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Culture
2020.08.12

イケメン僧侶が関係を持った女性の数、なんと59人⁉︎「寺社奉公24時」事件ファイル

この記事を書いた人

一瞬だけ、ショッキングなタイトルが頭に浮かんだ。
「性行為で死罪⁈」

どんな記事やねんと、書いている私も迷走しそうになりつつ。でも、じつは、これって、ホントの話。

そもそも、江戸時代の僧侶は、浄土真宗以外、妻帯を認められておらず。女性との性行為は「女犯(にょぼん)」と呼ばれ、重大な戒律違反となっていた。そして、江戸幕府の方針はというと、この「女犯」をおかす僧侶を、厳しく罰したのである。

またまた。厳しいといっても、まさか「死刑」とかじゃないでしょ?

いや、じつに、そのまさかである。
「女犯」の僧侶は「死罪」。

その後、あまりの刑の厳しさに「遠島(えんとう、島に送ること)」に変更したのだが。それにしても、当初は、命をかけて性行為に臨む必要があったのである。男性読者の方からすれば、全くもって「そんなご無体な」という話。

さて、この「女犯」をおかす僧侶たちを取り締まっていたのが、「寺社奉行(じしゃぶぎょう)」。全寺院を管理下に置き、統制していた部署である。

今回は、この「寺社奉行」が主役。
追う側と追われる側。いつの時代も、いたちごっこの様態は変わらず。犯罪の種類が新しくなるだけのこと。

それでは、寺社奉行の飽くなき取り締まりと、それをかいくぐる僧侶たちの熱き闘いを、ご紹介しよう。

※冒頭の画像は、あづまにしきゑ「延命院日当話」出典:国立国会図書館デジタルコレクションです

実録!寺社奉行、遊郭一斉摘発の顛末

まずは、最初のケース。
事件ファイル1「吉原一斉摘発事件」から。

寛政8(1769)年7月末。
ときは11代将軍徳川家斉(いえなり)の治世である。寺社奉行の板倉勝政(いたくらかつまさ)らは、目の前の吉原(幕府に認められた遊郭)から、引き出される男たちを見てため息をついた。

「まだ……おるのか?」
「ええ」
「ちょっと待て。あれは……?」
「医師のフリをしているだけで。あれは、完全に僧侶です」

現代の風営法違反の一斉摘発の場面と勘違いしそうになるのだが。あくまで、250年前の会話である。当時、こんなやりとりが、寺社奉行の中で交わされていたと思うと、なんだか、妙におかしくもある。

さて。
そもそも、どうして。遊郭でこのような一斉摘発がなされることになったのか。そこから話を始めよう。

江戸幕府が、キリスト教の信仰禁止、いわゆる「禁教令」を発令したのは、慶長17(1612)年8月のこと。

これ以外にも、幕府は独創的な仕組みを考える。キリシタンでないことを檀那寺 (だんなでら) に証明させる「寺請(てらうけ)制度」など。この「檀那寺」とは、信徒が属する寺のこと。言い換えれば、当時の人々は、どこかしらの寺に属する必要があったことになる。

そこで、江戸幕府は考えた。信じる者のみならず、信じさせる側にも相応の努力が必要だと。人々がキリシタンとならぬよう、寺にも一定の尊厳を保持させねばならない。さらにいえば、寺のみならず、そこで修業する僧侶にも。

こうして、僧侶に対しても、信頼に値するような振る舞いが求められることに。その結果、重大な戒律違反となる「女犯(にょぼん)」など言語道断という強硬姿勢へ。人間の三大欲求の一つであっても配慮するものかと。断じて「死罪」となったのである。

ただ、「さすがに厳しすぎるだろ」という話。
その後、ようやく8代将軍徳川吉宗の治世で、「死罪」から「遠島(えんとう)」に変更。刑期を定めず、島へと配流されることで決着がつく。ちなみに、当時、江戸で「女犯」をおかせば、八丈島への島流しが定番だったとか。

鈴木春信筆『遊女と虚無僧』東京国立博物館所蔵 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/

寺社奉行の板倉勝政は、厳しい表情を浮かべた。
「で、全部で何人となったのだ?」
「ええ……40、いや、60。いえ、まだいます」

この日。
寺社奉行による、吉原に宿泊した僧侶の一斉摘発は、思いもよらぬ結果となった。「女犯」をおかしても死刑ではなく、島流しの処分で済むからなのか。摘発されたその数、たったの1日で、なんと70名以上。正直、お上をなめているとしか思えない人数である。

それでも、今回は宿泊者のみの摘発。さらに日帰りの者も含めれば、その数はバブル絶頂期の株価の如く、一気に跳ね上がるだろう。そう考えると、今回の捕縛者など氷山の一角。いかに、戒律違反がそここで軽く行われていたかが分かる。

それにしても、摘発された年齢層をみると、その幅の広いこと。17歳から60歳まで。老いも若いも、煩悩には全く関係ない有様。どんなに長年修業を積もうが、煩悩を捨て去ることは、難しかったようだ。

ただ、1つ。気になることが。
当時は、「女犯」をおかせば島流しが待っていた。つまり、世間的にいえばアウト。確実に「犯罪」だったのである。それなのに、捕縛されたこの人数。一体、どうやって公然と吉原に入っていくことができたのか。

これには、切ない理由がある。意図せず医師の髪型が手助けすることに。当時、医師も僧侶も頭を剃っており、その気になれば、見分けがつかないからくり。つまり、僧侶であっても医師のフリをすれば、遊郭で思う存分、楽しむことができたのである。

そう考えると。
一番、迷惑を被ったのは、同じ髪型であった医師たちなのかもしれない。

いつの間にホストクラブ化?囮捜査で発覚した「延命院事件」

お次は、事件ファイル2「延命院(えんめいいん)事件」である。

「延命院」とは、東京都荒川区に現存する寺である。

延命院

創建されたのは慶安元(1648)年のこと。
慧照院日長(えしょういんにっちょう)が開山。この日長、4代将軍徳川家綱出生の折に、その安産を祈祷した人物でもある。家綱の乳母である三沢局(みさわのつぼね)のお布施を受け、甲州(山梨県)身延山(みのぶさん)の「七面大明神」を勧請(神仏の分霊を他の場所に移して祀ること)したといわれている。

のちに、三沢局が延命院に帰依したことで、大奥の女中らの参詣も珍しくなくなった。「七面大明神」の存在も、少なからず影響しているのかもしれない。

実際に、大奥の女中らがどのような願い事をしたのかは不明だが。一心に思って仏にすがる。信仰心篤いゆえの参拝なら何の問題もないだろう。たとえ参詣する女たちが多くなったとしても、だ。寺社奉行が動く事情など、全くないのである。

しかし、今回、なぜか大騒動に発展。
それには、ある1つの時代背景が関係する。

江戸時代、男性らに対しては、幕府公認の遊郭である「吉原」や非公認の「岡場所」など、性欲を発散させる場所があった。片や、女性らは、夫以外の男性との性的関係はご法度。道徳的な問題ではなく、法律的な問題とされていたのである。具体的には、密通(不倫)をすれば「死罪」。なんなら浮気された夫は、妻を殺しても罪とはならなかったほど。

そんな状況に置かれた当時の女性たち。耐え忍ぶしか道がなかったのかというと。じつは、男性と戯れて楽しめる場所があったというのである。その1つが「寺」。誤解のないようにお断りしておくが。もちろん、全ての寺でというワケではない。逆に、そんな特殊な役割を担っていたのは、一部の寺のみ。墓参りや法事などで訪れた女性らを、あれやこれやで楽しませていたのである。

そして、この延命院にも。
女たちが見過ごすことなどできない住職が。

その名も「日道(にちどう、日潤、日当とも)」。超絶イケメン僧侶であったのだとか。

あづまにしきゑ「延命院日当話」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

享和3(1803)年春。
寺社奉行の脇坂安董(わきさかやすただ)の耳に、連日、大奥の女中らが押し寄せるという「延命院」の噂が届く。

この脇坂安董という男。関ヶ原の戦い以降に徳川家に臣従した外様(とざま)大名である。通常、寺社奉行には譜代大名が命ぜられるのが慣例なのだが。寛政3(1791)年、寺社奉行に抜擢。当時は、異例の人事と評判だったようだ。

「それで、いつからなのだ?」
昼下がり。
脇坂安董は、内偵をしていた家臣の三枝右門に静かに問うた。
「どうも、大奥の女中らの目当ては、日道(にちどう)かと。延命院の15代目の住職に日道がなってからというもの、参詣の人数が増えたそうで」
「日道とは、どんな男なのだ?」
「一説には、歌舞伎役者の初代・尾上菊五郎の隠し子ともいわれている男でして(諸説あり)」
「ほほう」
「俗名は『丑之助(うしのすけ)』。最初は歌舞伎役者の見習いをやっていたそうですが、なんでも女関係で騒動を起こして人を殺めたとか。その後、日蓮宗の延命院を頼ったようです」
「それで?」
「前住職の日寿が目をかけてやり、9年修業を積ませたと。その日寿が今度は亡くなったので、日道が33歳の時に、15代目の住職になったようです」
「して、延命院の方は、それほどひどいのか?」
「いや、それは、もう。大奥の女中がひっきりなしに参詣しています。次から次と。そんな年がら年中、墓参りや法事ってワケにはいかないでしょう」

さて。それほど、大奥の女中が夢中になるには、ワケがあった。
ズバリ。日道の男としての色気である。

もともと歌舞伎役者の見習いを務めるほどであるから。その容姿端麗はもちろんのこと。剃髪がまた、日道の見事な顔のつくりを際立たせるのである。現代でも制服姿に弱い女性がいるのと同じく。法衣(ほうえ)をまとった日道は、また違った魅力があったのだろう。

「魅入られる」ほどの男の色気。
まあ、それほどのものなら。一度は拝んでみたいもの。

きっと、大奥の女中も、その一度は……という興味本位が、最初だったのではないだろうか。しかし、隠し部屋に案内され、そこに日道と二人きり。驚きつつも、つい、誘惑に負けて身を委ねてしまう。気付けば一度が二度、二度が三度となり。狂ったように情事にふける。

相手が僧侶だからこそ。
「許されぬ」という意識が常につきまとう。死と隣り合わせの情事ほど、余計に燃え上がるのだろうか。

こうして、女たちは完全にハマってしまう。既に、底なし沼に半身を沈めたようなもの。狂気じみた欲情と嫉妬で、身動きが取れず。簡単には抜け出せないのである。

あづまにしきゑ「延命院日当話」出典:国立国会図書館デジタルコレクション

「証拠をつかまねばならぬ」
寺社奉行の脇坂安董は意を決すると、再度、家臣の三枝右門を呼んだ。
「お前の妹のお椰(や)はどうしておる?」
「元気にしておりますが」
「じつは、お椰に頼みたいことがある」
「まさか……」

三枝右門の妹・お椰は、なんとも魅力たっぷりの女性。寺社奉行の脇坂は、このお椰に、なんと囮(おとり)捜査を頼んだのである。なんだかややこしいが。性接待を行っている僧侶に対して、ハニートラップということだろうか。

早速、お椰は囮捜査のために、大奥の女中に扮して延命院に参詣。案の定、その目立つ容姿で、すぐに日道から誘われることに。当時の囮捜査は、驚くことに、フリではなく、ホントにそのまま囮になるのである。なんと、お椰は誘われるまま身を重ねるのである。

何度か延命院を訪れ、逢引きするお椰。その甲斐あって、次第にお椰にも、内部の事情が分かるようになってきたのだとか。女たちを手引きするのは、雑用を行っていた僧侶の「柳全(りゅうぜん)」。他にも、重要な事実が発覚。睨んだ通り、お堂の内部には、隠し扉、抜け道、隠し部屋などが存在したのである。

そして、日道の「女犯」の動かぬ証拠となったのは。
大奥の女中らが日道宛に送った艶書(えんしょ)。いわゆる恋文である。お椰の決死の囮捜査で無事に確保。これで、日道の日頃の行いが証明できたのである。

享和3(1803)年5月26日。
寺社奉行の脇坂安董ほか、部下ら多数が、延命院へと声を上げながら踏み込む。

しかし、煙のように日道の姿は消え去っていた、いくら探しても、どこにもおらず。焦った脇坂らは、僧侶の柳全を捕縛し、尋問。すると、どうやら抜け道を通って、玄関先の長持ちに隠れているとの情報を得る。

問題の長持ちを取り囲み、蓋を開けようとすると動かない。中から必死の抵抗が感じられるも、数人がかりで、えいやと蓋を開けると。

そこには、震えながら隠れていた日道の姿が。
引きずり出された男には、色気の「い」の字もなく。結局、縄をかけられ、寺社奉行所へと連行されるのであった。

長時間の尋問が終わったのち。
「な、なんと?」
「ええ。だから、59人ですって」
「誠か?」
「はい。日道が白状した女の名前を3回数えましたから。59人に間違いありません」
「他に何かあるのか?」
「それが……。まあ、日道と関係を持った女たちの年齢が……。59人のうち、下は15歳。上は60歳の女まで。中には、大奥の女中らもかなり含まれています」
「さすがに『大奥』はまずいな」
「それも、西の丸大奥の下女『ころ』は妊娠までしており、日道が堕胎させたそうです」
「堕胎?」
「はい。薬を与えて行ったそうです。隠し部屋やら抜け道やら、延命院の堂内を勝手に改造して、もう、やりたい放題です」
「それなら、仕方あるまいな」

こうして。
当時の「女犯」に対する処分が遠島であるところ、日道は異例の「死罪」。
「身から出た錆」とは、こういうことを言うのだろうか。

それにしても。「色気ある住職」「大奥の女中」「死罪」。3つのパワーワードが並ぶこの事件。当然ながら、「延命院事件」は、江戸時代最大のスキャンダルとして、世間を大いに騒がした。もう、文春砲どころではない衝撃。しかし、内容が内容だけに、その取扱いは注意されたとか。

最後に。
こう考えれば。
男も女も。人間の三大欲求は、そうそう簡単には消えないということか。

だからこそ、こんな言葉があるのだろうか。
「煩悩あれば菩提(ぼだい)あり」
迷いがあって初めて悟りもある。
迷わない人間は、悟りに到達することはありえないというコト。

けれど、迷ってばかりもいられない。
「人間」とは。
「生きる」とは。
なんと、難しいものなのか。

参考文献
『お寺で読み解く日本史の謎』 河合敦著 株式会社PHP研究所 2017年2月
『山内一豊の妻と戦国女性の謎』 加来耕三著 講談社 2005年10月
『大名家の秘密: 秘史『盛衰記』を読む』 氏家幹人著  草思社  2018年9月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。