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2020.01.30

秀吉が2年に渡って兵糧攻めを行った「三木合戦」の顛末。別所長治ら戦国武将の凄惨な最期とは

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アニメ「機動戦士ガンダム」でスレッガー・ロウという人物が「悲しいけどこれ、戦争なのよね」とつぶやくシーンがあり、ガンダムの名言のひとつとして残っています。この言葉は戦国にも当てはまり、ドラマなどで楽しく見ている合戦シーンも実は「戦争」であり、悲しく散った武将たちが数多くいるのです。なかでも凄惨を極めたのが三木城主・別所長治でしょう。黒田官兵衛・竹中半兵衛が指揮したといわれる非情な攻め方や、関わった武将たちの思いを想像しながら、読み解いていきましょう。

対峙する織田軍と毛利軍 はさまれた別所長治はどう動く!?

播磨国三木城。現在の兵庫県三木市にあるこの城では1578年から1580年にかけて織田氏と別所氏の合戦「三木合戦」が繰り広げられました。この戦いでは別所氏が三木城に篭城した際、敵の大将・羽柴秀吉が行った兵糧攻めが有名です。

室町時代には守護・赤松氏の領国だった播磨ですが、室町後期の戦国時代になると群雄割拠の状態となっていました。そのなかに別所氏もいたのです。周辺で毛利氏と織田氏が勢力を広げる中、別所氏は緩衝地帯として双方と友好関係を保っていました。しかし、播磨国内では、多くの勢力が次第に織田氏寄りになり、隣国の備前を治める宇喜多直家の支配下となっていた西播磨の上月(こうづき)城や福原城などを攻略、山陰の尼子勝久らも織田氏の勢力下に入ることとなりました。

しかし、織田軍は上月城で虐殺を行ったうえ、秀吉と別所吉親による話し合い(加古川会談)で織田軍と別所軍の関係は悪化してしまいました。そのため、吉親の甥で別所の当主であった別所長治が離反し毛利氏側につくことに。東播磨の諸勢力も同調し、長治は三木城に篭城して毛利氏の援軍を待つことにします。こうしてはじまったのが三木合戦です。

別所長治がどうして秀吉を裏切って毛利氏につくことになったのか。それには諸説があり名門である別所氏が「農民上がり」の秀吉に付くわけにはいかない、信長の上月城攻略が気に入らなかったなど、さまざまなことがいわれていますが、どれかひとつではなく、積み重なった要因が引き起こしたことだと考えられます。

三木の干殺し 秀吉が行った兵糧攻め

三木城には、東播磨などの約7,500人が集まりました。この中には、別所氏に同調した国人の家族や浄土真宗の門徒なども含まれていたので大人数。多くの兵糧が必要となってしまったため、三木城には、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏や英賀城の三木通秋などに兵糧を海上輸送してもらうことに。さらに、海沿いにある高砂城や魚住城などで兵糧を陸揚げし、加古川や山間の道を通って兵糧を運び込むなど策を練り、なんとか食いつないでいました。その際、役に立ったのが所々にある支城(出城・砦・陣屋など)の存在でした。

これをみた秀吉は三木城を包囲し、支城攻略を試みました。しかし、毛利軍の反撃もあり、戦いは膠着状態となります。信長は嫡男の織田信忠を大将とした2万の軍勢で三木城の支城包囲をさせることとし、丹羽長秀・滝川一益・明智光秀らも秀吉を援護しますが、なかなか三木城は攻略できませんでした。また、毛利氏との膠着状態も続いていました。しかし、毛利氏は上月城を奪還するとそれ以上は東に進みませんでした。

実は、三木城は城の北側に美嚢川(みのうがわ)が流れており、これが天然の堀となっていたのです。また城も山の上にあるので、簡単に攻略することはできません。

織田軍は東播磨で三木城の付近をさらに攻略します。しかし、織田軍の武将荒木村重が離反し、毛利氏について有岡城に立てこもってしまいました。村重の領国摂津は、三木城から六甲山地を挟んで南側に位置するため、摂津の港で兵糧を陸揚げし、丹生山を越え三木城へという新たな補給路ができることになります。そこで、秀吉の軍師である黒田孝高(官兵衛)が説得に向かったのですが、なんと村重に捕らえられ有岡城に幽閉されてしまいました。これは、官兵衛のそもそもの主君である小寺政職が村重に味方しようとしたために起こったことのようです。

もっとも三木城の補給路が確保されているとはいえ、すぐに兵糧が不足することはだれの目にも明らかでした。その打開のため、別所長治は秀吉軍と戦いますが、あっさり負け、長治の弟・治定が亡くなりました。さらに、秀吉によって摂津からの兵糧輸送の中継地点が抑えられ、補給が困難となります。

このころ、秀吉にはもうひとり軍師がいました。竹中半兵衛です。しかし、半兵衛は長年患っていた結核が重くなっており、戦場にはずっといることができない状態でした。それでも竹中半兵衛は策を講じます。そのひとつが三木城を兵糧攻めにすることだったのです。

餓死者が出る兵糧攻めで、やがてむごい結果が招れる(写真AC/撮影・yuki-ac)

その後、ふたたび毛利氏と別所氏の双方が出兵、兵糧を三木城に運び込むという作戦が実行されましたが、別所側の敗戦となり、兵糧も搬入できませんでした。しかも毛利方であった宇喜多直家が織田に付くこととなり、毛利の領地と播磨・摂津の間が分断されます。そのため、毛利氏による支援は不可能に。しかし、長治は秀吉からの「降伏するように」との申し出を受け入れませんでした。

戦いが始まって2年以上が経過、三木城内の兵糧はなにひとつありませんでした。織田軍は苦しむ三木城を横目に支城を次々と撃破してゆきます。そして三木城のみが残され「城主一族の切腹で城兵の命を助ける」という条件が出されて長治一族がついに切腹するに至ります。しかし約束は守られず、城兵は秀吉によって大量に殺害されたといいます。1580(天正8)年1月のことでした。

城を守るために飢え死にしていく人々を見ていた別所長治、幽閉されてしまった黒田官兵衛。戦いの中、二人の胸にはどんな思いが交錯していたのでしょうか。

有岡城に幽閉されていた黒田官兵衛が家臣に救出された一方で小寺政職は御着城を織田軍に落とされ、毛利氏の元へ落ち延びました。この後官兵衛は姫路城を秀吉に差し出し、姫路城は秀吉の居城となりました。
なお、竹中半兵衛は兵糧攻めが続く中、戦いの終わりを見届けることなく1579(天正7)年に陣中で亡くなりました。36歳という若さでした。

兵庫県三木市平井山観光ぶどう園内にある竹中半兵衛の墓所(写真AC/撮影・空)

戦いはいつの世もむなしいもの。平和な世界が続くことを願いつつ古戦場跡を訪れて、自分の城とついてきてくれた人々を守り抜こうとした城主・別所長治の心を感じてみてはいかがでしょうか。

三木城跡

住所:兵庫県三木市上の丸町5
アクセス:神戸電鉄粟生線「三木上の丸駅」から徒歩約5分、山陽自動車道「三木小野IC」~国道175号~兵庫県道20号
https://www.city.miki.lg.jp/site/odekakeplus/13387.html