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大人だけが知っている!「静寂の京都」

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2024.08.28

画聖・雪舟は人間臭さ満載のヘンな絵描き? 生涯と作品を紹介

雪舟というと〝画聖〟と称され、「室町時代の凄く立派な画家」というイメージがあります。ですがそれは雪舟の一面でしかありません。実は「人間臭さ満載のヘンな絵描き」であった雪舟の80年を超える生涯を3000字で紹介します!

雪舟の肖像画は、71歳の時に弟子の秋月に与えた自画像(所在不明)をもとにした作がいくつも伝存。本図は徳川幕府御用となった狩野派の当主・探幽が写したもの。『雪舟像(探幽縮図 たんゆうしゅくず)』 狩野探幽 京都国立博物館 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

《備中赤浜生まれ、35歳までの京都時代》
立派な画僧を夢見て京都に上るも画風が合わず不遇をかこつ

室町時代の応永27(1420)年、備中国赤浜(びっちゅうのくにあかはま=現岡山県総社〈そうじゃ〉市)に生まれた雪舟。家系についての詳細は不明ですが、生家は武家とされ、本人は藤氏(とうし=藤原氏)だと語っていたともいわれています。赤浜には藤原姓の実力者がいたので、雪舟はその一族だった可能性も。10代前半で地元の宝福寺(ほうふくじ)に入っているので、嫡男(ちゃくなん)ではなかったと考えられています。

この禅刹(ぜんさつ)宝福寺が、𠮟られて柱に縛り付けられた雪舟少年が、足を使って涙で床にねずみを描いた、という逸話の舞台。これは後世のつくり話ですが、幼いころから絵が上手だったのかもしれません。

京都へ上ったのは10代後半のこと。宝福寺は五山4位である東福寺(とうふくじ)系の有力寺院だったので、まずは東福寺に入り、のち五山2位の相国寺(しょうこくじ)で禅と絵画を学ぶことに。師は、当時京都で最も権威をもっていた画僧・周文(しゅうぶん)でした。この恵まれた環境は雪舟に才能も後ろ盾もあったことを物語り、京都五山は幕府との繫がりが強かったので、雪舟の将来も明るかったはずです。

しかし雪舟には、京都の居心地はよくなかったよう。大寺院での修行の堅苦しさや、当時都で好まれた繊細な画風などになじめなかったのです。求めに応じて器用に描くことができず、「我」が出てしまう。そうして出世コースに乗りながらも名を上げることができずにいたところ、西国の実力者である周防国(すおうのくに=現山口県)の守護大名、大内教弘(のりひろ)が手を差し伸べます。雪舟は35歳になっていました。

中国留学などをとおしてさまざまな絵画様式を習得した雪舟は、独自の構築性と力強い筆致を持った画風を確立。右の「秋景」、左の「冬景」ともに理知的な構築性が強く感じられる。『秋冬山水図(しゅうとうさんすいず)』 雪舟 室町時代・15世紀末~16世紀初 東京国立博物館 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

《30代後半から10年以上の第1期山口時代》
有力大名大内氏の庇護の下、のびのびと才能を発揮

京都の相国寺での雪舟は、賓客を接待する知客(しか)という役職についていました。絵が描けるうえ人づきあいにも慣れていたところが大内氏の目に留まったのでしょう。山口に移った雪舟は、京都の相国寺時代と同様、寺院や僧侶の求めに応じて仏画や僧侶の肖像画、山水画などを描きます。もちろん、大内の殿様や家臣のための、肖像画や調度品である屛風絵などにも腕を振るいました。

さらに、山口を訪れる禅僧の接待も雪舟の重要な役目でした。政治や外交に力のある高僧は大内氏にとってVIPですから、雪舟は絵が描ける接待係として重宝されたのです。文雅と政治の場が密接だった時代、絵画は座を盛り上げる格好のツール。会合の場で筆を即興で走らせれば、要人に詩の賛を書いてもらいやすかったはずで、賛が重要視される雪舟作品が多いのも頷けます。「日本美術史上最も名前を知られた画家」や「画聖」という堅苦しいイメージとは異なり、どうやら雪舟は外向的な性格だったようです。

また、大陸とも交流した大内氏が有する中国や朝鮮の絵画に接したことも大きな学びに。山口への移住は、雪舟にとって生涯一大きな転機だったといえるでしょう。

弟子の作が大半を占める〝伝雪舟〟の花鳥図屏風絵群の中にあって唯一、雪舟自筆とみなされている作品。『四季花鳥図屛風』 雪舟 重文 京都国立博物館 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

《48歳から中国へ2年の〝長期出張〟》
中国絵画に学び独自の表現力を身につける

自らの工房を開いて大いに活躍していた雪舟ですが、48歳で次の転機が訪れます。記録係の絵師として遣明使(けんみんし)に随行するメンバーに選出され、大内船で海を渡ることに。水墨画の本場、中国へ上陸です。

日本との窓口だった港湾都市の寧波(ニンポー)に着いた雪舟は、表敬訪問した近郊の禅刹・天童寺(てんどうじ)で「首座(しゅそ)」という称号を授かりました。これは住持(じゅうじ)に次ぐ役職で名誉市民のような形式的なものですが、雪舟はことのほかうれしかったよう。以降、寧波の別名四明(しめい)を用い、「四明天童第一座(寧波の天童寺の首座)」という署名を晩年まで使用します。

2年に及んだ中国滞在は、いわば公的な長期出張。絵を学ぶための旅ではなかったものの、寧波や北京など都市での余暇には中国絵画を勉強。二都市の往復途上では西湖(せいこ)や蘇州(そしゅう)、金山寺(きんざんじ)などの名所を訪れ、移動中には、素早い筆致でのスケッチ法も習得しました。

国宝『破墨山水図(はぼくさんすいず)』の自賛に、中国では李在(りざい)と長有声(ちょうゆうせい)という画家に学んだと記しています。大画面に荒荒しく筆を走らせたり、構図の不合理をよしとする中国絵画に魅了されたのでしょう。それらは帰国後の作品に反映され、〝雪舟風〟が確立されていくのです。

割愛した画面上部には雪舟による自序と、月翁周鏡ら6人の高僧の賛(詩)が添えられている。『破墨山水図』 雪舟 国宝 室町時代・明応4年(1495) 東京国立博物館 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

《50歳で帰国、詳細不明の北九州時代》
腕を振るいたくも発注なし。戦乱期は作庭に没頭?

中国の風景や都市の様子、人々の暮らしや風俗などを大内氏に報告するため、随行カメラマンのごとくスケッチを重ねた雪舟。既存の絵図などを参照して、より詳細に仕上げることもあったようです。また、北京を訪問するさまざまな国の使節を描いた『国々人物図巻(くにぐにじんぶつずかん)』(伝雪舟 京都国立博物館蔵)には、中国の王や僧、朝鮮、インド、ウイグルなどの人々が克明に記されています。「武者」として描かれた日本人は、兜かぶとに鎧よろいなどをつけた髭面男性。象や駱駝(らくだ)といった動物も描いています。

異国の風景や文化風土に触れ、京都とは違う中国の画風に刺激された雪舟は、自由度を高めて帰国の途につきます。しかし、その道程は容易なものではありませんでした。
時は文明元(1469)年6月、京都は応仁・文明の乱の真っ最中。大内氏も大軍を率いて京都へ出陣していたころです。遣明船の復路は東シナ海を横断して九州北部から赤間関(あかまがせき=現下関市)を経由して瀬戸内海に入るルートが一般的でしたが、雪舟は赤間関で上陸しています。

中国出張の成果を携え一度は山口に戻ったはずですが、帰国後の動向は不明。文明8(1476)年3月3日に豊後(ぶんご=現大分県)にいたことが、雪舟と一緒に応仁遣明使として中国へ渡った呆夫良心(ほうふりょうしん)という僧の『天開図画楼記(てんかいとがろうき)』にあるくらいしか記録がありません。豊後では工房を構えていたという記載も。ほかに本場中国で絵画を学んだ日本人はいないのだから意気揚々、鼻高々で腕を振るえるはずですが、北九州も戦乱の最中(さなか)だったため大名や寺院からの絵の発注がなく、活躍の機会はなかったのでしょう。

そんな北九州での雪舟の足跡を匂わすのが、修験場である英彦山(ひこさん)を中心とする地域に20近く残る雪舟作といわれる庭です。庭の姿は変わりやすいので作庭者の特定は難しいとされますが、山口にも複数の雪舟庭が伝わっているように、当時の画家はデザイナー的役割を果たすことも。雪舟が、中国で人気の景勝地である西湖などの景色に見立てた庭のデザイン画を描いたとしても不思議ではありません。

公務として遣明使に同行し、北京滞在中に描いたと思われる作。近景から遠景へと山が整然と連なるのは、水墨山水図の本場である中国のスタイル。『四季山水図』 雪舟 重文 室町時代・15世紀 東京国立博物館 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

《最晩年はなじみの土地で第2期山口時代》
中国での学びを発揮! 老いてますます筆が走る

雪舟が本格的に山口に戻ったことが確認できるのは文明11(1479)年。大内氏と姻戚関係にあった石見(いわみ=現島根市)の豪族益田家の15代当主を描いた『益田兼堯(かねたか)像』に、その記載があります。これは肖像画としては珍しく紙に描かれ着色も控え目ですが、大和絵風で人物表現がとてもリアル。雪舟の基礎画力がうかがえる作品です。

すでに60代になっていたと思われる山口に戻った雪舟は、画僧としての地位をようやく確立していきました。工房を仕切り、仏画から山水画、肖像画などの人物画に花鳥図まで、多様な注文品を制作。そのうえ美濃国(みののくに=現岐阜県)や駿河国(するがのくに=現静岡県)、加賀国(かがのくに=現石川県)など、精力的に旅も続けます。これが「漂泊の絵師」ともいわれる所以(ゆえん)ですが、雪舟の旅は吞気なスケッチ旅行にあらず。行く先々で土地の有力者たちと交流し、大内氏の情報部員としての役割を果たしながら、ちゃっかり自身の名を広めたのです。存命中から全国に名が知られた、稀有な画家でもありました。

そして80歳を超えたころに訪れたのが丹後国(たんごのくに=現京都府)です。あの名作『天橋立図』(京都国立博物館蔵)を生む、最晩年の旅でした。

雪舟が中国絵画に学んだように、後世の名だたる画派や絵師が雪舟に学びを求め、模写したかのようにそっくりな作品を多数描いています。それゆえ「伝雪舟」とされる作品が多いのも、この画僧の特徴なのです。
雪舟の真筆とされる作品のほとんどは、中国から帰国した50歳以降に描かれたもの。平均寿命が現代の半分ほどかもしれない室町時代に、60代で16mに及ぶ『四季山水図巻(山水長巻)』(毛利博物館蔵)を描き上げました。とてつもない発想と筆致、構図で鑑賞者を釘付けにする『慧可断臂図』(齊年寺蔵)は、70代になってからの大作です。

大胆さと繊細さを備え、矛盾した構図も納得させてしまう画力。そして作中にあふれる人間味。80年を超す生涯のほぼすべてが絵とともにあった雪舟は、「教科書に載っている偉い画聖」ではなく、「行儀のいい絵もハチャメチャな絵も描く旅する画家」と評するほうがぴったりなのかもしれません。

ほぼ中央に天橋立の白砂青松と智恩寺が描かれ、その上方に阿蘇海をはさんで寺社の林立する府中の町並み、さらにその背後には巨大な山塊と成相寺の伽藍が配されている。このリアルに見える描写は雪舟が中国で学んだ山水画の画面構成法をもとに、実景部分を再構成しているからだという。『天橋立図』 雪舟 国宝 京都国立博物館 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

■雪舟の生涯略年表■

応永27(1420)年
 備中国赤浜(現岡山県総社市)に生まれる
年代不明【10代】
 地元の宝福寺に入る。涙で床にねずみを描いたという逸話はこのころか
年代不明
 京都へ上り、東福寺や相国寺で絵を学ぶ
享徳3(1454)年【35歳】
 大名・大内教弘の庇護を受け山口へ移る
長禄元(1457)年【38歳】
 拙宗から雪舟へ改名
寛正6(1465)年
 大内教弘没。嫡子の政弘が大内氏第14代当主に
文正元(1466)年ごろ【47歳ごろ】
 大内氏の遣明船に乗るため博多へ
応仁元(1467)年【48歳】
 遣明船で中国へ渡る 天童寺で首座の称号を贈られる
応仁2(1468)年ごろ【49歳ごろ】
 『四季山水図』を描く
文明元(1469)年【50歳】
 北京から寧波に戻る途中で『唐土勝景図巻』を描く。
 帰国し山口に戻ったのち豊後国へ向かうか?
 帰国後、詳細不明の北九州時代、腕を振るいたくも発注なし。
 戦乱期は作庭に没頭?
文明6(1474)年【55歳】
 正月に『倣高克恭山水図巻』を描き弟子の雲峰等悦に与える
文明9(1477)年
 大内氏当主・政弘が京都から山口に戻る
文明13(1481)年ごろ【62歳ごろ】
 美濃国や駿河国など東国各地を巡る
文明18(1486)年【67歳】
 『四季山水図巻(山水長巻)』を描き、大内氏に献上
明応4(1495)年ごろ【76歳ごろ】
 弟子の如水宗淵(じょすいそうえん)が鎌倉の円覚寺(えんがくじ)に戻るのに際し、『破墨山水図』を描き与える
明応5(1496)年【77歳】
 『慧可断臂図』を描く
文亀元(1501)年【82歳】
 このころ『天橋立図』を描く?
永正3(1506)年
 雪舟逝去? 享年87。
 ※没年を文亀2(1502)年とする説も

「慧可断臂」とは禅宗の有名な故事。禅宗の初祖・達磨が中国・嵩山(すうざん)少林寺の岩窟で座禅修養をしていた時、弟子入りを願うも許されなかった僧・神光(じんこう)は自らの左腕を切り落として覚悟を示し、ようやく受け入れられた。神光は後に慧可と名乗り禅宗の二祖となった。大きな画面に描かれた大胆な構図は、他に類を見ない。『慧可断臂図 模本(えかだんぴず もほん)』 狩野〈養川院〉惟信模写 原本:雪舟(齊年寺蔵) 江戸時代・18~19世紀 東京国立博物館 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

構成/小竹智子、鈴木智恵(本誌)
※本記事は『和樂』2024年6・7月号の転載です。

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和樂web編集部

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