Culture
2020.03.05

自分の人生の手綱は自分で握る!戦国時代に10回主君を変えキャリアアップをした築城の名人、藤堂高虎

この記事を書いた人

世の中には仕事が続かなくて職を転々とする人がいます。人それぞれ事情はあるのでしょうが、あまりよく思われないのも事実。戦国時代にもそんな人がいました。伊勢津藩の初代藩主となった藤堂高虎です。「浅井長政→阿閉貞征(あつじ・さだひろ)→磯野員昌(いその かずまさ)→織田信澄→豊臣秀長→秀保→秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光」これが、築城の名手として有名な藤堂高虎が仕えた主君です。「えっ、こんなに主君が変わってるの!?!?ヤバすぎじゃない?」と感じる人もいるかもしれません。実際、高虎は「変節漢」「走狗(そうく、鳥や獣を追い立てるのに使われる犬)」などと言われていました。
しかしそこには己の努力をもって人生を切り開いていったひとりの人間のドラマがあるのです。そんな高虎の人生を追ってみます。

貧しい生まれの足軽から転じて

藤堂高虎は、1556年1月6日に近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)で生まれます。もともと小領主だった藤堂家はそのころ没落して農民になっていました。与吉と呼ばれていた高虎は、近江国の戦国大名・浅井長政に足軽として仕え、1570年には姉川の戦いに参戦して首級を取る武功を挙げましたが、1573年に小谷城の戦いで浅井氏は織田信長によって滅ぼされてしまいます。そのため、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、次いで同じく浅井氏旧臣の磯野員昌、信長の甥である織田信澄の家臣として仕えたものの、それぞれ短い間で終わりました。士官先を転々として、食うに食えない生活が続いたといいます。空腹のあまり、三河吉田宿(現・豊橋市)の吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食したという逸話もあるほどです。

現代の三河餅。駿河餅とも呼ばれ、お正月などに食べられる縁起物。(写真AC/ヨツダ撮影)

やがて、1576年に豊臣(羽柴)秀長に仕えるようになると、1581年には但馬国の土豪を討ったことが認められて3,000石の所領をもらい、鉄砲大将にも任ぜられました。その後、中国攻めや賤ヶ岳の戦いなどに参加、賤ヶ岳の戦いで活躍したため、さらに所領が増えました。その後紀州征伐にも赴き大勝利をおさめ、戦後は紀伊国粉河に5,000石を与えられるとともに、猿岡山城、和歌山城の築城の際には普請奉行に任命されました。のちに築城の名手と呼ばれる高虎の初期の仕事でした。また、四国攻めでも活躍し、今度は秀吉から5,400石を与えられたため、なんと1万石の大名となったのです。

「この設計図ヘンじゃね?」から家康の覚えめでたく

秀吉が関白になった1586年、徳川家康の屋敷を聚楽第の邸内に作ることになると、高虎は秀長から作事奉行に指名されました。その際、高虎は受け取った設計図に警備上の難点があることを見抜き、独断で変更したようです。主君の秀長の不備だと思われないように気遣い、家康の身を案じた高虎の機転に、家康は深く感動したといいます。

秀長が1591年に死去したあとは、甥で養子の豊臣秀保に仕え、秀保の代理として翌年の文禄の役に出征しましたが、秀保が早世。高虎は出家して高野山入りしました。しかし秀吉の説得により還俗し、伊予国板島(現在の宇和島市)の大名となりました。高虎は慶長の役にも水軍を率いて参加して武功を挙げ、大洲城1万石を加増されて8万石となったのです。

高虎は、秀吉の死去直前から、徳川家康に接近しました。前述の聚楽第の件以降、高虎は家康に近しく、豊臣氏の家臣団の分裂に際して、高虎は徳川家康側についたのです。そして1600年の関ヶ原の戦いでは京極高知とともに大谷吉継を相手に戦いました、また、何人かの武将に対し、東軍への寝返りの調略を行っています。これらの働きにより、家康からはそれまでの宇和島城8万石の安堵の他、新たに今治城12万石が加増され、合計20万石となりました。

宇和島城(写真AC/あけび撮影)

徳川家の重臣として仕えた高虎は、江戸城改築などにも功を挙げ、1608年に伊賀上野藩主・筒井定次の改易と伊勢津藩主・富田信高の伊予宇和島藩への転封で今治城周辺の越智郡2万石を飛び地とし、伊賀国内10万石、並びに伊勢安濃郡・一志郡内10万石で計22万石に加増移封、津藩主となっています。また、今治城は高虎の養子であった藤堂高吉を城代として治めさせました。高虎は家康に高く評価され、別格譜代大名として重んぜられました。

外様大名としては異例の出世

大坂冬の陣、および大坂夏の陣にも高虎は徳川方として参戦、八尾で長宗我部盛親隊と戦いました。この戦いでは多くの兵の命が失われたため、供養のため南禅寺三門を再建するとともに、釈迦三尊像及び十六羅漢像を造営・安置しています。なお、常光寺の居間の縁側で八尾の戦いの首実検を行ったため、縁側の板は後に廊下の天井に張り替えられ、血天井として現存しています(ちょっとこわい)。

家康の死に際し、高虎は枕元に侍ることを許されたといいますから、その信頼のほどがよくわかります。家康の死後は二代将軍・秀忠に仕えました。そしてさらに加増され、弟の領地も合せて津藩の石高は計32万3,000石となったのです。また、秀忠の五女・和子が入内する際には自ら志願して露払い役を務めています。宮中の和子入内反対派公家に「入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言って押し切ったといいますから、肝がすわっていたのでしょう。

今治城と藤堂高虎像(写真AC/Takakicchi撮影)

このように、食べられないほど苦労した生活から大大名に出世した高虎は、190センチメートルの大男だったといわれ、からだ中に合戦で作った傷があり、手の指もちぎれていたり、爪がなかったりしたそうです。しかし、その風貌とは異なり、8回も主君を変えたことで世間をよく知っており、人情にも厚かったといわれています。家臣が暇を申し出た時もむりやり引き止めることはなく、喜んで送り出しました。また、たくさんの兵を失ったことに起因したのか、主君が死んだ際の殉死を禁止しています。殉死するよりは、生きて国と嫡男の高次を支えてほしいという思いがあったと考えられます。

転職にはワケがあるのだ

高虎は何度も主君を変えましたが、これは決して裏切りなどではなく、自らの働きに合った恩賞を与えてくれる主君を求めてのことでした。家柄がよかったわけではない高虎は自らの力だけで生きていかねばならず、そのために努力をし、主君には忠実に使えています。主君を変えたのも、主家の没落などやむを得ない事情があった場合がほとんどでした。豊臣秀長や徳川家康に重用されたことからも、高虎が優秀な武将であったことがわかります。また、領主としてよく国を治め、領民から尊敬される人物でもありました。能楽や茶の湯にも長けた文化人としての側面もあったといいます。

さらに、高虎といえば忘れてはならないのが築城名人だということです。慶長の役では順天倭城築城という堅固な城を作って敵を寄せ付けませんでした。層塔式天守築造を創始したのも高虎で、伊賀上野城や丹波亀山城などを築いています。餅を食い逃げしようとした浪人が城をいくつも築き名人と呼ばれるなんて。人生なにがあるかわかりません。あきらめたらそこで試合終了ってほんとですね。あきらめなくてよかった、高虎。

晩年の高虎は眼病を患い、やがて失明します。1623年に75歳で死去しました。墓は東京都台東区上野恩賜公園内の寒松院にあり、三重県津市の高山神社にも祀られています。

転職を多くしている人の経歴を見ると「ころころとよく職を変える人だな。いいかげんな人間なんだろう」と他人は思いがちです。しかし、人にはそれぞれ事情があるのです。苦労しながらも与えられた場所で懸命に働き、地位を築いた藤堂高虎。少し前までは当たり前だった日本型の終身雇用があやうくなっているいま、その生涯に今一度注目してみるのはアリなのではないかと思います。