昔はこんなにイベントあったの? 江戸時代のカレンダーを覗いてみよう

昔はこんなにイベントあったの? 江戸時代のカレンダーを覗いてみよう

目次

かつて江戸の人々は、年末年始はもちろん、1年を通してさまざまな行事を催し、楽しんでいました。その中には雛祭りや七夕など、今でもおなじみのイベントもありますが、江戸時代ならではのものも少なくありません。そこで今回は、四季折々の生活の中で、どのような行事を楽しんでいたのか、主なものを紹介します。なお月日の表示は旧暦ですので、現在よりも約1ヵ月、後ろにずれています。

1月・睦月(むつき/mutsuki)

七福神めぐり

年末年始の諸行事の紹介は後回しにして、まずは1月中旬、春の気配が感じられると、人々が出かけたのが「七福神めぐり」です。七福神とは福をもたらす七柱の神様で、一般的には恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天を指します。彼らが描かれた宝船の絵を、正月2日に枕の下に入れて寝ると、よい初夢を見ることができるともいわれていました。七福神めぐりはそれぞれの神様を祀るお寺や神社を7つ詣でるもので、谷中七福神、山手七福神、隅田川七福神などがあります。もともとは信仰目的でしたが、次第に娯楽や物見遊山として楽しまれるようになりました。
宝船

2月・如月(きさらぎ/kisaragi)

初午(はつうま)

江戸に多いのは「伊勢屋、稲荷(いなり)に、犬の糞」といわれるほど、江戸の町にはあちこちで「商売繁盛」を祈念するお稲荷さんが祀られていました。その稲荷社の祭りが、2月最初の午の日に行われる「初午」です。稲荷社のまわりに「正一位稲荷大明神」と染められた幟(のぼり)が立ち並び、赤飯や酒とともに、稲荷神の使いである狐の好物「油揚げ」が供えられました。また「初午の早い年には火事が多い」という俗信から火にも関わりがあり、王子稲荷(東京都北区)では、初午の日に火伏せの縁起物である凧(たこ)を売る凧市が開かれ、現在も続いています。なお、子供たちが読み書き・そろばんを習うために寺小屋に通い始めるのも、初午からが多かったようです。

3月・弥生(やよい/yayoi)

上巳(じょうし)の節句

3月最初の巳(み)の日は上巳(じょうし)と呼び、「上巳の節句」は江戸時代の五節句の一つでした。別名は「桃の節句」で、現在では「雛祭り」として親しまれています。上巳の節句は江戸幕府の公式行事の一つで、諸大名は江戸城に登城して、将軍に挨拶をしました。また女の子の祭りでもあり、娘のいる家庭では部屋に雛人形を飾り、紅白萌黄(もえぎ)色三段の菱餅(ひしもち)、霰(あられ)、白酒を供えて、娘の成長と幸福を願いました。
上巳の節句(『豊歳五節句遊』国立国会図書館デジタルコレクション)

花見

上流階級の楽しみだった花見を、庶民も楽しむようになったのは江戸時代の元禄の頃からです。江戸時代の桜の種類は現在一般的なソメイヨシノではなく、山桜がほとんどでした。山桜は咲く時期が一本一本異なるため、花見を長い期間楽しめたといいます。江戸の花見の名所といえば上野の山(寛永寺)や、将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)が庶民に花見を楽しませようと桜を植えた隅田堤(すみだづつみ)、飛鳥山(あすかやま)、御殿山(ごてんやま)が有名で、茶店もあって大変にぎわいました。

4月・卯月(うづき/uzuki)

灌仏会(かんぶつえ)

お釈迦様が誕生した日とされる4月8日に、寺院で行われるのが「灌仏会」です。本堂の中や境内に設けられた花御堂(はなみどう)に銅製の釈迦の誕生仏が安置され、参詣者は甘茶を灌(そそ)いで祝うものでした。『東都歳時記』には灌仏会を行う主な寺として、上野の寛永寺、芝の増上寺、浅草の浅草寺、本所の回向院(えこういん)と弥勒寺(みろくじ)、大塚の護国寺、牛込の済松寺(さいしょうじ)、小石川の伝通院が挙げられています。

初鰹(はつがつお)

旧暦では4月の頭前後となる「立夏(りっか)」は、暦の上で夏の訪れを告げるものですが、この時期の縁起物として人気があったのが「初鰹」です。「初鰹は女房を質に入れても食え」という言葉は、高価な初鰹を無理して食べようとする見栄っ張りな江戸っ子を表現していますが、「初物を食べると75日寿命がのびる」ともいわれ、人々は初物に目がなかったようです。
初鰹(『江戸自慢三十六興』国立国会図書館デジタルコレクション)

5月・皐月(さつき/satsuki)

端午(たんご)の節句

端午とは本来、「最初の午(うま)」を意味し、午の月である5月最初の午の日が「端午の節句」ですが、現在では5月5日のこどもの日として知られています。この時期は菖蒲(しょうぶ)の花盛りで、魔を払うとされる菖蒲が「尚武(しょうぶ)」に通じることから、古くから武人にゆかりの深い行事とされました。江戸時代には幕府の公式行事として、大名や旗本は正装で江戸城に登城し、武家の棟梁(とうりょう)である将軍に粽(ちまき)を献上しました。その後、鎧兜を飾り、男の子の誕生と成長を祝う祭りになっていきます。

川開き

旧暦5月の終わり頃には「川開き」が行われました。水難事故の防止と犠牲者の鎮魂を祈る行事で、これ以降、8月の末まで納涼船を出すことが許可されます。また将軍徳川吉宗時代の享保18年(1733)5月28日の両国川開きでは、慰霊のために初めて花火が打ち上げられました。それが毎年恒例となり、現在の隅田川花火大会に引き継がれています。
両国大花火(『江戸自慢三十六興』国立国会図書館デジタルコレクション)

6月・水無月(みなづき/minazuki)

嘉祥(かじょう)の儀

現在ではなじみがうすいですが、6月16日にお菓子にまつわる「嘉祥の儀」が行われました。この日、江戸城では大広間500畳に2万個を超す羊羹(ようかん)や饅頭が並べられ、将軍が大名や旗本に与えたといわれます。起源は徳川家康(とくがわいえやす)が合戦前に「十六」と鋳(い)られた嘉定通宝(かじょうつうほう)を拾い、家臣の大久保藤五郎(おおくぼとうごろう)が手製の菓子を献上したことを吉例としたといいますが、定かではありません。庶民もこの日は16文で菓子を買い、あるいは16個の菓子を食べるなどして楽しみました。現在、6月16日は「和菓子の日」になっています。
嘉祥の儀(『千代田の御表』国立国会図書館デジタルコレクション)

7月・文月(ふみづき/fumizuki)

七夕(たなばた)

五節句の一つ「七夕」は「しちせき」ともいいます。幕府の公式行事の一つで、江戸城では将軍をはじめ一同が白帷子(しろかたびら)に長袴姿で祝いました。行事内容は今とさほど変わりませんが、武家も庶民もこぞって、詩歌や芸事の上達祈願を書いた短冊を笹竹に結びつけて屋根に立てたので、まるで空を覆うかのようであったとか。各家庭では、七夕には素麺を食べるならわしもありました。またこの日、「井戸浚(さら)い」も行われ、井戸の内部を井戸職人が洗い、水の汲み替えをして、酒と塩を供えました。
七夕(『豊歳五節句遊』国立国会図書館デジタルコレクション)

8月・葉月(はづき/hazuki)

八朔(はっさく)

早稲の穂が実る8月1日(朔日)は「八朔」と呼ばれ、世話になっている人に贈り物をする習慣が古くからありました。江戸幕府は徳川家康が天正18年(1590)8月1日に初めて江戸城に入ったことにちなみ、八朔を正月に次ぐ祝日とします。この日は諸大名、諸役人が白帷子に長袴姿で登城し、将軍に拝謁、進物を贈りました。また江戸城の儀式にならい、吉原の遊女たちも白の小袖を着て客を迎えたので、「八朔白無垢(しろむく)」と呼ばれました。

月見

8月15日は本格的な秋の訪れを告げる仲秋(ちゅうしゅう)の名月で、十五夜の「月見」は大切な行事でした。江戸時代は月を神様に見立て、秋の七草や里芋などの作物、団子を縁側に飾ります。面白いことに翌月の9月13日を十三夜と呼び、満月ではない月を眺める習慣もありました。そして十五夜のみに月見をして、十三夜を行わないことを「片見月」と呼び、大変嫌ったといいます。

9月・長月(ながつき/nagatsuki)

重陽(ちょうよう)の節句

9月9日巳の下刻(午前10時30分頃)、江戸城で行われたのが「重陽の節句」です。古来、奇数は縁起のよい陽数とされ、その最大数の9が重なる日なので重陽と称されました。この節句の主役は邪気を払うとされた菊で、「菊の節句」とも呼ばれます。菊を飾り、菊の花びらを浮かべた盃の酒を頂いて、「延命息災長寿」を願うものでした。また庶民は、栗ご飯を食べる風習もあったといいます。
重陽の節句(『豊歳五節句遊』国立国会図書館デジタルコレクション)

10月・神無月(かんなづき/kannazuki)

玄猪(げんちょ)

10月1日、冬の訪れとともに行われたのが「玄猪」です。本来は10月最初の亥(い)の日の亥の刻(午後10時~12時)に、家族で亥子餅(いのこもち)を食べて、万病除けを願う風習でした。一方で多産の猪にあやかり、子孫繁栄を願う意味を込めて、江戸城では将軍が大名に餅を下賜する儀式が行われます。なお、庶民の家ではこの日から囲炉裏(いろり)や炬燵(こたつ)を使い始め、茶の湯では「炉開き」の日とし、茶席菓子に亥子餅を用いました。これは亥が陰陽五行で水の性にあたり、火災除けになるためといわれます。

11月・霜月(しもつき/shimotsuki)

酉(とり)の市

「春を待つ 事のはじめや 酉の市」と芭蕉の弟子・宝井其角(たからいきかく)が詠んだように、正月を迎える最初の祭りが11月の酉(とり)の日に行われる「酉の市」でした。神社や寺で縁起熊手などを売る露店市で、鶴、鯉、七福神、打ち出の小づちなどの縁起物が満載の熊手には、運を「かっ込む」意味があります。発祥は大鷲(おおとり)神社(現、足立区)で、江戸時代に人気だったのが浅草の鷲(おおとり)神社と長國寺(ちょうこくじ)。例祭の日には近所の吉原が開放されることもあって、見物がてら多くの人が足を運びました。なお酉の日は12日おきにあるので、最初を「一の酉」、二回目を「二の酉」と呼び、年によっては「三の酉」もあります。その雰囲気は、今でも味わうことができます。
酉の市

12月・師走(しわす/shiwasu)

雪見

当時の冬は今よりも寒かったようで、江戸でもかなり雪が積もり、隅田川が凍結することもありました。しかし江戸の人々はそんな寒さも意に介さず、「雪見」を楽しんでいます。愛宕山(あたごやま)や上野、待乳山(まつちやま)、王子、忍ケ丘、隅田川の土手あたりに出かけるのが人気だったとか。またちょっとぜいたくをする人は、炬燵を積んだ船で一杯やりながら、雪を愛でたといいます。

年末年始

年末年始にさまざまな行事が続くのは、今も江戸時代も一緒です。しかし内容は、現在とちょっと違っていました。次にそれらを紹介してみましょう。

まず正月を迎える最初の行事とされたのが、12月13日頃に行われる「煤払(すすはら)い」です。今でいう大掃除ですが、煤払いでは笹竹を道具として用い、屋内の煤や埃(ほこり)を払い落して、正月に神様を迎える準備をしました。
江戸城大奥の煤払い(『千代田の大奥』国立国会図書館デジタルコレクション)

正月飾りの注連(しめ)飾りや門松(かどまつ)、その他正月用品や日用品が購入できたのが、年末に門前町などで開かれる「歳(とし)の市」です。浅草の浅草寺の歳の市は、長蛇の行列ができることで有名でした。他にも深川八幡、神田明神、芝明神、平河天神などで、少しずつ日にちをずらして歳の市が開かれます。

ところで、大晦日に「節分の豆まき」をすることもありました。節分は立春(現在では2月4日)の前日を指しますが、旧暦では年末年始がそれにあたることが多かったのです。除夜の鐘が響く中、「福は内、鬼は外」の声も、家々から上がっていたのでしょう。

年が明けると、現在では初詣に出かける人が多いですが、江戸時代にその慣習はありません。正月は年神様という神様を家にお迎えする日なので、外出するわけにはいかなかったのです。ただし江戸時代後期になると、年神様に自ら会いに出かける「恵方参り」が流行しました。年神様はその年の縁起のよい方角からやって来るので、その方角の寺社を参拝しようというものです。方角は毎年変わるので、参拝する寺社も毎年変わりました。
恵方参り(豊国『春曙恵方詣』国立国会図書館デジタルコレクション)

江戸城では、元旦から三が日恒例の「初登城」が行われます。大名は位階や譜代、外様で登城日が異なり、元旦は徳川一門と譜代大名に限られました。元日の六つ半(午前7時頃)に登城、御座の間の将軍に年頭の賀詞を述べ、太刀目録を献上。将軍からは兎の吸い物と盃を賜ります。その後、小姓による三献の儀が行われ、綿入れの小袖を賜りました。

また、武家にとっての正月最大のイベントが、1月11日の「具足(ぐそく)開き」です。正月に床の間の甲冑(かっちゅう)の前に供えていた、丸い餅を重ねた具足餅を、開く(木槌などで割って、食べる)ものでした。切らずに開くというのは、「切る」が切腹を連想させる言葉であることと、「開く」が末広がりの縁起のよい言葉だからだといいます。このしきたりは「鏡開き」として、現在まで受け継がれています。

季節の変化を楽しむ暮らし

さて、いかがでしたでしょうか。今回取り上げた年中行事は主なもので、他にもまだまだあります。江戸の年中行事は暦(こよみ)の節目に行われるものが多く、いずれも季節を感じさせるしきたりでした。そこには四季の変化を楽しむと同時に、変わりゆく中で自分と家族がどうか災厄に見舞われず、日々を健康に過ごすことができるようにという、切実な願いが込められているようにも感じます。

現在は住環境が整い、食べ物も多種多様になって、昔より季節を感じて暮らすことが少なくなっているでしょう。暑さ寒さを感じながらも、旬のものを頂き、季節の変化を楽しんでいた江戸の人々と比べて、どちらがこころ豊かな暮らしだろうかと問われると、意外に答えに窮するのではないでしょうか。江戸の年中行事を頭の片隅に置いて、「今頃はこんな行事があったんだなあ」と想像するだけでも、生活に少し彩りが生まれるかもしれません。

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