上杉謙信とは何者だったのか? 乱世に挑んだ「越後の龍」の真実【武将ミステリー】

上杉謙信とは何者だったのか? 乱世に挑んだ「越後の龍」の真実【武将ミステリー】

目次

上杉謙信といえば、戦国時代最強を謳(うた)われた越後(現、新潟県)の武将として知られます。軍神・毘沙門天(びしゃもんてん)の加護を信じ、生涯不犯(ふぼん)を通して、助けを求める者に手を差しのべました。しかし天才的な戦術家といわれる武将も、多くの悩みと苦難に直面しています。長尾景虎(ながおかげとら)と名乗った前半生を、7つのポイントで紹介します。

1.禅寺で高僧の教えを受けた幼少期、仏門で何を学んだのか?

長尾景虎(後の上杉謙信)は享禄3年(1530)1月21日、越後(現、新潟県)守護代・長尾為景(ながおためかげ)の3男(異説あり)に生まれます。幼名は虎千代。長兄の晴景(はるかげ)はすでに成人していました。また姉の仙桃院(せんとういん)は2歳年上とされます。

ちなみに、後に戦うことになる武田信玄(たけだしんげん)は9歳年上、北条氏康(ほうじょううじやす)は13歳年上、織田信長(おだのぶなが)は4歳年下でした。

家を継ぐ予定のない男子は他家に養子に行くか、寺に入るのが当時のならいです。景虎も7歳で、春日山(かすがやま)城下の禅寺・曹洞宗(そうとうしゅう)林泉寺(りんせんじ、上越市)に入りました。同じ年、父・為景が隠居し、兄の晴景が長尾家の家督を継ぎます。

景虎は戦国武将の中でもとりわけ仏教に傾倒(けいとう)した人物として知られますが、その素地は生母・虎御前(とらごぜん)が信心深かったことと、林泉寺で生涯の師となる天室光育(てんしつこういく)に出会ったことにありました。

活発だったという少年時代の景虎にとって、写経や坐禅を組む日々は窮屈であったでしょうが、曹洞宗の禅が重んじる「只管打坐(しかんたざ)」は、坐ることが修行でした。そこに成果や悟りといった見返りは求めてはなりません。つまり「打算的な心や私利私欲を捨てること」を修行したわけで、少年の純粋な心に少なからぬ影響を与えたことが想像できます。また師の天室光育からは禅だけでなく、兵学も学んだ可能性がありました。当時の景虎が城郭模型で遊んだり、勇ましい遊びを好んだという話も伝わっています。

しかし天文10年(1541)に父・為景が没すると、越後は不穏な空気に包まれます。景虎は雪の中、甲冑をまとって父の葬儀に参列しました。それほど不測の事態が起きかねない、緊迫した状況であったのでしょう。ほどなく景虎は寺を出て城に戻り、元服しました。

2.父・為景が没した当時の越後はどんな状況にあったのか?

春日山城跡(上越市)から望む越後

亡くなった父・為景は「下剋上(げこくじょう)」によって越後の実権を奪った、したたかな人物です。長尾家は守護代、つまり守護の代理ですが、為景は主である越後守護・上杉房能(うえすぎふさよし)を自刃(じじん)に追い込み、房能の養子・上杉定美(さだよし)を傀儡(かいらい)の守護に据えて、実権を掌握しました。

この事態に、死んだ上杉房能の実兄である関東管領(かんとうかんれい)・上杉顕定(あきさだ)が怒ります。関東管領は本来、鎌倉公方(かまくらくぼう)の補佐役ですが、当時はそれにとって代わる勢力があり、顕定は大軍を率いて越後に攻め込みました。ところが為景はなんと長森原の戦いで顕定を破り、敗死させるのです。以後、為景は越後及び周辺国に影響力を保持したまま隠居し、にらみを利かせていました。

そんな為景が没すると、鳴りをひそめていた反為景の勢力が一気に騒ぎ始めます。病弱な晴景ではとてもこれを鎮められません。元服した景虎は、兄・晴景より敵対勢力を鎮圧すべく、栃尾(とちお)城(現、長岡市)に入ることを命じられました。時に景虎14歳

3.なぜ兄に代わって長尾家の家督を継ぎ、なぜ生涯不犯を誓ったのか?

春日山城跡の上杉謙信像

栃尾城に入った景虎が年少であることを侮(あなど)り、近在の勢力が攻め寄せますが、景虎は撃退。これが初陣でした。続いて景虎は、兄・晴景から実権を奪った黒田秀忠(くろだひでただ)の乱を鎮めます。この鮮やかな手腕を周囲が認め、越後守護・上杉定美の勧めや、病床にあった兄・晴景の要請もあって、天文17年(1548)、19歳の景虎は兄より長尾家の家督を譲られました。

従来、景虎は兄を討って家督を継いだと語られていましたが、晴景が病没したのは5年後の天文22年(1553)だったことがわかっています。むしろ景虎は、望んで家督を継いだわけでなく、「野心を持って家督を簒奪(さんだつ)した」と思われることを嫌いました。

上杉謙信が生涯、不犯を通したのは宗教上の理由であったとされますが、もう一つの理由がここにあったのかもしれません。景虎は守護代長尾家の家督を一時的に預かったに過ぎず、兄の子が成人すれば返上するつもりであることを、自らの子をなさないことで示そうとしたとも考えられるのです。実際は晴景の子も病死してしまうのですが、しかし景虎は掌(てのひら)を返すことはせず、後に姉・仙桃院の息子である景勝(かげかつ)を養子に迎えました。これが、景虎が大切にした物事の「筋目(すじめ)」であったのかもしれません。

4.なぜ城も家臣も捨てて、出奔(しゅっぽん)したのか?

上越の山にかかる龍のような雲

景虎が家督を継いだことに不満を抱き、謀叛を起こした長尾政景(まさかげ)を景虎は猛攻の末に降伏させ、天文19年(1550)に越後を統一。和睦の証(あかし)として、景虎の姉・仙桃院が政景に嫁ぎました。後に景虎が養子にする景勝は、政景と仙桃院の子です。

越後統一は成ったものの、争乱は日本全土で起きていました。2年後には関東管領の上杉憲政(のりまさ)が北条氏らによって関東を追われ、景虎のもとに亡命します。景虎は助力を約束。また天文22年(1553)には、武田氏の侵攻によって信濃(現、長野県)を追われた村上義清(むらかみよしきよ)らが救援を求めたため、景虎は信州川中島に出陣。初めて武田信玄と干戈(かんか)を交えました。

同年、景虎は初めて上洛。前年に従五位下(じゅごいげ)・弾正少弼(だんじょうのしょうひつ)の官位を得たことへの御礼言上が目的だったともいいます。景虎は後奈良天皇に拝謁がかない、感激しますが、一方で足利将軍は三好(みよし)勢によって都を追われており、世の乱れが武家の棟梁にまで及んでいることを目にして、衝撃を受けたでしょう。

高野山

また景虎は比叡山、高野山、本願寺、大徳寺など諸寺に足を運びます。大徳寺では戒律を授かりますが、そこには「殺生(せっしょう)の禁止」も含まれていました。戦いの日々を送る景虎に、到底それは守れません。「世は乱れるばかりであるのに、仏の教えも守れぬならば、何を拠り所に生きればよいのか」。景虎は生き方に悩み始めていました。

越後に戻っても心は欝々(うつうつ)として晴れず、弘治2年(1556)、27歳の景虎は突如、隠退を宣言して春日山城から出奔してしまいます。「家臣たちの仲が悪く、言うことを聞いてくれない。国主の役目を果たせないので、隠退する」という内容の書状を残していました。国内が統一されても私利私欲でいがみ合う家臣たちの姿に、嫌気が差したのです。

5.上杉謙信は、なぜ毘沙門天の化身と呼ばれたのか?

毘沙門天像

国主が出奔という前代未聞の事態に、家臣たちはあわてます。ちなみに越後守護の上杉定美はすでに他界し、守護家が絶えていたため、景虎は守護代ながら、守護待遇の国主でした。景虎は一説に高野山に向かっていたともいわれますが、家臣らが追いつき説得します。説得役はかつて景虎と戦った長尾政景でした。政景が景虎に何と言ったのか正確にはわかりませんが、およそ次のような内容であったようです。

「国中の者が困っているのに、景虎様はご自分だけ隠退なさるのですか。民は、景虎様は武田を怖れてわれらを見捨て、弓箭(きゅうせん)の道から逃げたのだと噂するでしょう」

景虎は政景の説得に応じて春日山に戻り、心機一転、戦いの日々に臨むことになります。景虎の心境に何か大きな変化があったはずですが、詳細は伝わっていません。想像ですが、この時、景虎は「われは毘沙門天たらん」という覚悟を固めたのではなかったでしょうか。

「毘」の旗

毘沙門天は武神であり、四天王の一人で北方の守護神とされます。景虎は生涯、毘沙門天を篤く信仰し、軍旗に「毘」の文字を掲げました。なぜ毘沙門天だったのか。

一つは武将として、武神にあやかりたいという思いでしょう。それは景虎に限らず、武人であればだれもが等しく願うことです。もう一つは、毘沙門天が仏法の守護神であるからではないでしょうか。毘沙門天像が足の下に邪鬼を踏みつけているように、古来、仏の教えを妨(さまた)げるものは非常に多い。だからこそ守護神が必要なのです。

翻(ひるがえ)って現実を見れば、やはり仏の教えからはほど遠く、私利私欲で争う者ばかりの乱世。だからこそ景虎は隠退して殺生をやめ、仏の道に生きようと願ったものの、それは個人としての満足に過ぎず、国主としては民を見捨て、武人としては敵から逃げる卑怯な振る舞いになってしまう。ならば、越後国主として何をなすべきなのか

そこで景虎が思い至ったものこそ、「戦乱を収め、仏の教えが妨げられぬ世を導くために、われが守護神たらん、毘沙門天の化身たらん」という生き方ではないかと思うのです。自らの手を汚してでも邪(よこしま)な者を討ち、世に安寧(あんねい)をもたらすという決意でした。もちろん生身の人間が武神たらんとするなど、生半可な覚悟ではありませんが、迷い続けた末に景虎がつかんだ、一つの結論であったのでしょう。上杉謙信が毘沙門天の化身と畏(おそ)れられた理由は、ここにあったと考えます。

6.なぜ2度目の上洛で5,000の精兵を率いていたのか?

京都

景虎を危険視する存在

永禄2年(1559)4月、景虎は6年ぶりに2度目の上洛を敢行。その目的は足利13代将軍義輝(よしてる)が避難先の近江(現、滋賀県)から京都に戻ったことの祝いと、越後に亡命してきた関東管領・上杉憲政より、「上杉の名跡(みょうせき)と関東管領職を景虎に譲りたい」と言われていることに対し、幕府の承諾を得ることにありました。

しかし、それだけならば上洛人数は少数で済むところ、景虎は精兵5,000を率いていたのです。そもそもそんな景虎一行を、京都に至るまでの国々がよく黙って通過させたものですが、それは事前の交渉とともに、景虎の上洛に野心がないことが明らかであったからでしょう。景虎の人柄に、他国の領主たちが一定の信頼を置いていたことがうかがえます。

しかし、景虎一行は京都に入る手前の近江で足止めされました。「越後の龍」とも呼ばれる景虎を危険視し、京都に入れまいとする存在があったためです。すなわち畿内で最大勢力を誇り、将軍と対立する三好長慶(ながよし)や、その家宰(かさい)・松永久秀(まつながひさひで)らでした。これこそまさに、景虎が精兵を率いてきた理由であったのです。

一魁斎芳年『魁題百撰相 足利義輝』(部分、国立国会図書館デジタルコレクション)

関東における「室町幕府の代理人」に

景虎は主力を近江坂本付近に分宿させ、自らは少数の供を連れて京に入り、将軍義輝に初めて拝謁。義輝にこう伝えています。「相応の御用を命じて下さるのならば、私は領国のことなど一向捨て置き、無二、上意様(義輝)の御前をお守りする所存です」。景虎は将軍の命令一下、三好勢を討ち平らげ、将軍を守護いたしますという思いを込めていました。

景虎が領国をなげうってまで将軍を守ろうとした理由は、そもそもの乱世の原因が「秩序の乱れ」にあると考えたからでしょう。本来、幕府管領細川(ほそかわ)氏の家臣に過ぎない三好氏が、武門の頂点に立つ将軍を京都から放逐(ほうちく)するなど、あってはならないことでした。将軍の権威が揺らげば、景虎が就任許可を求めている関東管領の権威も脅かされることになります。景虎は世の乱れの根本を正そうとしていました。

景虎の強い意思に接した将軍義輝は、深く感動します。軍を動かすことには同意しなかったものの、景虎を幕府相伴衆(しょうばんしゅう、管領に次ぐ席次)に取り立て、多くの特権を与えるとともに、上杉家の相続、関東管領就任の内諾も与えて、景虎に応えました。これによって景虎は、越後はもちろん、関東や信濃で「室町幕府の代理人」として振る舞えることになったのです。さらに義輝は、自分と景虎をつなぐ一人の人物を紹介します。関白近衛前嗣(このえさきつぐ、後の前久〈さきひさ〉)でした。

7.11万5,000の大兵力を動員した小田原攻めの真の目的とは?

密約を結んだ可能性

前嗣は義輝の正室の弟で、二人は同い年の24歳ということもあり、親密な間柄です。景虎はこの時、30歳。前嗣は公家の最高位である関白ながら行動力があり、朝廷、幕府の再建と秩序回復を願っていました。景虎ともすぐに昵懇(じっこん)となります。

そしてこの時、将軍義輝、関白前嗣、景虎の3人の間で密約が結ばれたという説があります。それは関東管領就任の内諾を受けた景虎の帰国とともに、前嗣も越後に下り、関白の権威をもって景虎を支援し、関東平定を実現。さらに関東を掌握した景虎率いる大軍が上洛して、畿内を牛耳(ぎゅうじ)る三好勢を打ち破り、秩序を回復させるという内容で、まさに「戦国終焉(しゅうえん)のシナリオ」と呼ぶべきものでした。

もちろん明確な史料の裏づけはありませんが、景虎と前嗣が血書の誓詞を交わしていること、また義輝が前嗣に内密で起請文(きしょうもん)を送り、実際に前嗣が関東に赴いていることからも、そうしたシナリオが実在した可能性は高いといえるでしょう。

小田原攻め

京都から越後に帰国した景虎は、翌永禄3年(1560)8月、小田原の北条氏に圧倒される関東諸将の救援要請に応えて出陣。三国山脈を越えて上野(こうずけ、現、群馬県)に入ると、瞬く間に諸城を攻略して上野一国を平定、上杉憲政の領地を奪還します。景虎は厩橋(まやばし)城(現、前橋市)に入り、北条討伐の檄文(げきぶん)と将軍義輝の御内書(ごないしょ)の写しを関東の諸将に送り、参集を呼びかけました。

そして年を越した永禄4年(1561)春、関白近衛前嗣と関東管領上杉憲政を従えて厩橋城を出陣。武蔵(むさし、現、埼玉県、東京都)に進軍すると、参陣者が続々と集結し、軍勢は実に11万5,000余りにふくれあがります。一方の北条氏は形勢不利と見て、主力は本拠の小田原城に籠(こも)りました。景虎は北条方勢力を潰しつつ、小田原に迫ります。

小田原城を囲んだ景虎は、3月13日より攻撃を始めますが、無理な力攻めはしません。景虎にすれば北条を滅ぼすつもりはなく、関東管領の威の前に北条氏康が膝(ひざ)を屈し、景虎を頂点とする関東の新秩序内に組み込むことができればよかったのです。11万5,000の大軍勢はいわば権威を示し、筋目を正すためのデモンストレーションだったのでしょう。

鶴岡八幡宮

関東管領・上杉政虎の誕生

しかし北条氏康は屈せず、同盟を結ぶ武田信玄に支援を要請。信玄は北信濃に進攻する動きを見せ、また越中(現、富山県)で一向一揆を活発化させて越後を脅かします。一方、氏康は別働隊に景虎軍の食糧弾薬を奪わせ、諸将の厭戦(えんせん)気分を募らせました。

景虎は頃合を見て陣を払い、閏(うるう)3月16日、鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領就任式を行います。関東諸将にこの儀式を見せ、新たな関東管領の下で戦乱が終結、新秩序が確立されることを意識づけることこそ、小田原攻めの最大の目的であったかもしれません。

景虎は上杉憲政より上杉の名跡を継ぎ、名を上杉政虎(まさとら)と改めました。本稿では以後、最もなじみのある上杉謙信の名を用いることにします。実際に謙信を名乗ったのは、元亀元年(1570)頃からでした。

謙信は6月中旬まで武蔵にとどまって北条の動きを牽制しましたが、その後、あわただしく帰国の途につきます。越後勢が疲弊しているとみた武田信玄の、北信濃での動きが本格化していたからでした。史上有名な「第四次川中島合戦」が迫っていました。

以下、【謙信の謎に迫る 後編】に続きます。

上杉謙信はまさに戦国最強だった! 「毘沙門天の化身」が駆けた数々の戦場とは【謙信の謎に迫る 後編 】もぜひお読みください。

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