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Culture
2020.04.10

部下との信頼関係の築き方を戦国武将に学ぶ。接し方のポイント4つを事例から解説

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「倍返し」が流行語となった『半沢直樹』。じつは、テレビドラマの中では、相手によって「10倍返し」「100倍返し」などの言葉も叫ばれたのだとか。どちらにせよ、やられたらやり返す精神に溢れ、己の信念に従い、我が道を突き進む。

場合によっては、上層部相手でも土下座上等。忖度が蔓延し、モノ言えぬ部下たちの心の内を、これほどまでに爽快にしてくれたドラマはない。放映当時、社会現象になったのも頷ける。だからこそ、7年経ってもなお、サラリーマンに根強い人気があると見込んで、続編が始まるのだろう(※番宣ではありません)。

ただ、上司からすれば気の休まるものではない。知らない間に部下から恨みを抱かれ、勝手に倍返しの標的になることも。それは、なんとなく戦国時代の下克上を彷彿とさせる。現代では「パワハラ」で訴えられるくらいだが、戦国の世はガッツリと謀反を起こされるから、たまったものではない。

今回は、そんな家臣の裏切りを阻止すべく、戦国時代の名将の人心掌握術をご紹介。家臣だけではない。主君だって大いに気を遣うのだ。彼らの無言の叫びを是非とも聞いてもらいたい。それでは、名将の気配り大作戦を「掟」形式でお届けしよう。

その1 家臣の親まで大切にせよ

最初の掟は、こちら。
「家臣の親まで大切にせよ」

家臣にもそれぞれ家族がある。その事実にポイントを置いたのが、この方法だろう。家臣の心を掴むには、まずその周囲から攻めるという発想の転換だ。実際に、この考えを実践したのが、「越後の虎」こと、上杉謙信である。

そもそもの事の発端は、若侍の無謀な行動による。
天正元(1573)年7月、上杉謙信は兵を率いて越中(富山県)に侵攻する。神保長職(じんぼうながもと)や一向一揆勢を撃破。その勢いは加賀(石川県)にまで及ぶというところで、思わぬ足止めを食らう。というのも、一向一揆勢が謙信に備えて築城したとされる朝日山城(石川県金沢市)で、激しく抵抗されるからだ。

上杉謙信像

一説には、紀州根来(ねごろ)から多くの鉄砲が渡ったとも。朝日山城から撃たれ続けて、なかなか近付くこともできなかったという。そんな状況を上杉軍の無鉄砲な若侍らは我慢できず。若さと勢いだけでイケると思ったのか。それとも、武功をあげたかったのか。なんと数名の若侍が勝手に城塞に近づいたのだ。案の定、敵の鉄砲の攻撃にさらされ、死傷者が出たという。この報告を受けた謙信は激怒。勝手な行動をした若侍らを捕え監禁した。

さて、これで終わるのが一般的。規律を乱し勝手な行動に出た血気盛んな若侍を、監禁して罰を与える。若侍の方も、罰を受けて仕方のない状況だ。どのような事情であれ、判断を見誤り損害を出した。過剰なまでの自信、単なるエゴから出た行動ともいえるのだから。

しかし、謙信は違った。捕え監禁されている若侍の父母に手紙を書いたのだ。上杉家重臣の吉江織部助景資(かげすけ)夫婦宛の書状が『出羽吉江文書』に残されているという。

「その方の息子は、この謙信が意見したけれどもそれを聞かずに一人で鉄砲の前を駆け歩いたので、家臣に命じて引きずり戻して今に監禁している。さぞ心配していることだろうが、この謙信が見ていながら敵の鉄砲の前に彼らを出し、負傷するか撃ち殺されでもしたら、定めしその時はこの謙信入道を恨むであろうと思い、ひとまず監禁した。よくよくの心遣いと思ってほしい」
(二木謙一著『戦国武将に学ぶ究極のマネジメント』より一部抜粋)

戦国の世でも、やはり親は子を心配するもの。ましてや、主君に捕えられて監禁となれば、心穏やかではいられない。その心情を察して手紙を書いたのだ。家臣の心を掴むには、まず親の心から。謙信ならではの人心掌握術といえる。

その2 1on1マネジメントを徹底せよ

ビジネスパーソンの中では、流行りというよりは既に出尽くした感がある「1on1」。1on1ミーティングや1on1マーケティングなど、同じ冠言葉のついたビジネスワードが、ズラッと情報媒体に並ぶ。

簡単に直訳すれば、1対1。特定の「個」を対象としたもの。現場では当たり前のように行われている方法だ。そして、戦国時代でも…といいたいところだが、なにしろ、兵の人数が多い。それでも、一人一人に着目してコミュニケーションを心がけていた名将もいる。

そう、2番目の掟はこちら。
「1on1マネジメントを徹底せよ」

これを実践していた武将として、2名の方をご紹介しよう。九州の覇者、「鬼島津」の名で恐れられた島津義弘。そして、三本の矢で有名な中国地方の謀将、毛利元就(もうりもとなり)である。

島津義弘

相手をよく観察し、その状況に合わせて言葉を選ぶ。対応を変える。両者とも、相手に対し1on1で向き合うことを大事にしていたようだ。じつは、コレ、簡単そうでなかなかできないことである。自分の中でそれなりに余裕があり、家臣に対する強い気持ちがないと続けることもできない。

『御自記』には、島津義弘の逸話が残っている。島津義弘は日頃から、家臣に対する心配りができる武将であったとか。初めて家臣の子が出仕する際には、「父と似ているから、父に劣らぬ働きをするだろう」と声をかける。子のみならず父もモチベーションが上がる一言だ。しかし、なかには未だ手柄を取れずにいる者も。そのような場合には、「不運にして手柄がないが、父に勝る様子だから、立派な働きをするだろう」と声をかけたという。状況次第で言葉を変える。このほんの些細なことが、家臣の忠義を強くするのだ。

一方で、毛利元就にも同じような逸話が『毛利元就卿伝』に残っている。彼には、どうやら一つの信念があったようだ。それは、人は日頃から接する者に忠義を感じるということ。大将がお高くとまって下級武士とも直接話をしない。そんな状況では、下級武士とて、接したことのない大将に忠義など感じることがないだろう。それよりも、日頃接して指示を出す物頭(ものがしら)などのためにと思うはず。確かに、いわれてみればそうだ。忠義はただ機械的に生まれるわけではない。そこには人の感情が介入する。

そんな考えを持つ元就は、どの家臣にも分け隔てなく、親しげに声をかけていたという。さらに、下級武士と接するときには、予め酒と餅を用意していたのだとか。そうして、酒をたしなむ者であれば、「酒は寒いときに身体を温めることができる、陣中も平時も談話を弾ませることができる良いモノ」として、酒を勧めた。逆に、酒が飲めない者に対しては、「酒は人の気を高ぶらせるものだ、言わなくてもいいことも言わせる悪いモノ」として、餅を勧めたという。

ちなみに、毛利元就自身はあまり酒を好まなかったとか。ただ、それを相手に強要することはなかった。自分のモノサシではなく、相手のモノサシで測る。上の立場の人間だからこそ、相手のモノサシで物事を見るのは非常に難しいだろう。元就は、あえて相手の立場でのコミュニケーションを心がけていたようだ。

それにしても、島津義弘と毛利元就は、思いのほか、似ている部分があると思う。どちらにせよ、家臣同士が情報交換すれば、分かりそうなもの。「酒は良いモノって勧められたぜ」「こっちは、酒は悪いモノって餅を勧められたぜ」となるのは目に見えている。戦国時代に、SNSが発達していなくてよかったと、思うのは私だけだろうか。

その3 贔屓(ひいき)をせよ

3番目の掟は、ズバリこちら。
「贔屓(ひいき)をせよ」

「贔屓」って悪いコトではないの?そう思った方が多いだろう。しばし、待たれよ。この言葉には、じつはカットされた部分があるのだ。全文は『前橋旧蔵聞書』に記されているという。

「人々、依怙(えこ)はつかまつるまじきことに候、贔屓(ひいき)はこれあるべし」
(同上より一部抜粋)

「贔屓(ひいき)」とは目をかけてやるという意味である。つまり、家臣に目をかけるのはいいコト。無関心とならずに、気にかけるべきだと説いているのである。ただし、「依怙(えこ)」はダメだと。「依怙」とは、一方に偏る意味合いだ。公平ではなく、偏って目をかけるのはご法度なのだと。

これは、徳川幕府を築き、のち15代まで栄えさせた大御所、徳川家康の言葉である。

徳川家康像

恥ずかしながら、わたくし、その昔は「エゴひいき」だと思っていました…。エゴでひいきをするのかと。まさか、「依怙贔屓」とは…。雷に打たれるほどの衝撃だったが、徳川家康の言葉とは、納得である。

家康は、非常に公平性を重んじる武将の一人である。それは、彼が今まで滅ぼした一族の遺臣を殺さずに召し抱えた事実が、如実に物語っているところである。今川氏、北条氏、そして武田氏。特に武田家遺臣は能力が高く忠義溢れる者が多かったという。そのため、結果、900名もの遺臣が徳川軍に引き継がれたのだとか。その中には、のちの金山奉行大久保長安のような人材も。信長は残党狩りを行っていたが、家康は召し抱えた。それが両者の違いなのかもしれない。

家臣をどのように定義するか。
ただの捨て駒のように、代替可能な一部品とみるのか。それとも、同じ人として扱うのか。考え方一つで、家臣団の結束は大いに変わる。それは、自分が死んだときに初めて分かることなのかもしれない。

同じ天下人でありながら、世襲できなかった豊臣家と15代まで続いた徳川家。じつは、生前、彼らはお宝自慢をしたことがあったという。派手好きな秀吉が、秘蔵の名物茶器を家康に自慢したのだとか。そして、どのような名物茶器を持っているのかと聞いたところ、家康からは思いもよらない答えが。

「名物茶器など持ってはいない。危険を顧みず火の中、水の中へ飛び込むような、命知らずの家来が宝」
これを聞いた秀吉は、大いに恥じたという。

家来が宝。
胸ズキュンの直球ワードである。あー誰かに言われてみたい。おっと、言い忘れていたが、これが「掟そのゼロ」。是非とも忘れないで頂きたい。

参考文献
『戦国時代の大誤解』 熊谷充亮二著 彩図社 2015年1月
『戦国武将の手紙を読む』 小和田哲男著 中央公論新社 2010年11月
『戦国武将に学ぶ究極のマネジメント』 二木謙一著 中央公論新社 2019年2月

アイキャッチ画像はイメージです。(出典:シカゴ美術館

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。