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2020.05.02

徳川家康と女性エピソード。正室・築山殿や側室・於万の方、城主の妻など紹介

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戦国乱世の覇者、徳川家康。愛知県三河地方に位置する岡崎城主の嫡子として生まれた彼は、75歳で亡くなるまで波乱万丈の生涯を送りました。
そのうち、浜松城で過ごした期間は29~45歳までの17年。この江戸幕府の原点ともいえる浜松の地では、彼と関わった女性たちの痕跡を今もなお見ることができます。正室・築山御前、側室・於万の方(長勝院)、そして敵将の正妻……彼をとりまく3人の女性たちとそれにまつわるエピソードを、浜松在住の筆者がご紹介します。

悲運の正室・築山御前

西来院所蔵

今川義元の義妹と、その一族の有力な家臣・関口親永との間に生まれた娘は、当時住んでいた地名から瀬名姫と呼ばれ成長します。この瀬名姫がのちに家康の正室となる築山御前(築山殿)です。生まれ年は分かりませんが、家康と同い年だったとも、姉さん女房だったともいわれています。
一方、岡崎城主の嫡子として生まれたものの駿府の今川家で人質生活を送っていた家康(当時は竹千代)は、元服して元信と名を改めた2年後の弘治3(1557)年に築山御前(当時は瀬名姫)と婚姻しました。翌年には元康と改名し、永禄2(1559)年には長男・信康が誕生。さらに永禄3(1560)年には長女・亀姫も誕生。

……というと、なんだか幸せな結婚生活のように思えますが、そこは戦国の世。亀姫誕生の約半月前に起こった桶狭間合戦により、築山御前と血縁関係にあった今川義元が戦死。今川方の拠点・大高城に兵糧入りしていた家康は敗走し、駿府には戻らず岡崎城に入ってしまいます。
「岡崎城って家康(当時は元康)の生まれた城でしょ? 入るって何!? 」と思われても不思議はありませんが、当時の岡崎城は今川方の支城のひとつ。義元戦死の報に驚いた今川軍が放棄し、城主不在となっていたのです。無事に岡崎城を奪還した家康は、その後も駿府へは帰りませんでした。

とすると、駿府に残された築山御前母子はどうなるのでしょうか。合戦が終わっても、待てど暮らせど夫君たる家康は赤子を抱えた彼女のもとには帰ってきません。それどころか彼は故郷の岡崎城で、義元を討った織田信長と同盟を結んでしまいます。
今川家から見れば、信長は敵将。そこと手を結んだ家康の妻子は、いつ殺されてもおかしくない状況です。幸いにもこの時には家康の家臣・石川数正が策士ぶりを発揮し母子を救出、岡崎へ連れ帰ります。数正、グッジョブです。

瀬名姫から築山御前へ。名の謂れは…

無事に岡崎入りした築山御前ですが、最初の住まいは岡崎城内ではなく、城外にある総持寺の築山近くでした。そう、築山御前という呼び名はそこから付けられたようです。

時は流れ、永禄10(1567)年5月には信長の娘・徳姫(五徳姫)と家康の長男・信康が婚姻し、徳姫が岡崎城に入ります。当時の岡崎城には家康の生母・於大の方が住んでいたので、今川方の血縁者である築山御前は、なかなか岡崎城内に入ることを許されなかったともいわれています。
彼女が「城主の生母」として岡崎城内で過ごせるようになったのは元亀元(1570)年のこと。家康が浜松城へ入城するにあたり、岡崎城を信康に譲ったためです。婚姻し城主になったとはいえ信康はまだまだ子ども。徳姫と信康の間に第一子が生まれたのは、それから6年後のことです。

さて、その間に家康はというと、浜松城内で彼に仕えていた側室・於万の方との間に次男をもうけてしまいます。嫡男・信康に次ぐ男児出生です。さらにその5年後には、別の側室との間に三男が誕生しました。
そのことを知った築山御前の胸中には、ある種の焦りが生まれました。なぜならば、信康の正室・徳姫は第一子・二子を年子で出産したものの、どちらも女子。通常、女子は武家の跡継ぎにはなれません。そこで信康の跡取りが欲しい築山御前は、彼に側室を迎え入れました。
姑が嫁の気持ちも考えず息子のために、ひいてはわが身の安泰のためにと側室を勧める。……なんだか、きな臭くなってきたと思いませんか?

それは一通の書状からはじまった

家康に三男が誕生した頃と前後して、岡崎城にいる徳姫から安土城にいる父・信長のもとへ一通の書状が届けられました。この書状が、家康と築山御前たちとの仲を永遠に引き裂く原因となった「十二ヶ条の書立(書状)」です。

その内容は、
・築山御前が信康と自分との仲を裂こうとしている
・大将は男児こそが大切だからと、信康に旧武田家家臣の娘を側室に勧めた
・築山御前は滅敬(めっけい)という唐人の医師と密通している
・築山御前と信康は武田勝頼と内通している(勝頼から血判つきの誓書が送られてきた)
・信康は日頃から乱暴で侍女を刺殺した
など、築山御前と信康を非難したもの。築山御前が信康に勧めた側室はたしかに旧武田家家臣の娘ですが、他は根拠が乏しく言いがかりとしか言いようがありません。
というのは、当時の武田軍は天正3(1575)年に長篠・設楽原の合戦で敗れて以来、情勢を立て直すことが難しく、大井川から東を抑えるのでやっとだったからです。「内通の証拠と言われている勝頼からの誓書を見た」とされているのは家康を含めてごく僅か。徳姫ですら築山御前の侍女経由で誓書のことを知ったとされ、実際には見ていないようです。

しかし、これを読んだ信長は激怒し家康に2人の処分を申し付けました。織田家と徳川家は同盟を結んでいるので表向きは対等ですが、力の差は歴然。信長からの命令に逆らえない立場の家康は、断腸の思いで2人の殺害を腹心の家臣に命じます。

「築山御前事件」の結末は?

信長が娘からの書状を受け取って、2人が処分されるまでの間は半年もかかりませんでした。
天正7(1579)年8月29日に築山御前が殺害され、9月15日には信康が自刃。母である築山御前が先に殺害されたのは、彼女を生かしておいた場合、「我が子の自刃を知った時に取り乱して、何か事を起こす可能性があるから」といわれています。

築山御前が殺害されたのは、浜名湖東側にある佐鳴湖畔。岡崎城からは本坂峠(姫街道)を通り三ヶ日から船に乗って猪鼻湖経由で浜名湖へ。そこから南下し宇布見の中村家で1泊。翌日も船に乗り浜名湖と佐鳴湖を結ぶ入野の新川をさかのぼって佐鳴湖に入り、その東岸で下船します。
上陸後の彼女は、その周辺で家臣・岡本時仲と野中重政により斬られ絶命。首級は野中により落とされ、首検分のために岡崎城へと運ばれました。
この時、築山御前を斬った太刀についた血を洗った池の跡は、現在「史蹟 大刀洗の池」として残されています。墓所は浜松城から西へ1キロ弱の高松山西来禅院にあり、岡崎城へ運ばれた首級は岡崎市内の八柱神社内にある「築山御前塚」に祀られています。

写真提供:浜松・浜名湖ツーリズムビューロー

信康は、岡崎城から浜名湖沿岸の堀江城に移され、さらに二俣城で幽閉状態となりました。家康から信康自刃説得に派遣されたのは服部半蔵。彼は信康に「殿からの命令なので切腹してください」と告げますが、身に覚えのない信康はそれを拒否。しかし父の命令に背くことはできずに自刃します。享年21歳のことでした。
その後、彼の首級は母と同じように首検分のため岡崎城へ移送。首塚は岡崎市内の若宮八幡宮にあります。墓所は二俣城からほど近い信康山清瀧寺。名前が使われているのは、信康の廟所として家康により建立されたためです。

一度に正室と嫡男を失った家康は、のちに築山御前について「女なのだから尼にでもして、逃してやればよいものを」と漏らしたそうです。

生んだ息子は双生児! 側室・於万の方


築山御前が岡崎城にいた頃、浜松城内で家康に見初められたのが於万の方です。三河地方の知立城主・永見貞英(吉英)と刈谷城主・水野忠政の娘との間に生まれ、家康の側室となる前は、おこちゃと呼ばれていたようです。家康の母と於万の方の母は姉妹であったため、ふたりはいとこ同士という関係でした。

小説などでは「築山御前の侍女をしている時に、家康の情けを湯殿で受けて懐妊。それが築山御前にバレて厳しい折檻をされた」と書かれることもありますが、これは後年の創作です。というのも、築山御前にとって於万の方は、義母にあたる於大の方の姪なので酷い仕打ちはできなかったと思われるからです。
さらに彼女が懐妊した当時、築山御前は岡崎城で暮らしていました。距離的問題からも、浜松城内にいる彼女を折檻することはできませんよね。

代官屋敷で次男出産

身重となった於万の方は無事に浜松城内で出産……したわけではなく、天正元(1573)年の末から浜名湖南東部の宇布見にある代官・中村家で過ごし、翌年2月に無事男児を出産しました。中村家に預けられるようになったのは、浜松城の普請が重なり城内が安定せず落ち着かなかったからとも、築山御前への配慮ともいわれています。
生まれた息子は双生児だったため、1人は於万の方の元で、もう1人は知立にある彼女の実家の元で育てることに。当時、双生児や三つ子などの多胎児は「畜生腹」と呼ばれ忌み嫌われていたので、生まれて間もなく分かれることになったのです。

さて、双生児として生まれたせいで嫌われたのか、合戦で忙しかったからなのか、於万の方の元で育っている男児は、父・家康となかなか対面が叶いませんでした。はじめて対面したのは、3歳の頃。異母兄・信康の計らいでやっと対面を果たします。
その時、御義伊(御義丸)という幼名がつけられました。由来は、家康が「『ギギ』という魚に似ている」と言ったからだとか。ギギはナマズ目の淡水魚。本当に似ていたかどうかは疑問ですが、家康は於万の方を疎んでいたというので、子どもの名付けも真剣になれなかったのかもしれません。

於万の方の晩年は…

その後の於万の方について、詳しいことは分かりません。ただ、愛息の結城秀康(幼名は御義伊)が関ヶ原の合戦時の活躍により、越前一国を治める大名となったため、その地で暮らすようになったことは確かです。しかし、その生活も長くは続かず、秀康は慶長12(1607)年に病死。享年34歳でした。
秀康の死後、於万の方は家康の許しを得ることもなく剃髪。長勝院と号しました。このことについて、家康からのお咎めはなかったとのこと。彼女は「家康の側室」というよりも「次男・秀康の母」として人生を送った、といっても過言ではないでしょう。
長勝院として余生を送った彼女は、元和5(1619)年に72歳でその生涯を閉じました。墓所は生前から信仰が篤かった福井県の永平寺にあります。また、和歌山県北部にある高野山奥には、於万の方と息子たちの名が刻まれた石廟(せきびょう)が並んでいます。

ところで、於万の方が家康から遠ざけられ疎まれた理由は、いったいなんだったのでしょう。正室・築山御前と離れて暮らす家康が、空閨(くうけい)の寂しさを埋めるために手を出してしまったものの、性格などが合わなかったのか。それとも双生児を生んだことで、ケチがついたのか。はたまた、単に飽きただけ!?
「新しい側室ができたからじゃないの!?」……と思う方もいるかもしれませんが、彼女が出産した当時は、まだ家康の寵愛を受ける側室・お愛の方が浜松城に現れる前のことでした。

城を枕に討死! お田鶴の方


最後に家康の正室でも側室でもない女性の紹介を。
それは家康が浜松城に入る前に浜松周辺を治めていた曳馬(ひくま)城主・飯尾連龍(いのお つらたつ)の正妻・お田鶴(おたづ)の方です。母方から今川の血を受け継ぎ、今川義元は伯父、そして築山御前とは義理のいとこという関係で、嫁ぎ先の飯尾家は代々、今川家の家臣でした。

永禄3(1560)年に起こった桶狭間合戦で義元が戦死すると、駿府や遠江周辺の国衆たちは今まで通り今川につくか、それとも甲斐の武田につくか、それとも尾張の織田や三河の徳川の味方につくかで大いに迷いました。義元の存在は大きく力もありましたが、その息子・氏真にはそこまでの力がなかったからです。
この時、飯尾家は思い切って今川から離れ、勢力を伸ばしてきた徳川へつくことに。それを知った氏真は永禄5(1562)年に曳馬城を攻撃しますが、堅固な守りで城は落ちませんでした。そのため氏真は連龍に和睦を申し入れ、連龍はそれを受け入れます。
しかし、和睦をしても氏真の疑念は晴れず、連龍を駿府城へ呼び出し誅殺。こうしてお田鶴の方は後室(未亡人)となったのです。

家康vsお田鶴の方

突然、城主が亡くなる。それだけでも城内は充分混乱しますが、曳馬城はそれに輪をかけて大混乱となりました。というのは、連龍の家老であった江間兄弟が内部分裂を起したから。兄弟げんかの果てに殺し合いとなり、曳馬城は城主どころか家老も不在となってしまったのです。
その曳馬城を家康が見逃すはずがなく、「お田鶴の方とその息子だけではなく、家人の面倒も見るので、おとなしく城を明け渡せ」と降伏を促します。しかし、お田鶴の方は首を縦に振らず城内に籠ったままでした。

永禄11(1568)年12月。業を煮やした家康は、ついに曳馬城を攻撃。守るのはお田鶴の方と城兵、侍女たちです。
かつて氏真が攻めても落ちなかった城は、彼女の指揮のもと今回も容易には落ちませんでした。とはいえ、徳川軍との兵力の差から曳馬城は次第に不利に……。緋縅(ひおどし)の甲冑に身を包んだ彼女は、手にした薙刀をふるい敵兵へ突進、奮闘しますが敢え無く討死し、曳馬城は落城しました。

その後、お田鶴の方と侍女たちの亡骸は葬られ塚が築かれました。塚の周囲には、彼女の死を悼んだ築山御前が100本余りの椿を植えたため、いつしか「椿塚」と呼ばれるようになりました。築山御前とお田鶴の方は母方を通してのいとこ同士。悲しみもひとしおだったことでしょう。

現在「椿塚」は残っておらず、浜松東照宮から北東方面へ500メートルほどのところにある「椿姫観音堂」に、お田鶴の方と侍女たちは祀られています。浜松東照宮は、彼女が守っていた曳馬城のあった場所に建立された神社です。

今川の姫で地方城主の妻。群雄割拠の時代でなければ、お田鶴の方は平穏な生涯を送ったことでしょう。女性といえども城を守るべく命を散らした彼女を現代の方はどのように思うでしょうか。

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