筆者の個人的な話で恐縮だが、オランダに数年生活していたころにキリスト教を学んでみようとしたことがある。
改宗したのではない、あくまでキリスト教とは何ぞや? という個人的な疑問をクリアするためである。
そこまで? と思う人も多いかもしれない。しかし、かの地での生活の中で見え隠れするのは「キリスト教」という宗教の根深さだった。人々の感覚、考え方、行動に至るまで、「キリスト教という存在がわからないとこの人々の思考回路は理解できない」と、しみじみ悟ったことは事実である。そのくらい宗教というものは人の行動や考え、何なら人生まで大きく左右する。
戦国時代の日本には、そんなキリスト教の教えを一身に浴びて育てられ、実際にバチカンにまで赴いた四人の少年たちがいた。天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)である。
キリシタン大名と宣教師の政治的な思惑のもとで過酷な渡欧に耐え、帰国後は鎖国へ突き進む日本の中で迫害されながら、最後まで信仰に忠実だった彼らの見た天国と地獄はどのようなものだったのか。
天正遣欧少年使節とは
大村市街から長崎空港へ渡る箕島大橋のたもとに、南蛮の衣装に身を包んだ天正遣欧少年使節顕彰之像がある。
この像のモデルとなった天正遣欧少年使節は、日本初のヨーロッパ訪問団である。メンバーは、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノ、派遣当時はわずか13~14歳、いずれもカトリックの洗礼を受け、有馬晴信の許しを得て、日野江城下に建てられたセミナリオで学ぶエリート中のエリートだった。というのは、このセミナリオはキリシタン大名と呼ばれた良家の子息やその縁者の子供しか入学できず、当時の日本では考えられないほど高度な教育を行っていたからだ。
そんなエリートな少年たちは、飛行機もなく、船旅の生存率は50%ともいわれていたこの時代にはるばるバチカンを目指し無事にたどり着いただけでなく欧州の各国をめぐり、実に8年の歳月をかけて帰国した。多くの王族と交流し、ローマ教皇とさえ謁見した彼らは、ある意味この時代の栄華の頂点を極めたといっていいだろう。しかし、帰国した彼らを待っていたのは、豊臣の世であり、キリシタン迫害の現実だったのである。
キリスト教に魅せられて
そもそもこの試みは、イエズス会の存在なしには語れない。日本にキリスト教を持ち込んだのはイエズス会である。イエズス会は、その頃にはアジアにまで勢力を広げており、マカオやインドのゴアを掌握した彼らが次に向かったのは日本だった。
1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。
ここで注目したいのは、彼らは宗教だけではなく、貿易という“金のなる木”も携えていたことだ。
その頃の日本は戦国時代と呼ばれる戦乱の世だった。さらにはその後、織田信長が君臨したことも大きかっただろう。新しい物好きの信長は、南蛮風の衣装を身につけ、献上される珍しいものを愛で、それをもたらすキリスト教を保護したからだ。
そんな気配を感じ、金策に苦しむ九州地方の大名たちが、そのきらめきに惹かれてキリシタンに改宗していくのも、また当然の流れだったかもしれない。例えば、三城城(現在の長崎県大村市)の領主 大村純忠はポルトガルとの貿易のために横瀬浦を開港したのちにキリスト教に改宗。さらに福田と長崎を開港し、イエズス会に長崎と茂木の土地まで寄進している。
そんなキリシタン大名に手厚く保護されたイエズス会は、安土に続いて日野江にキリスト教の神父(司祭)を育成するための学校を創設、キリスト教をより日本へ定着させようとした。セミナリオで学ぶ子供たちは、そんな双方の思惑を一身に受ける希望の星であり、理想的なサンプルだったのである。
イエズス会とは
イエズス会が開設した学校には、10歳から18歳の少年を対象とするセミナリオのほかに、豊後の府内に開校されたコレジオがあった。コレジオは、セミナリオを卒業して、さらに司祭(神父)としての適性があると認められた子どもたちが進学できる場で、今の世でいえば大学のようなものだろうか。
少年たちが学ぶセミナリオとはいえ、その内容は戦国時代と思えないほど高度だ。少年たちはラテン語で会話をし、キリスト教教理、音楽を学び、さらには将来日本で布教を行うために、西洋だけでなく日本の古典なども学んだ。なかでも礼拝に欠かせない音楽が最重要といわれていた。フルートやオルガンなどを演奏し、聖歌をラテン語で歌う。時々織田信長も訪れては、少年たちのオルガンの演奏に耳を傾けていたとも言われている。
セミナリオの1日のタイムスケジュール
2011年、南島原市で約400年前の授業を再現する試みが行われた。
その資料による、全寮制のセミナリオの一日はこんな感じだ。
4:30 起床、修道者と朝の祈り
5:00 座敷の清掃(ミサ聖祭、規定の祈り)
6:00~7:30 学習(学科の暗記、年少者はラテン語の単語を暗記)
7:30~9:00 ラテン語の暗記。教師訪問、宿題、説明を受ける。上級生は下級生の勉強を見る。
9:00~11:00 食事、休憩
11:00~14:00 日本語、習字、作文の練習
14:00~15:00 音楽、合唱、楽器の練習
15:00~16:30 ラテン語、作文、講義か朗読
16:30~17:00 自由時間
17:00~19:00 夕食、休憩
19:00~20:00 ラテン語復習
20:00 良心の糾明、夕べの祈り、就寝
参考:戦国時代のルネサンス~400年前の授業を再現~|南島原ニュース
ひたすら学ぶ日々、といったところか。このような教育を最大130人ほどの少年たちが受けていたという。
さらに10年制のコレジオに至っては、文法・修辞学・弁証論・算術・天文学・幾何学・音楽学の7学科を学んだという。その時代の日本であっても、コレジオの学問レベルは欧州の大学に匹敵する内容だったというから、戦国の世の日本においてすでにグローバルな人材を生み出していたことになる。
少年たちが見た天国
イエズス会巡察師(布教先の視察をする役目を持つ宣教師のこと)ヴァリニャーノは、日本人の知性の高さ、高潔さ、真面目さに感嘆し、これをキリスト教本山へ知らしめるべきだと考えた。さらには、それを果たせばさらなる布教の支援、つまりローマ教皇などから資金を得られるだろうとも考えたのである。
使節団一行を乗せた船はマカオ、マラッカ 、ゴアなどを経由しながら、ポルトガルのリスボンを目指した。嵐に遭遇するだけでなく、ひどい船酔いや赤痢、食料の腐敗や海賊に襲われるなど、行程は苦難を極めたが、なんとか一人も欠けることなくリスボンに到着。長崎を発って実に2年6ヵ月の月日を要したという。
キリスト教の新約 聖書には、イエス・キリストの誕生に祝福を与えた東方の三博士のエピソードがある。黒髪の少年たちはまさにその東方の三博士さながらに各地で歓待を受けた。リスボンのエヴォラ大聖堂では伊東マンショと千々石ミゲルがパイプオルガンを演奏し、続くスペインのマドリードではフェリペ2世に謁見。地中海を渡ってイタリアに上陸した際には、教皇グレゴリウス13世は実に300名の兵を護衛として迎えに向かわせたという。さらに彼らは社交界デビューも果たし、伊東マンショがフィレンツェのトスカーナ大公妃であるビアンカ公妃とダンスを踊ったという記録も残っている。
ローマに入った少年たちは、無事にバチカンでグレゴリウス13世に謁見し、それぞれ大友宗麟、有馬晴信、大村純忠の名代として書状を託し役割を果たす。当初、中浦ジュリアンは病気のため、高齢だった教皇に危険だとみなされ欠席になってしまったが、その後無事に謁見を許されている。まさに下にも置かない待遇だったのだ。
このグレゴリウス13世は少年たちを謁見してまもなく高齢のため崩御してしまうが、その後即位したシスト5世の戴冠式にも彼らは参列を許されている。この時の馬にのった4少年の姿は、バチカン図書館のシスト5世の部屋の天井画にも描かれておりいかに彼らが歓待を受け、名誉を与えられたかが見て取れる。さらにその後ローマの市民権を与えられ、貴族にまで列せられている。
そんな多くの輝かしい功績を携えて、1590年6月、彼らは無事に日本に帰国した。出発時は13歳前後だった彼らも、8年の歳月を経て、21~22歳の青年に成長しており、知り得た知識とプライドでどれだけ未来への夢に胸を膨らませていただろうことは想像に難くない。
しかし、そんな彼らを待っていたのは「キリスト教迫害」という地獄の日々だったのである。
少年たちに襲い掛かかった絶望と地獄
彼らが帰国した日本は、信長の時代が終わり、豊臣の世になっていた。帰国の翌年には4人揃って、ヴァリニャーノと共に聚楽第で関白豊臣秀吉に謁見、ヨーロッパから持ち帰った楽器を演奏した。マンショがバイオリン、ミゲルがチェンバロ、マルティノがハープ、ジュリアンがリュートを演奏、秀吉は3回もアンコールをするほど大いに気に入られたという。
しかし、キリスト教を邪法として忌み嫌っていた秀吉は、すでに彼らの帰国の3年前に伴天連追放令(バテレンついほうれい・国内のキリスト教宣教師を国外に追放する法令)を発布していた。さらには庇護者でもあった大友宗麟や大村純忠などのキリシタン大名もとっくに亡くなっており、キリスト教を庇護する者はいなくなっていた。宣教師たちの大部分は国外に逃げざるを得なくなり、学びの場は迫害されていく。 1597年、長崎で日本26聖人と呼ばれる信者と6人の外国人宣教師たちが処刑され、1614年に江戸幕府がキリスト教そのものを禁止する禁教令を出し、教会の破壊を命じた。同年にはセミナリオとコレジオも消滅する。さらには1633年には第一次鎖国令が出され、あれだけ日本を席巻したキリスト教は嵐のように消え去るのである。
そんな中で、当然ながら彼らが無事であるわけがない。
ある者は処刑され、ある者は日本から迫害され、ある者はキリスト教を棄てるまで追いつめられていく。
それぞれの終焉
ここで4人が最後にどうなったのかを見てみよう。
正使であった伊東マンショは、3年間のマカオ留学を経て司祭となる。布教活動を続けるが迫害の中で身体を壊し、43歳で死去。教会に葬られるものの、禁教令による教会の破壊で墓も壊されたという。
原マルティノは、一時はコレジオの院長にまで推薦されるほど信仰を深め、得意の語学と欧州から持ち帰った活版印刷機を生かして洋書の翻訳者としても活躍した。しかし、1614年に江戸幕府が発布した禁教令によりマカオに追放、15年の時を過ごし二度と日本へ戻ることはできなかった。彼の遺体は、現在マカオの観光地として名高いサン・パウロ教会にヴァリニャーノとともに葬られている。
中浦ジュリアンは1614年の禁教令の際に追放令に従わず、日本に潜伏して布教活動を続ける道を選ぶ。百姓の服を着て、夜に信者の家を訪ね歩き、潜伏する信者たちを励まし続けたという。しかし、1632年ついに捕まり、投獄されて棄教を迫られるものの首を縦に振らず、一年後の1633年に穴吊りという拷問の末に64歳の生涯に幕を下ろす。処刑場でジュリアンは役人たちにこう叫んだ。
「私はローマを見た、中浦ジュリアン神父である!」
なお、彼は2007年に、当時のローマ法王ベネディクト16世により福者として列せられている。使節団の中では初めてキリスト教における称号を与えられた殉教者になった。
もう一人の正使であった千々石ミゲルは、唯一棄教したメンバーである。1601年にイエズス会を脱退、千々石清左衛門という俗名に改め、従兄弟である大村喜前(よしあき)に大村藩士として仕えた。なぜ彼が棄教に走ったのかは定かではないが、一説には欧州で見た奴隷制度への不信感や、イエズス会への反発などがあったといわれている。彼は喜前に、「キリスト教布教は異国の侵略手段、棄教すべし」とまで言ったといわれており、実際にバチカンにまで行った彼が棄教したという事実はキリスト教の迫害を加速させたとの見方もあるようだ。その後も、キリスト教を捨てた裏切り者として暗殺されそうになり、さらには日蓮宗に改宗したはずが仏教徒からも異端扱いされ追われるなど、世捨て人のように寂しい生涯を過ごしたらしい。
なお、長年、墓の場所でさえ不明だったが、2003年に伊木力(いきり)で彼の墓碑と思われるものが発見されている。
信仰が彼らにもたらしたもの
日本におけるキリスト教は、最初は輝ける未来への指標として、その後は命まで代替にせざるを得ない踏み絵として全く違う価値観へと変化していった。子供の頃から、キリスト教を唯一無二として育てられ高みへ導かれた少年たちにとっては、この落差はまさに地獄としか思えなかったのではないだろうか。
昨日まで信じていたことが、今日まったく違う意味になる。ここまで真逆でなくても、このようなことは残念ながら起こりうるのが、人生だ。
そんなとき、どのような道を選ぶべきなのか。もし彼らが現代の社会のように多様な価値観を持っていたとしたら、たとえ地獄にであっても救いはあったのかもしれない。
参考:
天正遣欧使節 松田 毅一著(臨川書店)
世界史のなかの天正遣欧使節 伊川健二著(吉川弘文館)
監修・画像提供:大村市歴史資料館