切れ者だけど実戦指揮能力はイマイチだったって本当?戦国武将・石田三成の真実に迫る

切れ者だけど実戦指揮能力はイマイチだったって本当?戦国武将・石田三成の真実に迫る

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戦国武将の石田三成(いしだみつなり)といえば、関ヶ原合戦における西軍の中心人物として知られます。それだけに徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍諸将からは目の仇(かたき)にされ、関ヶ原敗北後に捕縛、処刑されました。後世に作られた「佞臣(ねいしん)」のイメージを外した時に、三成のどんな素顔が見えてくるのかを探ります。

石田三成の素顔とは?

まず、皆さんは石田三成(いしだみつなり)という武将にどんなイメージを抱いているでしょうか。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)亡き後、豊臣政権を徳川家康(とくがわいえやす)の野望から守ろうとした「義の人」、大谷吉継(おおたによしつぐ)とのエピソードに見られるように、「友情に篤い人物」。その一方で、官僚としては「切れ者」だが、戦場での「実戦指揮能力は高いといえず」「性格的に横柄(おうへい)」なところがあり、敵を作りやすかった、といったイメージが最近では多いかもしれません。2016年の大河ドラマ「真田丸」で、山本耕史さんが演じた三成も、まさにそんな人物像でした。

また、三成といえば、「三献(さんけん)の茶」のエピソードでも知られます。三成が佐吉(さきち)と称していた幼少の頃、近江(現、滋賀県)の寺で学問を学んでいると、領主の羽柴(はしば)秀吉が休憩に訪れます。接待する三成は、暑さで汗をかいた秀吉を見て、大ぶりの茶碗にぬるめの茶をなみなみと入れて出しました。秀吉がおかわりを所望すると、先ほどよりも少し熱めの茶を茶碗に半分ほど入れて出し、秀吉がさらにもう一杯と所望すると、今度は小さ目の茶碗に熱い茶を入れて出しました。この三成の気配りを秀吉は大いに気に入り、家臣に召し抱えたといいます。

「三献の茶」を表現した像

その後、三成は秀吉の小姓(こしょう)として成長、秀吉の天下統一を合戦の後方支援や町の復興、地方の大名との連絡役などを務めて支え、豊臣政権下では奉行の筆頭的な存在でした。頭の切れるきわめて有能な官僚であり、真っ直ぐな性格で、秀吉から篤く信頼を寄せられていました。一方で歯に衣着せずものを言ってしまうところがあり、人との対立を招くことも少なくなかったようです。

しかし、長所も短所も備えた、ある意味人間臭い三成像が広まったのは、実はごく近年のことです。それまでの三成像は、「秀吉の腰ぎんちゃくで、器の小さい男」「秀吉におもねるために、数々の陰謀の黒幕になった」というもので、ひと言でいえば「佞臣(ねいしん、主君におもねり、心のよこしまな家臣)」そのものでした。

たとえば三成が首謀者となった陰謀として、次の三つの事件があるとされてきました。

「千利休の切腹」「蒲生氏郷の毒殺」「豊臣秀次の切腹」

かつては小説やドラマなどで、これらの事件の背後に三成がいたものとして描かれることも多かったのですが、実際はどうであったのか、簡単に触れておきましょう。

石田三成は本当に陰謀事件の黒幕だったのか?

大徳寺山門金毛閣。山門上に置かれた千利休像に豊臣秀吉が激怒したといわれる

千利休切腹事件

わび茶を完成させた千利休(せんのりきゅう)は、豊臣秀吉の茶の湯の師匠であると同時に、側近の一人でした。ところが天正19年(1591)2月に突然、秀吉の不興(ふきょう)を買い、切腹を命じられます。秀吉の不興の理由が何であるのかはいまだに謎ですが、事件に三成が関与していたとされます。

その根拠の一つは、公家の吉田兼見(よしだかねみ)の日記に、利休切腹の直後、利休の妻が三成によって蛇責めの刑に処せられるという噂があったと記されているからです。しかしそれは噂に過ぎず、実際に利休の妻が没したのは、夫の切腹から9年後のことでした。

また、秀吉不興の理由として、京都大徳寺の山門金毛閣(きんもうかく)に利休の像が置かれ、山門をくぐる際、頭の上に利休像の土足があることを秀吉が怒ったという説があります。確かに利休切腹の際、秀吉は利休像をひきずり下ろし、磔(はりつけ)にかけるよう命じました。この利休像の存在を秀吉の耳に入れたのは前田玄以(まえだげんい)ですが、玄以と三成が親しかったことから、三成が関与していたといわれることがあります。

しかし三成が関ヶ原合戦後に処刑された時、遺骸を引き取り弔(とむら)ったのは大徳寺でした。もし三成が生前、大徳寺に不利益を働いていたら、それはあり得ないでしょう。

会津若松城。蒲生氏郷は40歳で急逝した

蒲生氏郷毒殺事件

蒲生氏郷(がもううじさと)は文武に優れた武将で、織田信長(おだのぶなが)に見込まれて娘婿(むすめむこ)となり、豊臣政権下では会津若松に92万石を与えられた大大名でした。ところが文禄4年(1595)、氏郷は40歳の若さで急逝(きゅうせい)します。

これについて、江戸時代に書かれた軍記物『氏郷記』『蒲生盛衰記』『続武者物語』などが、三成が毒を盛ったと記しました。理由は92万石の氏郷が、秀吉の脅威となることを危惧したからだとされますが、そもそもこの時、三成は朝鮮出兵のため国内にいません。また、当代きっての名医・曲直瀬道三(まなせどうさん)が氏郷の診断記録を残しており、病死としている以上、疑う余地はなく、三成による毒殺はまったくのデマであるとわかります。

高野山金剛峰寺。豊臣秀次はこの地で自刃した

豊臣秀次切腹事件

豊臣秀次(とよとみひでつぐ)は秀吉の姉の子で、実子のない秀吉の養子となり、関白職を譲られていました。ところが秀吉に実子秀頼(ひでより)が誕生して、秀吉が溺愛(できあい)すると、秀次は次第に心身の状態が不安定となり、やがて謀叛の噂が立てられるに及んで、秀吉によって高野山に追放され、切腹しました。

軍記物では秀吉に、秀次についての讒言(ざんげん)をしたのが三成であったとします。しかし実際は、謀叛の噂の真偽について秀次を問いただす、4人の詰問使(きつもんし)のうちの一人が三成であったに過ぎず、讒言などを裏づける同時代史料は存在しません。秀次切腹が、秀吉におもねる三成の陰謀であったというのは、江戸時代に創作され、流布(るふ)したものでした。そもそも秀次の遺臣の多くを、三成が引き取っています。もし三成の陰謀が事実であれば、遺臣らが「主君の仇」におとなしく従うはずがありません。

徳川幕府の宿敵・石田三成は、意図的におとしめられた

結局、三成の陰謀であったとされる三つの事件に、それを裏づける同時代史料は存在せず、すべては江戸時代に捏造(ねつぞう)された話だったことがわかります。ではなぜ、そんなことが行われたのでしょうか。

「歴史は勝者によってつくられる」といいます。江戸時代の為政者である徳川幕府にとって、関ヶ原で徳川家康に対抗した石田三成が腹黒い佞臣であればあるほど、それを倒して天下を取った徳川氏を正当化するうえで、非常に都合がよかったというのが最大の理由でした。

また幕府ににらまれることを怖れて、各大名家でも三成との関係を正しく伝えない「曲筆(きょくひつ)」が行われたこと、さらに幕府の方でも、三成に関する良質な史料を徹底的に湮滅(いんめつ)する工作を行った可能性が高いことが指摘されており、三成の実像は記録から消されていったのです。

こうして、江戸時代の中期から後期に「三成佞臣論」は確立し、幕末の著名な歴史家である頼山陽(らいさんよう)ですら、著書『日本外史(にほんがいし)』において、豊臣秀次の切腹や加藤清正(かとうきよまさ)の処罰は三成の讒言によるもの、また蒲生氏郷や加藤光泰(みつやす)の急死は三成が毒を盛ったとしています。これは頼山陽の誤りというより、当時、山陽が確認できる三成に関する良質な史料がいかに少なかったかの表われなのでしょう。

徳川幕府によって意図的におとしめられた三成像は、明治時代以降も大きくくつがえることなく、日本人の中に定着していきます。研究者による再評価の試みはありましたが、いったん染みついたイメージを払拭(ふっしょく)するには至りませんでした。同時代史料に基づく研究が進み、三成が長所も短所もある人物として客観的に再評価されつつある現代ですら、旧来の佞臣像でドラマなどに登場することも多く、呪縛はいまだに続いているといえそうです。

ただし、生前の三成を知る人たちがまだ存命だった頃は、そこまでおとしめられていたわけではありませんでした。むしろ三成の血筋を、「名誉ある武士」のものと認識していた節が窺(うかが)えるのです。その一例が、子孫たちに対する扱いでした。

以下、記事に続きます。

【石田三成の孫を藩主に!子孫の数奇な運命と津軽家の決断を一挙解説】では、関ヶ原合戦後に陸奥(むつ)の津軽氏がなぜ三成の子どもたちを匿(かくま)ったのか、また三成の子どもたちの数奇な運命について紹介します。ぜひ、続けてお読みください。

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