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2020.03.11

美人妻より「茶壺」を選んだ武将・荒木村重。一族を見捨てひとり生き延びたその価値観とは

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「おい、荒木 帰ってこないと みんな死ぬ」byだいそん。

指名手配犯のポスターの呼びかけのようだが。いきなり下手な一句で申し訳ない。女性だからか、つい妻の目線で歴史の事実を捉えてしまう。夫が起こした謀反の成敗として、人質である妻や子、その一族郎党が処刑される。私だったら…夫の不甲斐なさに涙し、そのあとは猛烈に腹を立て、文句の一つや二つ、いやいや、そんなものでは済まされない。可能な限り書き残し、処刑後も毎夜恨めしく枕元に立つだろう。

悔しい。情けない。腹が立つ。不甲斐ない。挙げだしたらキリがない。しかし、時に、人は「負の感情」よりも、もっと強いものを持つ場合がある。
それは「なぜか」という疑問だ。

裏切られたものたちは茫然としたはず。なにしろ理由が分からないからだ。だから「なぜなのか」という気持ちの方が強かったのかもしれない。どうして謀反を起こしたのか。どうして自分だけ逃げたのか。どうして助けにきてくれないのか。そして、どうして降伏してくれないのか。

それは、見捨てられた妻子や家臣、その一族郎党だけではない。裏切られた側もそうだ。主君の織田信長を筆頭に、説得した豊臣秀吉、そして再度の説得で逆に幽閉された黒田孝高(官兵衛)と、その疑問は続く。

織田信長の家臣となり、あっという間に摂津国(大阪府)まで任されるほどの大出世。しかし、突如として中国攻めの最中に戦線離脱。反旗を翻すことに。これが「荒木村重(あらきむらしげ)」の謀反の全貌である。今回は、その理解し難い荒木村重の価値観を是非とも一緒に考えていきたい。カギとなるのは、タイトルの「茶壷」。

それではご一緒に、天正6(1578)年10月21日まで時を戻そう。

織田信長からの大絶賛でも不満?

「信長公記」によれば、天正6(1578)年10月21日に、荒木村重が謀反を企てているとの情報が各方面からもたらされたという。しかし、意外にも、主君である織田信長は、当初信じなかった。記録によれば、このような内容が記されている。

「信長はただちに信じがたく、『何の不足があってのことか。言い分があるのなら、申し出るがよい』と松井友閑・明智光秀・万見重元を派遣して伝えさせた。返事は『野心は少しもございません』とのことだったので、信長は喜び、『母親を人質としてこちらへ預け、差し支えなければ出仕せよ』と伝えた」

織田信長に対しては「短気で粗暴、裏切りは絶対に許さない」というイメージを抱くことが多い。しかし、実際の信長は、自分なりの価値観や判断基準を大切にしていた。気に入った者であれば、謀反を起こしたとしても寛大な措置を取ることも。今回の荒木村重がその例だろう。

織田信長像

もともと、荒木村重は摂津の国人領主・池田家の家臣の生まれ。幼少期より腕力があり、武術に長けていたのだとか。池田家の内紛に乗じて主君を変え、気付けば主家を掌握。将軍足利義昭の謀反で信長が上洛した際には、細川藤孝(のちの細川幽斎)と共に逢坂(滋賀県大津市)まで出迎えている。このときに、忠節を尽くす相手を義昭から信長へと変えた。信長も喜び、褒美として郷義弘(ごうよしひろ)作の刀を与えたという。

こうして荒木村重は、結果的に織田家の家臣となり武功をあげる。摂津の一元的支配を目指して天正2(1574)年11月には伊丹忠親(いたみただちか)を破って伊丹城主に。城も大改修して「有岡城」と名付けられる。あのルイス・フロイスも「壮大にして見事」と称賛した城である。天正3(1575)年8月の加賀・越前平定をはじめ、天正4(1576)年4月の石山本願寺の挙兵、天正5(1577)年2月の雑賀(さいが)の陣と、信長の命で出陣。武将としても有能であったようだ。

一方で、信長が刀で突き刺した3つの饅頭を、口を開けてそのまま喰らいついたという有名なエピソードもある。信長がその気になれば刀で喉をつくのも造作ない重大な場面でも、村重は物怖じしなかった。その豪胆な性格を信長は好み、日本一の器と褒めたほど。関係は表面だって良好のようにも思われた。

だからだろう。村重の家臣が石山本願寺へと兵糧を流しているとの噂もあったが、信長は頭から信じずに、弁明の機会を与えた。これが、冒頭で紹介した部分である。信長が示す最初の譲歩であった。

しかし、荒木村重は信長の寛大な対応を無視して出仕せず。一説には、釈明のために一度は安土城へ向かおうとしたとも。ただ、家臣の中川清秀の「信長は裏切りなど許してはくれない」との諫言を受け入れ、引き返したという。

そんな村重を、やはり信長は諦めることができなかった。その後、2度目の説得を試みる。明智光秀・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)・松井友閑を派遣したが、やはり村重は応じず。さらに説得に向かった黒田孝高はあろうことか幽閉されてしまう。こうして、信長は天正6(1578)年11月に摂津へ向かって出陣することになるのであった。

謀反は偶然?必然?明智光秀との奇妙な共通点

日本の歴史上、「謀反」といえば「明智光秀」というリンクが成り立つ。しかし、偶然にも、同じ家臣である荒木村重も、光秀の前に謀反を起こしていた。その際には、明智光秀が説得役だったというから、なんとも皮肉な話である。

じつは、この「明智光秀」と「荒木村重」には、多くの共通点がある。まず、主君が同じ織田信長であること。また、生え抜きの家臣ではないことも挙げられる。一般的には「外様」とも呼ばれて区別される。もともとは違う一族の家臣であったが、主君を変え信長に仕えた経緯を持つ者たちなのだ。

それに加えて、両者はともに織田信長に大抜擢され、短期間で出世を遂げている。これは当然の結果なのかもしれない。戦国時代には珍しく、織田信長は忠義うんぬんよりも、超実力主義を掲げていた。外様であろうが、謀反を起こした息子であろうが、実力があれば従来の家臣よりも重用する。二人とも信長に認められ、外様でありながら出世を果たした。実力のみならず、謀反を起こすくらいだろうから、度量や野心もあったはず。これも共通点といえるだろう。

明智光秀像

そして、二人の最大の共通点となるのが、今もなお、謀反の理由が分からないことだ。背後に黒幕がいた、日頃の扱いに不満があったなど、どれも決定打に欠け、どれも想像の域を超えることはない。歴史好きの格好の話題にはなるが、結局は確たる事実が発見されていないのも同じ。

荒木村重についても、信長との性格が合わなかった、各方面の軍司令官になれなかった、刀刺し饅頭が屈辱的だったなど諸々の事実が挙げられる。ただ、やはり結果論にはなってしまうが、一族郎党の命を犠牲にするまでの相応な「理由」が見当たらないのだ。突如として、戦線を離脱して有岡城へ帰ることも首をかしげる行動の一つ。

どちらにせよ、明智光秀と荒木村重の共通点は多い。ただ、結果は180度異なる。光秀は謀反を成功させ織田信長を自刃に追い込むが、自身も追われる立場に。最終的には命を落とす。一方、村重はといえば、謀反は失敗に終わり、一族郎党は処刑されるが、自身は生き延びることに。やはり、これも皮肉な結果といえるだろう。

有岡城落城、そして人質の悲劇

戦国時代には、多くの虐殺が事実として幾つかの資料に記録されている。なかでも、有岡城に残された人質の処刑は凄まじかったという。
「信長公記」の作者は織田信長の家臣、太田牛一(おおたぎゅういち)。全体的に信長寄りの記述となっているも、今回に限っては主君を贔屓目にみたところで、筆舌し難いものだったのだろう。「信長公記」の記述が、その壮絶さを物語っている。

「どうしたらよいかと嘆きつつ、もだえこがれ、声も惜しまずに泣き悲しむ有様は、目も当てられなかった。この様子を見聞きすると、気丈な武士といえども岩や木ではないから、涙を流さぬものはなかった」
「見た人は、二十日も三十日もの間、成敗された妻女たちの顔が浮かんで、忘れられなかったそうである」
「地獄の鬼の呵責もこれかと思われた。肝も魂も消え失せて、二目と見られる人はなかった。哀れな有様は、言葉には言い尽くせない」
「荒木村重一人のしでかしたことが原因で、一門・親類の上下が数も知れず、親子の別れに血の涙を流した。これら死んでいった人々の恨みが恐ろしいと、皆舌も引きつる思いでおののいた」

では、どうして人質たちは成敗されなければならなかったのか。
事の発端は、有岡城での籠城だった。
信長の命を受けた武将たちが説得するも、村重は拒否を続け、結果的に信長は激怒。有岡城を攻めると同時に、荒木村重の家臣への調略を始める。高槻城の高山右近へはキリスト教宣教師を仲介として寝返らせることに成功。茨城城に籠城していた中川清秀へは金をちらつかせ、こちらも信長側へと転じた。

荒木村重は、変わらず有岡城での籠城戦を選択。安芸(広島県)の毛利側の救援を信じて待っていたという。ただ、毛利側からの返答はつれなく。1月の出陣予定が、7月に遅れ、最後には8月の出陣も国内で事件が起こり断られたのだとか。それにしても、救援がないのであれば、自身の命と引き換えに妻子や家臣たちの助命を条件に開城するのが一般的だろう。もしくは、徹底抗戦を貫き、最後まで討死覚悟で戦う場合もある。このような場合でも、城内の者はそれぞれ自刃して全員で果てるという最期を選択する。

しかし、荒木村重は違った。10ヵ月ほどの籠城戦が続き、兵糧も尽き始めた天正7(1579)年9月2日夜。なんと、村重は有岡城から単身で脱出を図ったのだ。5、6人の僅かな供を従え、夜陰に紛れて忍び出たという。向かった先は、嫡男である村次(むらつぐ)のいる尼崎城であった。

有岡城跡

そして、その2か月後、同年11月19日、有岡城に籠城していた村重の重臣たちも尼崎城へと向かう。これは、新たに「尼崎城、花熊城の二城を明け渡せば、人質の妻子を助命する」との信長側から出された条件に応じるためであった。自ら荒木村重に伝えて説得しようというのだ。こうして、重臣たちも自身の妻子を人質に有岡城へと残し、旅立っていく。

美人妻「たし」の毅然とした最期

荒木村重の妻「たし(だし)」は、大層美しかったという。その比類なき美貌ゆえに「今楊貴妃(いまようきひ)」と呼ばれていたほど。村重も自慢の妻で、非常に有名だった。そんな村重とたしの歌が「信長公記」に残されている。ちなみに、村重は既に逃亡している状況での返歌であることにご注意頂きたい。

荒木村重の妻たしが荒木のもとへ送った歌
「霜がれに残りて我は八重むぐら 難波の浦の底のみくづに」
(私は霜にあって枯れ残った八重葎(やえむぐら)のようなものです。あとは難波の海に沈んで改定の水屑になるだけです)
荒木村重の返歌
「思ひきやあまのかけ橋ふみならし 難波の花も夢ならんとは」
(天へ架けた橋を踏み鳴らすように難波の尼崎でがんばってきたが、その誇りも夢のようにはかないものになろうとは思いもしなかった)


さらに、側室の一人、お千代の歌も残されている。ちなみに、くどいようで申し訳ないが、村重は依然逃亡中の身。そんな状況での返歌となる。彼らの状況を想像して読んで頂きたい。

お千代から荒木村重への歌
「これほどの思ひし花は散りゆきて 形見になるぞ君が面かげ」
(これほど思っていた私たちの仲は、あなたの面影を形見に残して、花が散るように終わりとなるのですね)
荒木村重の返歌
「百年に思ひしことは夢なれや また後の代の又後の世は」
(百年も続くと思っていた私たちの仲は夢だったとしても、後の代のまだ後に生まれて出会った時には、決して夢のようにはかないものではないと信じてください)

このような歌を交わしたにもかかわらず、だ。待てど暮らせど、残念ながら尼崎城からの迎えは一向に来なかった。城内でも諦めムードが漂うなか、さらに悲劇が。人質の妻子の警護で有岡城へ残留していた家臣、池田和泉(いけだいずみ)が鉄砲で頭を撃ち自殺する。残っている者の心情を考えれば、ただ書いている私でさえ辛くなる。その心細さはいかばかりか。想像するだけで、言葉も出てこない。

信長側の新たな条件も村重は拒否。
時だけが過ぎるも、埒が明かず。こうして信長は、最後の決断を下す。有岡城に残っている人質の成敗だ。まず、村重たちの身内は京都へいったん護送ののち、六条河原での処刑が決まった。それ以外のものたちは、摂津での処刑となった。

天正7(1579)年、12月13日、まず人質122人が、尼崎に近い七松(ななまつ)で、磔(はりつけ)にかけられた。衣装を美しく着飾った妻女たちは、次々と柱に引き上げられ、鉄砲での銃殺、もしくは槍や薙刀(なぎなた)で刺し殺された。幼児がいれば、母親に抱かせたままの処刑になったという。

さらに、中級以下の武士の妻子と侍女たち388人、妻女に付けられていた若党124人、合計510人余りを家4軒に押し込めて、火を放った。残忍な焼き殺しである。「信長公記」では、「魚が反り返り飛び跳ねるように」「躍り上がり跳び上がり」と実に生々しい表現で記録されている。こうして、村重の身内以外、600人強の人たちが、たった一人の男のために処刑されるに至った。

同年12月16日、荒木村重の身内たちは車1台に2人ずつ乗せられる。そして、京都の市中を引き廻しにされた。村重の妻、たしは21歳。2番目の車に乗せられたという。中には妊娠している妻もいたのだとか。六条河原には、具足をつけ、兜をかぶり、太刀や薙刀を持った役人や雑役などが待ち構えて、妻女らが引き渡された。経帷子(きょうかたびら、死に装束のこと)の上には、華やかな小袖を美しく着飾った歴々の美女たち。
ここで、妻たしの最期を「信長公記」から抜粋しよう。

「荒木村重の妻たしは有名な美人であった。以前ならたやすく人に顔を見せることもなかったのに、運命が狂えば仕方がないもので、いとも乱暴な雑役どもの手にかかり、肘をつかまれて車に乗せられた。最期の時にも、たしは車から下りると帯を締めなおし、髪を高々と結い直し、小袖の襟を後ろへ引いて、見事に首を斬られた。これを見ならって、その他の妻女たちも皆、見事な最期を遂げた」

たし、享年21歳。死への想いを、多くの歌に残している。子を思う母の名残惜しい心情や、半ば悟りの境地のようなものまで、その内容は死に近づくにつれ変化している。その中でも、たしが荒木村重との人生をしみじみと表現した歌がある。

「梢よりあだに散りにし桜花 さかりもなくて嵐こそ吹け」
(盛りにもならぬうちに嵐が吹いて、梢から無駄に散ってしまう桜の花のような夫婦の仲でした)

これが、夫の裏切りゆえに処刑される、たしの本音なのだろう。

荒木村重という人間の本質

さて、一族郎党処刑ののち、荒木村重はどうなったのか。
なんと、村重は一人生き延びるのである。

毛利氏を頼って尾道(広島県)まで逃げ、信長が自刃するまでの間、ひっそりと暮らすのであった。自らを「道糞(どうふん)」と名乗ったというから、自身の行いを恥じていたのかもしれない。ただ、いくら自身を蔑んでもその過去は消せない。自虐に走れば走るほど、なんだか逆に奇怪な行動に映ってしまう。そう思うのは、私だけだろうか。

ここで、荒木村重の価値基準を考えてみたい。天秤には、妻子のみならず一族郎党の多数の命、そして、一方では自分の今後の人生が乗せられている。マイケル・サンデルの白熱教室ではないが、命の数を考えれば、選択肢などない。一択だろう。降伏だ。特に、戦国時代は下克上といえども、忠義を重んじる傾向にある。裏切りも道理が通れば許されるが、土壇場での寝返りは逆に不評となる。ただ勝ち馬に乗るだけでは、人心が離れていくのだ。

そんな中で、彼は、本当にただ、生き延びるためだけに有岡城を脱出したのだろうか。一説には、毛利氏へ援軍を再度要請するために脱出したともいわれている。文書も残っているのだとか。しかし、村重が有岡城を脱出し、尼崎城へと向かうその姿を考えれば、疑問が残る。というのも、脱出する姿は、もはや一国の城主とは思えぬものだったからだ。夜逃げ同然の格好といえばよいだろうか。

背中に「兵庫壺」を背負い、腰には「立桐筒(たてぎりづつ)」を結わえて逃げる奇妙な姿。

この兵庫壺とは茶壷のことで、かつて武野紹鷗(たけのしょうおう)が持っていた名物とされている。また立桐筒は「鼓」のことで、能楽の師匠である観世宗拶(かんぜそうさつ)から贈られたものだとか。どちらも世にいう又とない逸品である。それを携えて、村重は必死で逃げたのだ。そして、二度と有岡城を振り返ることはなかったのである。

また、その後の村重の人生をも考え合わせると、さらなる疑問が。村重は、信長の死後に、尾道から商人が賑わう堺へと移り住む。そして、茶の湯の千利休らと親交を深め、茶人として第二の人生をスタートさせるのであった。名も「道糞」改め「道薫(どうくん)」として、茶の湯では、利休七哲の一人にまで数えられるほどに。多くの茶会へ出席し、自らも茶会を開いていたという。晩年は出家し、享年52歳。

一方、茶の湯や能楽など、一芸に秀でた部分を受け継いだのが、村重の子。乳母の機転で有岡城から脱出できた息子は、江戸時代に絵師として活躍。その名も「岩佐又兵衛(いわさまたべえ)」、浮世絵の元祖ともいわれる人物である。こうして、荒木村重の血脈は、「芸術」という分野で受け継がれていくのである。

さて、村重のその後の人生をみれば、有岡城からの脱出は、妻子を助けるための救援要請とは考えにくい。それなら、絶対、茶壷など置いていくはずだろう。なんなら、「茶壷」と「鼓」の代わりに子を2人くらい背負えそうなものだ。

だったら「なぜ」。
いるはずのない村重に問いかけてしまう。だったら、なぜ、あんなにも自分を信じた人たちを、こうも見捨ててしまえたのか。

人は究極の選択を迫られたとき、自分の欲望に忠実に生きることを選択しにくい。なぜなら、様々なしがらみが自分を取り巻き、締め付けるからだ。「こうあるべき」という概念から、なかなか解き放たれない。そういう意味では、荒木村重は「強い」人間なのだと思う。他人がどうなろうと、どう思うと、自分をどっかりと価値判断の中心に据え置いて判断することができるのだ。

荒木村重という人間。
泥臭い、人間の理性をかなぐり捨てた、生々しいまでの「生」への執着が、そこにはあった。

参考文献
『戦国 忠義と裏切りの作法』小和田哲男監修 株式会社G.B. 2019年12月
『日本の大名・旗本のしびれる逸話』左文字右京著 東邦出版 2019年3月
『戦国時代の大誤解』 熊谷充亮二著 彩図社 2015年1月