大名を従えていく動きの中での天下統一は、全国統一を意味することになっていくのです。

― 信長のイメージした天下統一は、私たちのイメージする天下統一と同じってことですね。

そうです。豊臣秀吉は信長がやろうとしたことを受け継いでいますから、秀吉の時代で私たちのイメージする天下統一が成し遂げられる。文字通り、北海道から九州まで全部が秀吉に従いましたという状態です。なので「天下」のイメージは、信長が室町幕府を滅ぼす前と後で違うということです。

― みんな、何で天下統一したかったんですか?

シンプルにいえば、戦をなくしたかった。戦は、人もお金も時間もかかって、いろんなものが失われる。勝てば大名の領土は広がるかもしれないけど、巻き込まれる人たちはヘトヘトになっちゃう。それが天下統一によって落ち着くかもしれないということで、庶民からも期待されていました。

ただ、秀吉が天下統一を成し遂げたとき、問題が起きてしまった。充実した武力を持つ大名も兵士も、戦がなくなり給料が増えない。秀吉自身も目標を失った。だんだん不満がでてくるわけです。

そこで秀吉が何をしたかというと「全国制覇したし、力はあり余っているから、次は海外でも行くか」と中国大陸を目指してしまう。それが1592年と97年の朝鮮出兵になるんですね。

結局、朝鮮出兵は大失敗して豊臣家が滅ぶ大きな原因になるんですけど、そのあと秀吉が死んじゃって。

…で、関ヶ原の戦いを経て「そろそろ戦やめましょうかね」と徳川家康がバチっと王手を指す。150年の戦国時代が終わり、平和な江戸時代へと突入します。

― うおお。150年の戦国時代の大きな流れが、あっというまにわかりました…!

歴史のプロに聞いてみたシリーズ、次回へ続く!

戦国時代の食事は? トイレは? 連絡手段はどうしていたの? 引き続き、歴史のプロ・辻さんに質問します! 次回の記事もお楽しみに。

戦国時代っていつからいつまでだっけ? と自信のない方はこちら

3分でわかる記事は以下よりどうぞ!