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2020.12.23

大反対をよそに恋愛結婚。陸軍大将・大山巌の結婚生活は幸福だったか?

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明治以後に活躍した大山巌に関しては、小説やドラマで知ったという方も多く、実際の人物像はよく知られていません。「大山巌にまつわるウソ・ホント」後編では、結婚について取り上げます。

※前編はこちらから

年の差婚だった

ホントです。

大山巌は先妻と死別したあと再婚しておりますが、先妻と後妻は偶然にも同い年で、大山巌とは18歳の年齢差がありました。当時は女性の結婚が15歳頃から始っていたことを思えば、父娘ほどの年齢差といえます。

大山巌は次男で、家を継ぐ兄がおりましたし、維新前は反政府活動に従事する革命の闘士みたいな活動をしていましたので、家庭を築こうとは思わなかったようです。明治に入ってからも独身のまま普仏戦争を観戦しに渡欧したり、帰国したかと思えば直ぐさまスイスに留学していたりで、結婚願望は希薄だったとしか思えません。

結婚のきっかけはスイスからの帰国

明治6年の征韓論争と呼ばれる政変劇があったのは、大山巌の留学中のことでした。西郷隆盛は政府を去って鹿児島に戻り、私学校を設立しました。近い将来、士族への俸禄支払いが打ち切られるため、彼らに生活の途を与えることは急務でした。私学校は「士族授産」を主な目的とし、軍人を志望する士族の子弟を教育するために設立されましたが、次第に反政府的な気分を高めて行きました。

政府に残った人たちは、西郷を東京へ呼び戻そうと考えました。しかし、説得の使者を誰にするかが問題でした。政府と私学校との関係は険悪で、政府から派遣した使者が生きて帰れる保証はなかったのです。

ひとり適任者がいました。西郷隆盛の従兄弟にあたる血縁者で、しかも海外留学中で政変には無関係でいた、大山巌です。留学先のスイスに、帰国を促す手紙が届けられました。

大砲に関する先進的な技術を習得するという目的を達していなかった大山巌は、帰国を拒絶しました。ようやく専門書を読めるくらいまでフランス語を習得し、専門分野の研究に差し掛かった時期だったからです。頑なに帰国を拒む大山巌を呼び戻すため、吉井友実がスイスに派遣されました。そこまでされては帰らないわけにいきません。

大山巌「第二回渡欧日記」出典元:国立国会図書館

吉井は薩摩の人で、維新前に西郷の秘書役をつとめており、政変前に西郷が宮廷改革に乗り出したときは、宮内少輔としてともに宮廷問題に当たっていた人で、大山巌にとっては同郷のアニキといったところでした。なにぶん、航空機がなかった時代です。日本までの長い船旅をともにするうち、吉井と大山巌はいっそう親しくなって、吉井の娘を大山巌に嫁がせることにしたのでした。とっくに30を過ぎて独身だった大山巌が、家庭を築くきっかけはここにありました。

帰国後、大山巌は西郷説得のため鹿児島に一ヶ月も滞在していますが、その間に何を話したかはわかりません。会談内容を伝える記録はひとつも無く、子孫にも伝承らしいことは伝わっておりません。ただ、西郷が大山の説得に応じなかったのは、厳然たる歴史的事実です。

西郷の説得は失敗しましたが、大山は無事に東京へ戻ることが出来ました。そして明治7年に吉井の娘、沢子と結婚しています。大山巌と沢子との間に出来た子は女の子が4人で、そのうち3人が成人しています。乳幼児の死亡率が高かったことを思えば、良い母親でした。しかし、4人目を出産したあと体調を崩し、名医ベルツが往診したときは既に手遅れで、明治15年に病死してしまいます。(『ベルツの日記 第一部 上』岩波文庫)

残された3人の女の子たちは、吉井にとっては孫でした。母無し子になってしまったのが心配だったようで、毎日のように大山巌の家を訪れていました。吉井が気にしたのは、その都度、違う人が子守をしていたことです。住み込みの使用人に子育てを委ねていたのでは、交替制にせざるを得ません。

「誰か身内の者に世話をしてもらえないだろうか」

ということで、大山巌の姉である有馬國子に育児を委ねましたが、大山巌にとっては不本意なことでした。國子は「女に学問は要らぬ」という教育方針だったからです。

フランスやスイスでは、女性たちも社交界で活躍していました。フランスの女性が英語を話し、イギリスの女性がドイツ語を完璧に聞き取り、会話が歴史や科学に及んだら気のきいた質問をして参会者の理解を促すのも女性の役割でした。大山巌は、そういった教養あふれる女性に娘たちを育てたいと思っていたので、國子とは教育方針が大きく異なっていたのです。しかし、窮状を見かねて助けてくれたのですから、無碍に「お引き取りください」とはいえません。角を立てないように解決を図るには、大山巌が再婚して、後妻を迎えることがいちばんの早道でした。

先妻と同じ年の山川捨松との出会い

ちょうどその頃、米国ヴァッサー大学を卒業した山川捨松が帰国しました。会津藩国家老、山川重固の娘として生まれ、明治4年には国費女子留学生に応募して11歳で渡米し、23歳で帰国しました。長い留学生活で日本の生活習慣を忘れており、和服を着るのも不自由したそうです。そして、日本で標準語が形成された明治初年に母国を離れていたため、話すのはほとんど忘れかけの、たどたどしい会津訛りでした。

帰国したら女子大学で英語の教師になる算段でいた捨松でしたが、すでに設立されているはずの女子大学は影も形もありませんでした。そして、当時の結婚適齢期は10代後半でしたから、23歳で許嫁もいなかった捨松は「行き遅れ」と陰口を叩かれました。いっしょに渡米した留学仲間の永井繁子は、帰国後ほどなく海軍士官の瓜生外吉と結婚しました。その披露宴で捨松は大山巌と出遭います。

巷間、このとき大山巌が一目惚れをしたといわれますが、先に吉井友実の方が捨松に着目していたようです。吉井が子育ての即戦力を大山巌にあてがいたかったのは間違いありません。結婚適齢の15、16歳だと3人の育児は荷が重すぎます。捨松は23歳で、亡くなった沢子と同い年なのも子育てを引き継ぐのに好都合でした。捨松の側も、女性で学士となったことで「結婚相手は、博士か大臣か」と、皮肉をいわれて困惑していたところ、陸軍卿大山巌という閣僚級の独身男性が現れたわけです。まさしく天の配剤、願ってもない巡り合わせでした。大山巌は従兄弟の西郷従道を使者に立て、山川家に縁談を申し入れました。

近世名士写真.其1「大山巌」出典:国立国会図書館

薩摩と会津は戊辰戦争で戦った間柄でしたが、大山巌は会津若松攻城戦の初日に重傷を負い、一発の砲弾も撃たないまま後退しました。当時8歳だった捨松も幼児でしたから薙刀を執って戦うようなことはなく、世間に流布している「焼玉おさえ」と称する水を吸って重くなった濡れ布団を飛来した砲弾に被せて爆発させないようにしたというのも、幼女が重い濡れ布団を持ち上げられるはずもなく、事実ではありません。城内への砲撃で親族が傷ついて苦しみながら死ぬのを目にした程度の戦争体験はありましたが、わが手で敵を殺めたわけではないので、戦争当事者としての意識は希薄です。

祝福されない再婚

二人の間に戊辰戦争の遺恨はなかったけれど、両家の親類は、いずれも大反対でした。仇敵だった薩摩と会津、会津兵に親族を殺された薩摩人もいれば、薩摩兵に屋敷を焼かれた会津人もいて、まだまだ遺恨が残っていたからです。山川家の当主は捨松の長兄にあたる、陸軍少将の山川浩でした。大山巌は陸軍大将でしたから上官です。「上官に妹を嫁がせて出世を図るつもりか」と周囲に揶揄されたこともあり、浩も捨松と大山巌との縁談には反対でした。

「自分は朝敵であった会津藩の要職にあったので……」

そういう理由で縁談を断ろうとしましたが、大山家の代理人として縁談を申し入れた西郷従道は、こう答えました。

「自分も大山も逆賊たる西郷隆盛の身内である」

そうまでいわれると浩も譲歩しなければならず、縁談の返答は「捨松の意向に従って決める」こととなりました。

この縁談に対する周囲の反応は反対一色でしたが、捨松は米国の流儀で、大山巌と二人だけで会って話し合うことを要求しました。仲人を立てずに縁談を進めるのは、当時の社会常識からはずれたことでした。この要求に応じた大山巌は、日比谷公園で捨松と話しますが、捨松はカタコトの会津訛り、大山は薩摩訛りでしたから、ろくに話が通じません。大山巌が留学で覚えたフランス語で話してみると、捨松もフランス語で返事をしました。ヴァッサー大学が所在したニューヨーク州はカナダの仏語圏に接した地域でしたから、仏語の習得は日常生活のために必要だったのです。

考え方も捨松は米国流の合理主義者で、大山巌も理系の人らしい合理主義でしたから、日本の伝統的風習と異なる価値観を持っていることで意気投合したようです。大山巌が欲した「娘に学問は要らぬ」などといわない女性と、捨松が欲した「女は男の三歩後を歩け」などといわない男性とが巡り会ったのでした。

周囲の大反対をよそに、二人は恋愛結婚をしました。当時としては非常に珍しいことです。賑々しい披露宴には多数の来賓がありましたが、心から祝福してくれる人は少なかったろうと思います。それ以来、大山巌の子孫たちは、会津とも薩摩とも、親戚づきあいが絶えたままです。

幸せな結婚生活

結婚を全周囲から反対されたことで、かえって夫婦仲は円満になりました。捨松は人前でも夫を「イワオ」と呼び捨てにし、それを当然のことのように受け入れた陸軍大将という光景は、当時の人にとっては奇異なものでしたが、二人はマイペースでした。

熟年夫婦になってから喧嘩をしたことがありました。捨松との間に生まれた次男が、その様子を以下のように伝えています。

沼津にある大山巌の別邸の背後に牛臥山があります。この山の標高が何メートルであるかで口論となり、どちらが正確に予測しているか、また、計算の根拠が数学的に妥当であるのはどちらであるか、その判定を次男に命じたというのです。まったくもって、つまらないことが原因です。そして、翌朝になると二人とも平然としていたそうですから、関係修復が出来る自信があればこその夫婦喧嘩だったように思います。

捨松は、先妻の子を育て上げ、自身でも二男一女を産み育てながら、家庭に埋没することなく社会貢献にも活躍、津田塾大学の経営にも参画しています。大正5年に夫を看取ったあと、大正8年にスペイン風邪で没しましたが、概ね幸福な結婚生活だったことでしょう。

前編「曾祖父は「君が代」を制定していない。日露戦争の総司令官、大山巌に関するウソ・ホント」はこちらから

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。