信長も秀吉も場所取り中!死者が熱狂する56億7千万年後のビッグイベントとは

信長も秀吉も場所取り中!死者が熱狂する56億7千万年後のビッグイベントとは

目次

世界遺産高野山の聖地「奥之院(おくのいん)」には、数々の有名武将の供養塔が立ち並んでいます。その中の一人、信長に至っては「残虐な行為を悔い改めて、せめて死後は弘法大師の近くで眠りたいんじゃないの?」などと言われたりしますが、信長さまはそんなこと悔い改めたりいたしません!実は56億7千万年後のビッグイベントの席取りに並んでいるのです。信長の他にも、武田信玄、上杉謙信、石田三成、明智光秀、豊臣家御一同までがこの席取りに参加しています。
ここまで死者を熱狂させる56億7千万年後のビッグイベントとはいったい何なのでしょうか。

世界遺産 高野山

高野山は、平安時代のはじめに標高約800mにある蓮の花のような形をした盆地に開かれた真言密教の聖地です。唐の長安で密教を学んだ弘法大師(空海)が、816年に嵯峨天皇よりこの地を賜り、真言密教の根本道場を開くために開山しました。和歌山県の山奥にあり、公共交通機関だと電車とケーブルカーとバスを乗り継がなくては辿り着くことができません。「こんな山奥に何があるの?」と思われるような場所に、真言密教の宗教都市が広がっているのですがら、神秘的この上ない場所です。

山上は夏は涼しく冬は極寒。季節によっては朝霧や雲海が見られ、下界とはかけ離れた異世界のような雰囲気も魅力。2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界文化遺産に登録され、今では国内からはもちろん、特に欧米からの旅行客が訪れる観光地としても人気となっています。山上には金剛峯寺の塔頭寺院(たっちゅうじいん)が宿坊として参詣者を受け入れています。

高野山奥之院と弘法大師

弘法大師は835年3月21日に入定※され、即身成仏※をとげられました。高野山では弘法大師は弥勒菩薩(みろくぼさつ)が出現するその時まで、衆生救済を目的として永遠の瞑想に入り、現在も高野山奥之院の弘法大師御廟で生き続けていると(宗教的に)信じられています。弘法大師のもとには1日2回食事が運ばれ、これを「生身供(しょうじんぐ)」といいます。毎日6時と10時半に行われ、一般の人もその様子を見ることができますが、おすすめは神秘的な早朝6時の回。朝霧に包まれた奥之院で人気もまばらな中で執り行われる生身供は神秘的です。

入定(にゅうじょう):宗教用語で、真言宗に伝わる伝説的信仰
即身成仏:人間が究極の悟りを開き、肉身のまま仏となること

弘法大師御廟は、奥之院の御廟橋を渡った正面にある燈籠堂の裏手にあります。勘違いして燈籠堂だけを見て満足して帰ってしまう人がたまにいますので、必ず奥までお参りしましょう。高野山一のパワースポットで、特に人のいない冬の早朝には凄まじいパワーを感じ取れます。

御廟橋より先は撮影禁止、ペット同伴禁止、禁煙、脱帽の上、お参りしましょう

56億7千万年後にビッグイベントが起こる!? 弥勒菩薩の伝説

弘法大師が即身仏となって待つ弥勒菩薩は、京都の広隆寺で国宝に指定されている「考える人」のポーズをしたあの仏様のことです。この弥勒菩薩にはとある予言が古くから伝わっています。

仏陀が入滅されたのち、将来仏となってこの世にあらわれて法を説き、衆生を救う約束がなされているのが弥勒菩薩で、すでに将来仏となることが約束されていますので、菩薩ではなく「弥勒仏」ともいわれます。ただいま兜率天(とそつてん)において修行、思念中であるとされています。
しかし、その弥勒菩薩、弥勒さまが救世仏(きゅうせいぶつ)として兜率天からこの世に出現するのは、釈迦の入滅後の56億7千万年後であるとされています。残念ながら現在の我々では遭うことがかないません。
高野山霊宝館HPより

 
仏陀は悟りを開いた者のことですが、菩薩は悟りを求めながら人々をも救おうとする者です。弥勒菩薩は、釈迦(しゃか)が滅した56億7千万年後に仏となりこの世に現れ、釈迦の教えで救われなかった人々を救済すると伝わっています。この56億7千万年というのは、地球を含む太陽系が消滅する余命とほぼ一致しているそうです。少なくとも弘法大師が入定した時代には56億~という話があったわけですから、宇宙科学が発達していない時代にどこからそんな知識を?と、ちょっとぞっとする話ですよね。
現在弥勒菩薩は須弥山(しゅみせん)の上空の兜率天(とそつてん)という天界で修業中で、通常の人間は救世仏として現れる弥勒仏を56億7千万年もの年月を到底待つことはできません。弘法大師は入定に際し、「われ、閉目ののちは兜率天に往生し、弥勒慈尊の御前に仕え、五十億余年ののち、必す慈尊とともに下生せん」と弟子たちに遺言されたと伝わっています。弥勒菩薩が現れた時に三度にわたって説法をするのですが、その一カ所が高野山だと言われています。

つまり戦国武将たちは56億7千万年後のこの日のために、弘法大師御廟前の参道で席取りに励まれているのです。こればかりは小姓に並ばせるわけにもいかず、魔王・信長も自ら並んでおられます。

死後席取りに励む戦国武将の面々

高野山には大きく分けて2つの聖地エリアがあります。一つは金剛峯寺(こんごうぶじ)のある壇上伽藍(だんじょうがらん)で、主要な法要が行われる場所、修学の場所です。もう一つが今回ご紹介する、弘法大師の御廟がある奥之院です。奥之院の参道には武将たちの供養塔や墓、約20万基が所狭しと立ち並んでいます。
武将の墓・供養塔をめぐりたい方は、「奥の院前」のバス停まで行かず「奥の院口(一の橋口)」のバス停で下車して、一の橋から杉が鬱蒼と生い茂る参道を約2Km歩きます。左右に有名な武将の墓が沢山ありますのでじっくり見て歩くと1時間では足りないかもしれません。時間に余裕を持って歩きましょう。

表参道で56億7千万年後を待つ武将たち

まずは表参道で席取りをされている皆さまからご紹介しましょう。

武田信玄・勝頼 上杉謙信

武田信玄は勝頼と一緒にスタンバイ。左の大きい五輪塔が信玄、右が勝頼です。“甲斐の虎” と恐れられた戦国時代最強の武将も、今は奥之院の参道で息子とともに弥勒菩薩の出現を待っておられます。なお、信玄・勝頼の供養塔は、奥之院にある他の武将の供養塔と比較すると簡素で戦国武将らしい雰囲気です。

信玄・勝頼の供養塔の近くには “越後の龍” と呼ばれ信玄と覇権を争った上杉謙信・景勝の霊屋(たまや)があり、あちらの世でもご近所さんであることも興味深いポイントです。

伊達政宗

次のハイライトは伊達政宗墓所。政宗の五輪塔は奥之院の中の五輪塔でもなかなか大きなものの部類に入ります。政宗らしく三日月型の石が使われていたりしたら面白いのですが、きちんと常識のある五輪塔になっています。墓の近くには殉死者の墓も。政宗の死には20人という多くの殉死者が出ました。

石田三成

関ヶ原合戦で敗れた豊臣の忠臣・石田三成の墓所もあります。非業の最期を遂げたわりにはまぁまぁ良い場所を陣取っている感じですね。実は弘法大師御廟の横にある奥之院経蔵は三成が造営したものです。高野山の聖域中の聖域である弘法大師御廟の横にしっかりと爪痕を残しているあたりは流石です。

表参道の奥まった場所でひっそりと

明智光秀

明智光秀は表参道から少し奥まった場所で静かに見守っているようです。長く謀反人として世間に認識されていた影響でしょうか、墓所を示す立て札は、表参道ではなく奥まった場所にひっそりと立ててあります。

五輪塔は、空、風、火、水、地を表していて、それぞれの石に梵字(サンスクリット文字)が刻まれています。「謀反人の光秀の供養塔の水の石は何度交換しても割れてしまう」と長く語られていますが、実は最初から割れた石を使っていたという説もあります。光秀ゆかりのお寺が光秀像を真っ黒に塗って守ったように、ここ奥之院でもあえて割れた石を使ってまでも「これくらいは許してあげて」と供養したかったのかもしれません。

光秀の墓所は表参道からもわかりにくいのですが、立て札まで近づいてもわかりにくいので注意が必要です。表参道から見て正面の碑だと勘違いされることが多いのですが、“水” の石にヒビが入っているのが光秀の五輪塔です。

よく見ると「天正……年」と記されているのがわかります

高台一等地に陣取るみなさま方

弘法大師御廟への御廟橋の近くの高台を陣取るのは、天下人たち。流石、扱いが違います。

豊臣家一同

家族みんなで順番待ちができるような広い墓地で待つのは、豊臣家のみなさん。他の武将の墓所とは明らかに様相が異なり、秀吉らしい家族愛が感じられます。とは言っても、秀頼が生まれたために邪魔になった甥の秀次は、すぐ近くの金剛峯寺で自刃に追いやられているんですけどもね……。

織田信長

御廟橋近くの高台を選ぶとはさすが織田信長。左手には信長に臣従した筒井順慶(つついじゅんけい)がひっそりといるのもポイント。信長の墓所は人気で、絶えず一般客からのお供えが見られます。
何もなかったかのように高野山奥之院に墓所を構えていますが、信長は高野聖(こうやひじり)数百人を安土において処刑しています。実は高野山は明智光秀の本能寺の変がなければ信長に攻められるはずだったのです(紀州征伐・高野山攻め)。そう考えるとひっそりとではありながらも、本能寺の変を起こした謀反人・明智光秀の墓所がこの奥之院に建てられている理由が納得できるというものです。

意外な人物の供養塔が奥之院で一番の大きさだった

華々しく戦国の世を駆け抜けた武将たちの墓所を紹介してきましたが、奥之院で一番の大きさを誇る五輪塔は意外な人物のものなのです。
それは徳川二代将軍秀忠の正室であり信長の姪でもある江姫(ごうひめ・おごう)のもの。1627(寛永4)年に建立されたもので「一番石」の名で知られています。
ちなみに奥之院には家康や秀忠の墓所はありません。別の場所に日光東照宮を思わす豪華な造りの霊廟「徳川家霊台」が家光によって1643(寛永20)年に建立されています。

杉木立の奥に静かに佇む江姫の供養塔

死後楽しそうに順番待ちをする戦国武将たちを想像

あれほど激しく戦を繰り広げた武将たちの墓所が、死後仲良く高野山奥之院に並んでいるというのは、どこかほっこりしたものを感じます。信玄と謙信がご近所さんとか、紀州征伐をした信長や秀吉がその行いに反して奥之院の参道で弥勒菩薩出現待ちをしているとか、カオスな場所です(笑)。
高野山に墓地を持つのは他の地域と比べても高額。特に奥之院は一等地です。わかりやすく言うと、人気アイドルのコンサートが行われる都市のホテルが軒並み高騰する、予約が取れない……といった現象に似ています。

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