スポーツの世界では「フェアプレイ」が重んじられる。柔道や相撲などの接近戦では、ケガがつきもの。勝つためには、ケガをした足を狙うべきか否か。当事者であれば迷うところであろう。確かに、スポーツマンシップに則れば、相手の弱点を狙うことは炎上覚悟、卑怯な戦法だといえる。しかし、過程が立派でも結果がなければ表彰台には昇れない。どんな手を使ったとしても、勝てば「勝者」。それが勝負の厳しい世界なのだ。
戦国時代であれば言うに及ばず。なおさら「勝者」にこだわるべきだろう。なんといっても、武将の決断で多くの命運が分かれるからだ。自身の命はもちろん、一族の、家臣の、民の…と守るべきものが延々と続く。名誉や誇りにこだわるよりも、泥臭くても勝ちさえすればよい。大義名分さえあれば、勝てば「勝者」なのだから。このような論理思考で、戦国時代には、正攻法のみならず様々な戦法が各地で編み出されていく。
今回は、そんな戦国時代の驚くべき戦法をご紹介。正攻法から「嘘だろ⁈」的な戦法まで、とくとご覧あれ。
戦にだって作法がある!
まずは戦国時代の正攻法、いわゆる合戦の際の「作法」を簡単に紹介しよう。
意外だと思われるだろうが、いきなり両者が攻め込んで戦いは始まるものではない。じつは決められた手順を踏んでから、戦いが行われていた。
最初が「矢合わせ」である。両者、共に自軍を敵陣の近くまで進める。一番目の矢は、音がする「鏑矢(かぶらや)」。これをきっかけとして弓隊から一斉に矢が放たれる。敵陣とは距離にして90~120メートルほどだとか。
次に「槍合わせ」である。3間(約5.4メートル)以上の長さの「長槍(ながやり)」を持った一団(長槍隊)が敵軍を突きに行く。相手方との距離は縮まり、22~24メートルほどとなる。ちなみに、長槍はどちらかというと「叩く」ことの方が多かった。いかに、叩いて、足を払うか。そうして相手が倒れれば、槍で突くという流れである。
「槍合わせ」がおわれば、ここでようやくの「騎馬隊」である。長槍を持った騎馬隊が、敵軍を切り崩しにかかる。そこからは、敵味方入り乱れての「戦国時代の戦」というイメージ通りの乱戦である。戦いながらも、敵将は戦況を見て陣形を変え、人員を采配する。暫くするとどちらが優勢かが明らかになってくる。一方で、戦況が不利な側は退却を決断。軍の動きは、戦いを止めて撤退へと変わるのだ。こうして、戦の勝敗が決するのである。
でもやっぱり奇襲攻撃が好き?
戦の手順を踏まずに戦を仕掛ける。その代表格が「奇襲攻撃」であろう。とにかく、戦う意思はある。積極的に勝ちに行きたい。しかし、兵力差がある。このような場合に、手順を踏まずに、相手の隙を突こうと考えるのだ。
相手を油断させるには、絶対に攻めてこないだろうと思う状況を作ることである。もしくは、物理的に油断する状況を狙うか。それが「夜討ち朝駆け(ようちあさがけ)」である。「夜討ち」は夜襲、「朝駆け」も早朝の急襲で、どちらも相手の疲労がピークになった時間帯に攻撃を仕掛ける。敵陣の近くまで移動するのも、夜陰に隠れて行うことができ、効率的だ。
ただ、昼の日中(ひなか)に奇襲を行う場合もないわけではない。それが、ようやく尾張(現在の愛知県)を統一したばかりの織田信長の名を一気に広めた「桶狭間(おけはざま)の戦い」である。
永禄三年(1560年)、駿河(静岡県)などを治めていた戦国大名の今川義元(いまがわよしもと)は、織田信長に包囲された鳴海城(なるみじょう)や大高城(おおたかじょう)の救援に向かう。当時の兵力差は、10倍以上といわれている。今川義元軍は、2万5000、もしくは4万5000とも。一方、織田信長軍は2000ほどの兵力だったという。いくら精鋭部隊とはいえ、この兵力差では正攻法なら勝てないのは明らかだ。そこで織田信長は、今川義元の居場所を逐一報告させ、正確な位置を把握することにつとめる。
5月19日昼、今川軍は沓掛城から大高城へ移動する道中、桶狭間(現在の愛知県名古屋市)の山中で休息を取っていた。従来の説では、織田信長が迂回をして今川軍に近づき、大雨の中を今川義元本隊の側面と背後を突いて、奇襲したといわれていた。しかし、現在では正面突破で総大将の今川義元のところまでたどり着いて、討ち取ったといわれている。
どちらにせよ、今川義元は桶狭間の戦いの前哨戦で勝っており、油断をしていた。兵力差もさることながら、当時の織田信長はまだまだ無名。そういう意味では、幾重もの油断が、今川義元の隙を作っていたといえる。
なお、この桶狭間の戦いの立役者は、今川義元の首を取った毛利新助(もうりしんすけ)ではない。桶狭間の山中で休息しているとして、正確な位置を報告した梁田正綱(やなだまさつな)だったとか。奇襲攻撃の前提は、早くて正確な情報が決め手となるのだ。
そんなのあり?な「奇策」大集合
正攻法でいく場合は、ともに戦う意思があり、それでいて兵力差がなく五分五分の戦いが見込まれる場合だといえる。一方で、最初から「負け」が明らかである場合、可能な選択肢は二つ。真正面から当たって砕け、派手に討死として散るか、必死にもがいて抗うか。そういう意味では、奇跡が起きない限り勝ち目がないほどの状況の場合に、奇策が生まれるといえる。「なんとしても勝ってみせる」という、武将としての執念が「奇策」を生み出すのだ。
九州・島津家のお家芸「釣り野伏せ」
奇策というか、頭がいいというか。正直、紹介を迷うところではある。そんな戦法が「釣り野伏せ(つりのぶせ)」である。九州の戦国大名、島津義久(しまづよしひさ)がこの戦法の考案者といわれている。
「釣り野伏せ」とは、簡単にいえば「囮(おとり)」大作戦というネーミングになるだろうか。伏兵(ふくへい)を忍ばせておいて、囮(おとり)に引っかかった敵を伏兵が、一気に側面から挟み撃ちにするような戦法である。もともと戦では、敗戦を前にして撤退する敵を後ろから追撃するのが常識。これは叩ける敵を可能な限り潰しておくという考え方で、逃げる者を追う、いわば人間、動物の本能でもある。そこをうまく突くのが「釣り野伏せ」である。
少数の先手だけが先に敵勢と必死で戦い、少しずつ後退していく。そして、このままでは負けるというところで、急に敗走を始める。これに引っかかって、敵勢が追撃の姿勢で先手のあとを追う。このときに、今まで陣形を維持して固まりだった敵勢が縦列に伸びるのである。そこを、伏兵が側面から攻撃するというわけである。敗走していた先手は、一転、向きをくるりと反転して、本隊と共に合流して攻撃する。
「釣り野伏せ」を用いて大勝したのが、「九州の関ケ原」と称される「耳川(みみがわ)の合戦(高城川ともいう)」を制した島津義久である。天正6年(1578年)、薩摩(鹿児島県)の領主となっていた新興勢力の島津義久と、豊前・豊後など6か国を治めていた北九州の大友宗麟(おおともそうりん)が激突。当初、大友軍は島津のお家芸である「釣り野伏せ」を警戒していたという。しかし、自軍が優勢となる展開に。すぐそこに勝ちがあるにもかかわらず、慎重を期して兵を配置するのはなかなか難しい。結果的に、当初の警戒を忘れ、勝ちムードに乗って追撃をし、島津の罠にはまったのだ。かなりの兵力差があったようだが、島津軍が「釣り野伏せ」で圧勝する。
ちなみに「釣り野伏せ」のポイントは、少数の先手の必死さである。「へへっー、ちょろっと戦ってとにかくここまで逃げてきたらこっちのもん」などど、余裕の態度を少しでも見せれば囮(おとり)だと見透かされてしまう。そのため、疑いをかけられぬよう、先手は必死で戦わなければならない。また、先手と伏兵、本隊と、少なくとも兵を3つに分散させなければならないリスクもある。そのため、なかなか高度なテクニックを要する作戦といえる。
膠着状態には「刈田狼藉」
さて、誰もが意欲的に戦うわけではない。どちらかといえば、戦に持ち込みたくない、できれば援軍が来るまで引き伸ばしたいなど、戦況が不利な側は戦に消極的だ。そこで両者にらみ合いの膠着状態となる場合がある。
ただ、積極的に攻めたい側としては、早めにケリをつけたいと思うもの。なんせ、兵糧は減る一方、武器、また人員に関しても余裕を持つほど、戦国時代は安定した世の中ではない。この膠着状態を打破する戦法が、戦に引け目の相手を引きずり出す「苅田狼藉(かりたろうぜき)」である。
苅田狼藉とは、敵の領地内で「田を刈って狼藉を働くこと」。特に収穫前の稲や農作物の刈り取りは効果絶大だったとか。目の前で、自分の領地の作物が無残にも刈り取られるのを黙ってみているわけにはいかないと、不本意ながらも動くわけである。それを狙って戦に持ち込む戦法である。
このほかにも、放火や、略奪などの行為が行われることもある。自分の領地が荒らされると、それを止める行動に出る。ここから戦が始まることが多かった。
悪口に対して冷静になれなかった豊臣秀吉
挑発行為は、相手の領地内だけにとどまらない。小学生の喧嘩と同等、いやそれ以下の幼稚な作戦が「悪口(あっこう)」である。
相手を逆上させ、我を忘れさせるほど激昂させれば、こちらのもの。ちなみに、「悪口」と書いて「あっこう」と呼び、「言葉戦い」などとカッコいい言葉を使われることもあるが、要はただの「わるくち」の応酬である。ホントに低レベルな争いだが、それに引っかかる場合もじつはある。それは、自分の弱点、ウイークポイントを突かれたとき。人はどうしても理性的にはなれないものなのだろう。
天正十二年(1584年)、織田信長の次男である信雄(のぶかつ)・徳川家康の連合軍と羽柴秀吉が戦った「小牧・長久手(こまきながくて)の戦い」では、なにやら、秀吉が逆上したと伝えられている。
「秀吉は野人(やじん)の子」。
敵方の榊原康政(さかきばらやすまさ)の悪口に乗せられ、怒り心頭。秀吉は自身の出自に大きなコンプレックスを持っていた。だからだろう。ただの悪口と分かっていても、触れられたくないデリケートな部分をつつかれると、冷静でいられなくなる。そのため、秀吉は感情のまま兵を動かし、戦況を見極めての采配ができずに、局地戦で負けたといわれている。
なお、「小牧・長久手の戦い」だが、最終的には、秀吉が信雄と和睦へ持ち込み、徳川家康が戦う口実を奪った結果となっている。
人間だって馬だって女に弱い?
日本では、近世まで馬に対して去勢を施していなかった。そのため、馬の気性は非常に激しかったという。その上、戦に使われているのは、牡馬(ぼば)だった。
これを利用して奇策を講じたのが、淡河城(現在の兵庫県にある)の淡河定範(おうごさだのり)だ。定範は、織田信長に反旗を翻した別所長治(べっしょながはる)の家臣である。信長の命を受け羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の中国攻めにさらされる、別所長治の居城の「三木城」。この三木城の支城で、大切な補給ルートだったのが、淡河城なのだ。秀吉の弟、羽柴秀長(ひでなが)を敵将とした羽柴軍が淡河城に攻め込むも、淡河定範の奇策が的中。なんと、淡河城から牝馬(ひんば)を50頭ほど集め、敵軍に向かわせたのだ。
城外は大混乱。だって、馬だって異性には弱い。今は戦の最中だから、なんて理性が働くワケないのである。「メスだ!」とばかりに暴れる馬を制御できず、人は振り落とされ、至るところで欲望が炸裂した(もちろん馬の)。こうして、羽柴軍の兵が乱れたところで、淡河側が反撃を開始。羽柴軍は敗走を余儀なくされたという。
なお、その後の淡河定範はというと、勝ち目がないと悟り、淡河城を燃やして主君のいる三木城へと移動する。その後は潔く自刃したとも、生き延びたともいわれており、定かではない。この三木城の戦いは、のちに有名な「三木の干殺し」と呼ばれ、悲惨な結末をたどる。
身も蓋もない言い方だろうが、戦国時代は「勝ってなんぼ」の世の中だ。卑怯な手を使い、奇策頼りになったとしても、やはり「勝てば官軍」。後世に伝える史実を、勝者が勝手に改ざんすることはよくある話といえる。
だからこそ、実際に伝えられてきた歴史が今になって変わることもある。科学が発達し、歴代の研究者が検証を重ね、様々な説から推測してようやく明るみになる「事実」。じつは、兵数の差がそこまでなかった、三段撃ちは地形的に無理、奇跡ではなく妥当な結論…。残念ながら、数えだしたらキリがない。
真実は一つ。しかし、可能性は無限。
「まさか~(笑)そんなこと、ないない」と思えるくらいが、じつは、歴史のロマンが感じられて、ちょうどよいのかもしれない。
参考文献
『戦国の合戦と武将の絵辞典』 高橋信幸著 成美堂出版 2017年4月
『戦国 戦の作法』小和田哲男監修 株式会社G.B. 2018年6月
『目からウロコの戦国時代』谷口克広 PHP研究所 2000年12月
『あなたの知らない戦国史』 小林智広編 辰巳出版株式会社 2016年12月
『戦国武将の明暗』 本郷和人著 新潮社 2015年3月
『戦国合戦の謎』 小和田哲男著 青春出版社 2015年8月
『戦国合戦地図集』 佐藤香澄編 学研研究社 2008年9月
『大図解戦国史』 小和田哲男ら著 平凡社 20014年1月