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Culture
2020.05.25

徳川家康に最も愛された側室「阿茶局」。じつは現代女性を超えるほどのバリキャリだった⁈

この記事を書いた人

徳川家康に最も愛された女性。
そう聞けば、どんな女性をイメージするだろう。

若くてキレイで癒し系。それとも堅実な良妻賢母タイプ。いや、妖艶漂う女盛りの未亡人に、清楚で従順なおしとやか系。もう、挙げればキリがない。書いていて、こちらまで迷うほどである。

さて、徳川家康の正室は2人、築山殿(つきやまどの)と朝日殿(あさひどの)。前者は今川義元の姪で、後者は豊臣秀吉の妹。どちらも政略結婚だ。一方で、側室の数はというと定かではない。19名とも、それ以上ともいわれている。家康を取り巻く総勢20名を超える女性たち。こうみると、まあまあな人数である。

その中で最も愛された女性といわれたのが「阿茶局(あちゃのつぼね)」。

じつは、阿茶局は初婚ではない。未亡人となってからの彼女の人生は波乱万丈。25歳のときに家康の目に留まって側室に。馬術、武術に優れ、これまでとは違ったタイプの側室だったといえる。共に戦場へも同行していることから、どちらかといえば「パートナー」のような関係だったのかもしれない。

「小牧・長久手の戦い」では、戦場に同行して流産。残念ながら、のちに子どもが産めない身体となったが、家康の寵愛は変わらずに続いたという。駿府城(静岡県)へ隠居する際も、側室の中で唯一連れて行ったのが「阿茶局」だったとか。

さて、ここで一つの疑問が。
彼女の何が、家康を惹きつけて離さなかったのか。

かの徳川家康に、ここまで大事にされるには、何か理由があるはず。それが分かれば、是非とも参考にしたいところ。いやいや、下心などない。純粋に、歴史を紐解きたいだけで、「愛される女性」を目指すためにだなんて、滅相もない。

今回は、「阿茶局」の一生から、浮き彫りとなる新たな女性像を探っていこう。

タイミングこそ全て。「阿茶局」との出会いは必然だった⁈

天正7(1579)年。失意の中で自分を責め続けた男(38歳)が一人。というのも、これまでの、そしてこれからの人生の中で、一番辛い出来事が、彼の身に起こったからだ。それは、子と妻を一気に亡くすという悲劇。想像以上の痛手。トラウマさえ残るほどの苦行。これだけでも辛いのに、皮肉にも、その原因を作ったのは自分。自らが「彼らの死」を命じなければならなかった。誰を恨んでいいのか。人生の矛盾に答えなどないと気付く。

その男性とは、のちに天下人となる徳川家康。
当時、織田信長と同盟関係にあった家康は、窮地に立たされていた。原因は、長男・信康(のぶやす)の妻、徳姫の手紙である。徳姫は信長の娘で、家康の正室・築山殿と嫁姑関係がこじれている真っ最中の状況。そのせいもあり、徳姫は父・信長に対して、夫である信康の愚痴や、夫と姑が武田方に内通していると、手紙で訴える。これを受けて信長は即刻、罪状認否を行い、信康の切腹を言い渡す。

徳川家康像

織田信長の決定に、徳川家中での反発は大きかった。しかし、当時の家康はまだまだ力不足。選択肢などなかったのである。一時の感情で動いて信長に敵対するなど、家の存続を考えればできぬこと。已む無く、長男・信康と正室の築山殿を見捨てる決断を下す。

天正7(1579)年8月に築山殿殺害、9月に幽閉されていた信康は切腹。

残された文書に、築山殿が殺害された当時の状況が記されている。「今日は岡崎から夫に会える」と築山殿は極上の晴れ着を身に着けていたのだとか。少しでも綺麗な姿で家康に会いたかったのだろう。報告を受けた家康は、一説には、なんとか築山殿を逃がせなかったのかと、介錯人を責めたとも。地獄を見たとは、まさに当時の家康のコトなのかもしれない。

そして、同年。
天正7(1579)年のこと。『神尾氏旧記』と『当院古記』の資料によれば、「阿茶局(あちゃのつぼね)」が徳川家康に側室として召し出されたのが、この年だとか。人生最悪の時期に、家康は阿茶局と出会ったのである。どのような経緯で、家康の目に留まったのかは不明。ただ、彼女が心の琴線に触れたのは確かだろう。ある意味、家康は阿茶局との出会いで、人生を救われたともいえるのだ。

未亡人で出産経験者が家康の好み?超ストライクの「阿茶局」

よほどのコトがない限り、女性の趣味はそうそう変わらない。これは、現代の男性にも当てはまるのかもしれない。

戦国時代、政略結婚により同盟を強化したとはいえ、側室は自分の好みで選ぶことが多かった。例えば、豊臣秀吉は出自のコンプレックスゆえに、身分の高い女性、加えて美少女が好み。子孫を多く残すという「結果」よりも、その「過程」を重視したきらいがある。

一方、徳川家康はというと、晩年を除いては、秀吉と真逆。子孫を多く残す「結果」だけを求めた。そのため、側室には未亡人が多く、出産経験者も多数含まれていた。確かに、無事に一度出産した経験があれば、子を産む確率が比較的高いと判断したのだろう。

判明しているだけでも、5人が未亡人、3人が元侍女。美人は少なく、女中顔が多かったとも伝わっている。とにかく、丈夫で健康的。生命力に溢れてたくましい女性が好みであったようだ。

さて、そんな中で「阿茶局」は、家康の超ストライク。
もとは、武田家に仕えた飯田直政(いいだなおまさ)の娘で、19歳のときに、神尾忠重(かみおただしげ)に嫁ぐ。だが、忠重は亡くなり、未亡人に。なお、忠重との間には、一男一女をもうけている。つまり、阿茶局は、「未亡人」で「出産経験あり」なのだ。

そのうえ、武芸と馬術に優れていたという。戦場に同行する際は、阿茶局も馬に乗っていたのだとか。確かに、武家に生まれたからには、女性でも武術を習得するのは当たり前。ただ、戦場で前線に出るためではない。籠城に備えてのこと。そういう意味では、阿茶局は典型的な「側室」には、収まり切れない人物のようだ。

眩しすぎる「阿茶局」のバリキャリぶり

「未亡人+出産経験+相当の武術」

ただ、これだけでは、家康の寵愛を受けるには、まだ足りない。というのも、身分を限定しなければ、該当者は他にも1人や2人、簡単に出てくるだろう。それでも、きっと家康は満足しないはず。

家康が、「阿茶局」に固執した理由。
一体、彼女には、どのような魅力があったのか。

それは、家康と同じ「モノサシ」を持つコト。
いわば、政治力である。

『徳川実記』には、阿茶局のことが、このように記されている。

「阿茶の局という、女にめずらしき才略ありて、そこ頃出頭し、おほかた御陣中にも召具せられ、慶長十九年(一六一四)大坂の御陣にも常高院とおなじく城中にいり、淀殿に対面して御和睦の事ども、すべて思召ままになしおほせけるをもて、世にその才覚を感ぜざるものなし」

阿茶局を表す言葉に「才略」「才覚」が登場する。

いいねえ。阿茶局。
一言でいうと、彼女は「デキる女」なのだ。社長の右腕となって、会社運営にも口を出すことができる「社長室長」といった感じか。実力でのし上がった生粋のバリキャリである。もちろん、周囲も認めざるを得ない実績だって勝ち取ってくる。その代表例が「大坂の陣」の交渉である。

大坂城

2回にわたる「大坂の陣」の戦いで、豊臣秀吉の遺児・秀頼は滅亡。これで、徳川家の支配は確固たるものになった。この戦いのきっかけとなったのが「方広寺鐘名事件」。豊臣方の鐘に難癖をつけたあの有名な事件である。弁明のために駆け付けた豊臣方の家臣・片桐且元(かたぎりかつもと)。この場面で、彼らと対面し外交担当を引き受けていたのが、阿茶局であった。

また、大坂夏の陣のハイライトである大坂城の落城。もともと難攻不落の城と名高い「大坂城」であったが、堀を埋めることに成功。これも「大坂冬の陣」の講和が結べたからこそ。この講和をまとめたのも、阿茶局。これらの功績により、彼女は徳川家中からも一目置かれる存在となる。

ただ、あまりの才覚に、引退を許されず。
徳川家康の死後も、彼女は政治の世界へと留め置かれた。側室の中で唯一、剃髪を許されなかったのである。これも家康の遺命だったという。2代秀忠には阿茶局の政治力がどうしても必要だと判断の末のこと。

そして、やはりというか。家康の目は正しかった。元和6(1620)年、秀忠の五女・和子(まさこ)が後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の女御として入内。天皇家に嫁ぐことに。この和子に随行したのが、阿茶局である。

中院通村(なかのいんみちむら)の日記には、阿茶局は秀忠の「母代」と記録されている。実際に、秀忠の実母・西郷局(さいごうのつぼね)が亡くなって、家康は阿茶局に秀忠を育てさせた。秀忠の母親代わりだった阿茶局は、和子にとってもまた、必要な存在だったようだ。その後も阿茶局は、和子の懐胎、出産のたびに上洛し、尽力する。

結果的に、阿茶局は、皇后の義母と同じような立ち位置に。そのため、官位も「従一位」。これは、臣下の女性としては最高位にあたるのだとか。そこまでの大出世を遂げた阿茶局だが、秀忠が死したのち、ようやく剃髪を許されている。号は「雲光院(うんこういん)」。

そして、寛永14(1637)年。静かにこの世を去る。大往生の83歳。家康の死後、21年も生きた阿茶局であった。

さて、最後に。
「阿茶局」「雲光院」など、多くの名で呼ばれたが、もともとの名は「須和(すわ)」。彼女は非常に聡明で気遣いができる人であった。こんな逸話が残されている。

江戸城から、使者として酒井家次(さかいいえつぐ)が駿府城へと到着したときのこと。あまりの寒さに、家次は、折烏帽子(おりえぼし)の下に防寒用の綿帽子を付けていたという。そのまま家康に拝謁したところ、運悪く綿帽子が見えてしまう。それを見た家康は、あまりの軟弱ぶりに叱責。そこで、そばにいた阿茶局が、さっとフォロー。

「風邪をひき、拝謁が難しい状況のため、私が綿帽子をかぶるように助言をしました」

この言葉に、家康も機嫌を直したという。こうして、無事に拝謁も終わったのだとか。

自分の判断で、良かれと思って行動を起こす。それも嫌味なく、自然に。できるようで、非常に難しいコトだ。阿茶局は、こうした「ちょっとした気遣い」ができる素敵な女性だったと思う。

戦国時代において下剋上を勝ち抜き、天下統一を果たす。その後も、江戸幕府を開き、盤石な体制を築くのに苦労した。ずっと争いが絶えないところに身を置いてきた家康にとって、阿茶局は力を抜くことができる唯一の存在だったのだろう。さらに、その有能さから、多くのコトを共有できた。些細な事柄から政治的問題まで。話題を考えて口にする必要などない。彼女は、非常に稀有な人物だったに違いない。

嬉しいことも悲しいことも全て分かち合える。
思えば、考え方や価値観が大きく異なった、前正室の「築山殿」。そのせいで、息子を死なせてしまった自責の念。そんな悲しみに暮れたときに出会ったのが「阿茶局」だった。

失ったモノも大きかったかもしれない。
しかし、得たモノも大きかったはず。
「阿茶局」が、その筆頭なのではないだろうか。

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参考文献
『阿茶局』 白嵜 顕成 田中 祥雄 小川 雄著 文芸社 2015年10月
別冊太陽『徳川家康没後四百年』 小和田哲男監修 平凡社 2015年4月
『戦国姫物語―城を支えた女たち』 山名美和子著 鳳書院 2012年10月
『徳川家康に学ぶ健康法』 永野次郎編 株式会社メディアソフト 2015年1月
『戦国を生きた姫君たち』 火坂将志著 株式会社角川 2015年9月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。