日本文化の入り口マガジン和樂web
10月22日(金)
お詫びとお願いと部屋とワイシャツと私(マナやん)
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
10月20日(水)

お詫びとお願いと部屋とワイシャツと私(マナやん)

読み物
Culture
2020.01.05

戦国大名はなぜ名前を何度も変えるの?武将の姓・氏・名の謎を徹底解説!

この記事を書いた人

東京ラブストーリーでの名場面は、なんてたって鈴木保奈美さん演じるリカが「かーんち!」と名前を呼ぶところだろう(例が古くて大変申し訳ない)。身近な例では、晴れて恋人になった場合の相手の呼び方か。自然としっくりする名前で呼び合うものだろうが、それを決めるのも恋愛の醍醐味の一つである。そこで、まさか相手から「下の名前を呼んでくれるな」と言われれば「はあ?」となるに決まっている。

しかし戦国時代では、それが当たり前だった。ドラマでは、「信長様」だの「秀吉殿」などと名前を呼びまくっているが、そんなわけはなかったのだとか。なんでも、当時の慣習では、武将に対して実名で呼ぶのは避けられていたからだ。これこそ、戦国時代の名前あるある疑問の一つである。

今回は、戦国時代の名前にまつわる多くの「どうして?」にお答えする企画。それでは、様々な謎を紹介しよう。

※アイキャッチ画像の出典元は国立国会図書館デジタルコレクション

戦国大名の名前はとっても複雑

最初のあるある疑問は、「どうして、戦国大名って一人でいくつも名前を持ってるの?」である。実際に、これは由々しき問題の一つ。現在勉強している中高生諸君が日本史嫌いになるのもわからなくはない。例えば、「長尾景虎(ながおかげとら)」と「上杉謙信(うえすぎけんしん)」はまさかの同一人物だ。こうして、多くの戦国武将が一生のうちに何度か名前を変えるので、正直、誰が誰だかわからない。あとから、同一人物だということが分かって愕然とすることもしばしば。「上杉謙信」と「長尾景虎」などは、一文字も共通していない。「ってか別人じゃん」と、突っ込まれても仕方ない気がする。

整理しよう。一体どれが名前で、役職なのか。どうして名前を変えるのか。

まずは、武将の名前の要素である。名前の前に、「氏(うじ)」「姓(せい)」「名字」がある。豊臣秀吉でいうならば、「豊臣(とよとみ)」が「氏」、「朝臣(あそみ)」が「姓」、「羽柴(はしば)」が「名字」である。

「氏」とは血族のこと。例えば、源氏や平氏などがそうだ。ちなみに、「豊臣」は朝廷から賜ったものであるという。「姓(せい)」は「八色の姓(やくさのかばね)」のこと。奈良時代に制定されたもので、「八色」というだけあって、8つの種類がある。「真人(まびと)、朝臣(あそみ)、宿祢(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)」だ。そして「名字」。これはその土地を支配する一族に由来するという。

豊臣秀吉像

次に、生まれてからつけられる名前が「幼名(ようめい、ようみょう)」。一般的には、成人にあたる「元服(げんぷく)」まで、この幼名が使われる。次に元服すると、「諱(いみな)」が与えられる。要は、実名、本名である。ここでの諱とは「忌み名」という意味合いをもっており、生前に実名を口に出すこと、人前で明かすことは禁忌とされていた。つまり、家臣が平然と「信長様!」と実名で呼ぶのは失礼であり、このような状況はなかったと考えられている。

それでは、どのようにして呼ぶのか。通常は、本名ではないが仮の下の名前として「通称」を使っていたようだ。豊臣秀吉の場合は、「藤吉郎(とうきちろう)」である。目上の人に対しては呼ばないが、同輩や目下の人には、通称で呼ぶことが一般的だった。大河ドラマにもなった「官兵衛(かんべえ)」は「黒田如水(くろだじょすい)」の通称である。織田信長は「三郎」、明智光秀は「十兵衛」、徳川家康は「次郎三郎」が通称となる。

なお、実名である「諱」は、変わることもある。これを「偏諱(へんき)」というが、功績が認められて将軍や大名からその名前の一字を与えられる、もしくは家臣が主君の名前の一字を名乗らせてもらうなどのバリエーションがある。どちらにせよ、一生同じ名前でいる場合もあるが、変わる場合もあるということだ。

さらに朝廷より官職などの地位が与えられれば、こちらの呼び方をされる場合もある。「治部少輔(じぶしょうゆう)」や「刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)」などである。石田三成などは、官職名で呼ばれていたようだ。

そうして、武将が最後に出家した場合は、「法号(ほうごう)」を名乗るのが一般的だ。仏門に入った者に対して、この法号が与えられる。ちなみに、最初に出てきた「上杉謙信」だが、「謙信」は法号である。名字と法号を合わせて「上杉謙信」となるわけだ。

幼名は「丸」か「千代」がランクイン

さて、先ほどの「幼名」について。徳川家康の幼名は「竹千代(たけちよ)」。これは有名だが、他にも武田信玄は「勝千代(かつちよ)」、前田利家は「犬千代(いぬちよ)」、上杉謙信は「虎千代(とらちよ)」、細川忠興(ほそかわただおき)は「熊千代(くまちよ)」と続く。

また、伊達政宗は「梵天丸(ぼんてんまる)」、今川義元は「芳菊丸(ほうぎくまる)」、浅井長政は「猿夜叉丸(さるやしゃまる)」北条氏康は「伊豆千代丸(いずちよまる)」。毛利元就と黒田長政は同じ「松寿丸(しょうじゅまる)」である。

伊達政宗像

このように、幼名には「千代」や「丸」など同じような字を使うことが多い。じつは、この幼名もつけ方にこだわりがある。現在では想像しにくいが、当時は病で幼少期に命を落とす者が多かった。伊達政宗は独眼竜と呼ばれているが、これは幼いころ疱瘡(天然痘)により、片目が見えなくなったからである。何より子どもの健康が望まれ、生きて成人までと願われた時代。そういう意味では、生まれてから元服までの最も大事な期間に使う幼名に、子どもの健康を託したのだろう。また、子どもが生まれることで、その一族の家運上昇を期待してという思いもあったようだ。

なお、大切な我が子が魔物に魅入られないようになど、子どもを様々なモノから守るため、人間の嫌うような名をあえてつけることもあった。その一例が「丸」である。「丸」には「麻呂(まろ)」が変形したという説もあるようだが、一般的には汚いもの「おまる」が語源といわれている。厄除けとの意味合いもあるのだとか。いつの時代も、変わらぬは「親の愛情」なのだろう。

また、幼名は元服まで。元服の際には、新しく本名がつけられるが、一般的に親がつけるわけではない。後ろ盾として、子どもの保護者的な立場を引き受けてほしいと依頼するわけだ。このような事情もあって、武将の名前は幾度も変化し、一人の人間が複数の名を持つことになるのである。

「本能寺の変」の引き金⁈「源平藤橘」って何?

さて、戦国時代の大名の名前について、残る疑問は「源平」の謎。織田信長は、平氏を名乗り、豊臣秀吉も平氏と称していた。一方で、残る天下人(てんかびと)の徳川家康はというと、源氏の系譜だと称していたという。

どうして、三人は「源平」を名乗ったのか。まさか都合よく、天下人が源氏や平氏の子孫だというわけではないだろう。じつは、これらの謎を解くカギとなる言葉がある。それが「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」だ。いつも「源平」だけがクローズアップされるが、このあとにもさらに「藤橘(とうきつ)」という言葉が続く。なんだか聞いたことがあるようなないような、思い出せそうで思い出せない言葉である。

この言葉は、日本の歴史上、特に奈良時代から平安時代にかけて大きな勢力を誇った由緒ある「氏族の姓」をつなぎ合わせたもの。「源氏」「平氏」「藤原氏」「橘氏」の頭文字を取って「源平藤橘」という。「ああ、平安時代に橘氏っていたよな、確か、藤原氏に陥れられた一族か」などと、遠い目をしながら暗記した過去を思い出す人もいるだろう。

特に藤原氏は北家(ほっけ)や南家(なんけ)などに分かれており、地方に下った者もいる。そのため、実際に地方の藤原氏の流れを汲んでいる大名もいるのだ。伊達氏や、上杉氏などがそうである。ただ、一切流れを汲んでいない無関係な間柄であったとしても、伝統や権威のあるご立派な「姓」を名乗ろうとした。そういう風潮だったのだ。それは、戦国時代が「下克上(げこくじょう)」の世の中だからだろう。出自が農民だという豊臣秀吉は、常に身分のコンプレックスを持っていた。そのため、このような権威付けは喉から手が出るほど欲しかったはずだ。

平清盛像

それにしても、どうして「源平」なのか。その根底には「源平更迭(げんぺいこうてつ)」という考え方が存在する。
平安時代から政権の座に就いたのは、平氏と源氏。鎌倉時代の北条氏は元をたどれば「平氏」であり、次の室町幕府の足利氏は元をたどれば「源氏」なのだ。こうみると、平安時代から平氏と源氏が交互に政権を交代していることが分かる。このように、源氏と平氏が交代で天下を治めるという考え方から、特に天下人は「源氏」や「平氏」を称したかったのだろう。

ちなみに、織田信長の織田家の姓は藤原氏。だが、室町幕府の足利氏は「源氏」であったため、次の天下人は「平氏」だと考え、信長はあえて「平氏」と名乗ったのだろう。結果的にあと一歩でその夢は消え去ったが、その遺志を継いだ豊臣秀吉は「平氏」と名乗っている。さらに、秀吉の死後に天下人になる徳川家康や、順番的に「源氏」だと考えて、その系譜をひいていると主張したと考えられる。

なお、余談だが、「源平更迭」には、さらに「武士で征夷大将軍になれるのは、本姓が『清和源氏』だけ」という考え方もある。この考えを体現したものが明智光秀の「本能寺の変」ではないかとする論文も存在する。

じつは、明智光秀は本能寺の変を起こす前に、複数人が和歌を詠んでつなげる「出陣連歌(しゅつじんれんが)」として『愛宕百韻(あたごひゃくいん)』を残している。論文では、この『愛宕百韻』の解釈を「打倒平氏・源氏台頭」の意味があるのではと指摘しているのだ。『愛宕百韻』の中で詠まれた句は、『源氏物語』を想定していると捉えられるものも多い。本能の変が起こる直前、織田信長は朝廷より「征夷大将軍、太政大臣、関白」のいずれかの地位を与えるといわれていたという。実際に信長は返答する前に自刃しているため、どの地位を選択したかはわからない。ただ、「征夷大将軍」を選んでいたとすれば、これまでの「清和源氏」ではなく、「平氏」が「征夷大将軍」に就くことになるのだ。もちろん、美濃源氏の系譜を汲む明智光秀からすれば、許せないのではなかったか。今となっては定かではないが、本能寺の変の理由が明確でないため、このような説も唱えられているのだ。なんとも、謎が残る本能寺の変である。

後世に「名」を遺す。戦国武将であれば、誰もが成し遂げたいと思うだろう。ただ、良い意味で遺せればだが、反対に悪い意味であれば「名」までもが、汚される。平安時代末期、木曽義仲の父である源義賢(みなもとのよしかた)を討ったのは、兄弟の源義朝(よしとも)の子。その名も「悪源太(あくげんた)」という。やっぱりねえ、と聞こえてきそうだが、名はその人の人格までも後世に表すのだ。

「名」も大事。しかし、原点となるのは「どう生きたか」。できれば、「名」に負けるよりも、超えられる生き方をしたいものだ。

参考文献
『あなたの知らない戦国史』 小林智広編 辰巳出版株式会社 2016年12月
『戦国 戦の作法』小和田哲男監修 株式会社G.B. 2018年6月
『早わかり戦国祖史』戸川淳編著 日本実業出版社 2009年3月
『戦国武将 引き際の継承力』童門冬二著 河出書房新社. 2009年1月
『戦国の合戦と武将の絵辞典』 高橋信幸著 成美堂出版 2017年4月
『戦国大名と読書』 小和田哲男著 柏書房 2014年2月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。