江戸時代、歌舞伎や文学、浮世絵などさまざまな芸術作品の題材となった吉原。吉原の遊女たちが身につけていた着物や髪型は、江戸の女性たちの憧れであり、遊女はファッションモデルのような存在でもあった。江戸の文化の発信地だった吉原。しかし、華やかに見える世界には光と「闇」があった。
遊郭で働く女性たちはどこからきたのか
吉原で働く女性のほとんどは、貧しい農村部の出身者や商売に失敗した家の娘だった。遊郭は少女を大金で買う。家を守るために、少女たちは止むを得ず吉原での暮らしを選んだのだ。彼女たちは約10年間、毎日のように複数の男たちを客に取らされることになる。遊郭には多くの女性が暮らし、衛生状態も悪かった。そのため性病や結核を患い、死んで初めて吉原を出る女性たちも多かったのだ。
宮本武蔵も吉原に通っていた
現代の映画や小説などでも耳にする「太夫(たゆう)」という言葉。最上位に位置する遊女のことを指す。美しい容姿はもちろんのこと、太夫はさまざまな芸に通じていた。吉原ができた当初、最上位の金持ちの客のほとんどが武士だった。彼らは伝統と格式を重んじるため、それらを求められた彼女たちは自ずと芸に通じるようになっていったのだ。武士といえば、あの宮本武蔵も、吉原ができた当初に通っていたといわれている。島原の乱に出る際に、雲井という彼女が着ていた小袖を羽織の裏に縫い付けていたというエピソードもある。
遊郭の主要顧客であった武士たちも、やがて訪れなくなる。明治に突入するまでの約100年間で武士たちが没落、現代のIT長者のような商人たちが主要顧客に変化していた。商人が主要顧客になるということは、太夫に求められていた伝統と格式が必要とされなくなり、結果、高級遊女は「花魁(おいらん)」という言葉でくくられることになる。
男たちにとっては夢の国だが……
吉原の広さは2万8000坪、時期によって異なるが遊女が3000人ほど、関係者も含めて約1万人が暮らしていた。吉原には門がひとつしかない。入り口の「大門(おおもん)」から表通りがあり、その左右に町が形成されている。道に面した店は高級店、道の端には格安で遊女を買える店があった。遊女たちは遊郭で暮らして、男性と体を重ね、人生の全てをその場所を過ごす。遊女たちにとっては、牢獄のような暮らしだったかもしれない。
一方、江戸時代は、男性が女性を買うことに非常に寛容な時代だった。現代とは異なり、妻は夫と一緒に家を守ることが重要な役割とされていた。そこには恋愛要素が介在していない。そのため結婚した男性でも、遊女と疑似恋愛を楽しむことができる。男たちにとっては夢の国だが、そこに暮らす女性たちにとっては、どんな場所だったのか……。
全ては虚構
吉原の春の景色といえば、大通りの立派な桜並木だった。桜の木々は3月1日に根がついたまま江戸中から集められ植えられたものだ。そして桜が散る頃には全て撤去されてしまう。吉原は全て虚構でできているのだ。
吉原は、豪華絢爛な場所であり続けることで、平安時代を虚構の中で再現しようとしていた。例えば、吉原では3日間、同じ遊女のもとへ通うと仮の結婚式を挙げることができた。これは平安時代、3日間女性のもとへ通うことができることは結婚を意味していたことに由来している。浮世離れした空間で、疑似恋愛を楽しむための場所。吉原は、性のテーマパークとしてつくられたのかもしれない。
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