宝暦10(1760)年、江戸に生まれ、嘉永2(1949)年に亡くなるまで、約70年にわたって活躍した浮世絵師・葛飾北斎。ただひたすら絵を描くことに執着し続けた北斎の人生は、波乱万丈にして奇想天外! みずからトライしてあらゆるジャンルの絵画を身につけ、描き上げた作品のかずかずが日本のみならず世界に衝撃を与え、老いてなお向上を目ざした・・・。破天荒な絵師・北斎の人生をAからZの26の単語でご紹介します。
北斎AtoZ
A=【赤富士】『冨嶽三十六景』の富士や大波で一世を風靡!
北斎の代表作として有名なのが、〝大波〟と〝赤富士〟。いずれも『冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)』シリーズのひとつで、大波とは海外でも人気の高い「神奈川沖浪裏」のこと。赤富士もまた名画として名高い「凱風快晴」の通称。朝焼けを浴びて赤く染まった富士山の色合いから、赤富士と呼ばれています。
北斎といえばこの〝大波〟
『冨嶽三十六景』は北斎が72歳のころに手がけた、富士山を主題にした全46枚の連作ですが、富士山を大きく画面の全体に配しているのは「山下白雨」と本作のふたつだけ。
大胆な横大判錦絵の構図や山肌の色の面白さから、赤富士はとりわけ人気を集めました。
富士山を全面に描いたもうひとつの名画「山下白雨」
北斎と富士山との出合いは50代の初めのころ。甲州や名古屋への道中で目にした富士山を、さまざまな地点からスケッチしていました。
それから約20年後、 描きためた富士山のスケッチをもとにして仕上げた作品が『冨嶽三十六景』。構図の面白さ、インパクトの強さ、美しい摺りとともに、当時盛り上がっていた旅行ブームと相まって大ヒットを記録しました。
こちらが本題の〝赤富士〟
実はそれまで、浮世絵に描かれていたのは人物画が主でした。人物の背景にすぎなかった風景を北斎が描いたのには伏線があります。
30代後半のころ、北斎はオランダ人から絵の依頼を受けていて、そのときにオランダの風景画を目にしており、風景が主題になることを知っていたのです。
初期の北斎は芝居絵なども手がけていた
そのような経緯から完成した『冨嶽三十六景』には、どこから見た風景か判別できないものが少なくありません。
この赤富士もそのひとつで、静岡側か山梨側かはっきりしないのです。
構図を自在に操った鬼才!
その理由は、北斎が見たままの風景を描いたわけではないから。
北斎の風景画の最高傑作は、スケッチをもとにして、より珍しい構図や画面効果を考え抜いて構成されたもので、北斎が心の中で思い描いた風景だったのです。