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Culture
2021.05.29

大乱闘力士&火消ブラザーズ!主犯の”鐘”が島流しにされた大事件「め組の喧嘩」の史実を探る!

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時は文化2(1805)年。
大勢の人で賑わう歓楽街、江戸の町でその大喧嘩は始まった。江戸庶民の大スターである力士に相対するのは、こちらも庶民たちの羨望の的、町の火消たち。人気者同士の突然の喧嘩に、集まっていた人々は大盛り上がり。江戸を盛り上げた事件は意外な結末を迎えることになる。

力士と火消し、どちらの職業もアイドルやスター並みの人気だったようですね!

これが、のちに歌舞伎に脚色され大ヒットする「め組の喧嘩」だ。
史上最強の力士と謳われた江戸の名大関雷電為右衛門が当時の情景を克明に記している。彼の巡業旅日記から事件のあらましを紹介しよう。

とび職人たちが大活躍した江戸の消火活動

江戸はとにかく火事の多い町だった。木造家屋は、いったん火がつくとよく燃えた。しかも家は連なって建てられていたから、火は隣へと燃え移ってしまう。龍が水を吐く様子から名付けられた「龍吐水(りゅうどすい)」という手押しポンプもあるにはあったが、これだって現代のホースみたいに大量の水を放出できるわけじゃない。だから江戸の消火活動といえば、火がこれ以上燃え広がらないように周囲の家ごと取り壊してしまう破壊消防が基本だった。

火を消すより、まわりの家を壊して行った方が早い。今では考えられない方法ですね。

当時の江戸には、江戸城と武家地の消防にあたる大名火消、定火消、そして町人地区の消防にあたる町火消の三組の消防組織があった。町火消を編成したのは名奉行の大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)。本所・深川の16組のほかに、有名な「いろは48組」がいた。

「いろは48組」のメンバーは、普段は土木工事や建設現場で働く男たちが主だった。江戸にはあちこちに火見櫓があって、火災になると半鐘が鳴らされ、町民たちに火元までの距離を知らせたという。男たちは火の手があがると現場へ駆けていき、頭から水をかぶり、厚い布でできた半てんをはおった。そして「鳶口」や「大のこ」と呼ばれる道具で次々と家を壊していくのだ。普段から高い場所での作業に慣れているだけあって屋根に上るのも躊躇がない。荒々しくも勇ましい男たちの姿は、まさに江戸っ子の典型だ。命知らずの火消が庶民の人気を集めたのも納得がいく。

私の友達にも「消防士じゃないと付き合えない」という子が何人もいます! 鍛え上げられた身体で、火に立ち向かっていく姿にきゅんとします♡

町火消と力士の大乱闘「め組の喧嘩」

『神明恵和合取組』明治23年(国立国会図書館デジタルコレクションより)

歌舞伎でも良く知られる「め組の喧嘩」は、まさに“火事と喧嘩は江戸の華”をそのまま地でいった作品と言えるだろう。そんな江戸っ子の典型である町火消と力士の喧嘩のいきさつはこうだ。

文化2(1805)年2月。晴天。
その日、芝神明社の広い境内には見世物小屋や芝居小屋が立ち並び、大勢の人で賑わっていた。

江戸町火消、め組の辰五郎は芝明神境内で興行中の相撲を見ようと仲間を連れて遊びにきていた。自分は地元の町火消だからと木戸御免で入ろうとしたのが悪かったのだ。辰五郎は木戸番をしていた力士に入り口をふさがれてしまう。

男たちが木戸で揉みあっているところに顔を出したのが、序二段の九頭竜。「木戸銭(見物料)を払え」「けちくせえことをいうな」「つまみ出せ」そんな会話があったのか、辰五郎は追い出されてしまい、恥をかかされたとご立腹。力士へ火箸を投げつけたものだから、喧嘩になってしまった。

メンツ潰されて、黙って帰るわけにはいかねぇ!!

力士は見ていた。粋な江戸っ子たちの大乱闘

『神明恵和合取組』明治23年(国立国会図書館デジタルコレクションより)

『神明恵和合取組』明治23年(国立国会図書館デジタルコレクションより)

応戦に駆けつけた力士の四ツ車に投げ飛ばされた辰五郎。それを助けようと打ち鳴らされた半鐘のせいで現場は大混乱に陥ってしまう。火事を知らせる半鐘を聞いて火の手があがったとかん違いした、め組の人員も集まってしまったのだ。現場はまさに火のついた大騒ぎ。

困った相撲年寄たちが奉行所へ願い出て、町の奉行所が取り締まりに出勤。その夜、現場では鳶口49本、六尺棒12本、天秤棒1本、金棒1本、突棒と一緒に騒いでいた男たちもお縄にかけられた。

その喧嘩を近くで見ていたのだろう。江戸の名大関、雷電為右衛門が当時の様子を『雷電日記』に書き残している。

「鳶の者たちは火見櫓に上り、半鐘を打ち鳴らし、拍子木を叩いて仲間を二、三百ほどかき集め、相撲小屋の木戸前に押しかけてきた。そして家の屋根瓦をむしっては投げ、鳶口を振り回しては木戸前でなおも騒いだ。さらに九頭山と同じ部屋の幕内力士四ツ車が一人で(助っ人に)やって来た。鳶職人らは彼に向って鳶口をふりかざして向かっていった。四ツ車は、着物を脱ぎ、鳶職人らに切ってかかり、うち一人を切り倒してしまった。その他に二、三人ほど傷を負わせてしまった。相手も身を引いたので、四ツ車を相撲部屋へ引き入れることにした。」

力士と火消の喧嘩も面白いが、力士・雷電の淡々とした筆運びもおもしろい。屋根から瓦を投げる火消や通りで金棒を振りまわす力士、間違えて参上し、うろうろしている男たちを少し離れたところで観察していたのだろう。そんな姿を想像すると笑えてくる。

火事だと思って駆け付けた人たちは、しばらく状況が飲み込めなかっただろうなぁ。

『雷電日記』の作者、江戸の名大関雷電為右衛門

 『相撲浮世絵複刻 第1輯』相撲浮世絵刊行会両国書房、昭和14年(国立国会図書館デジタルコレクションより)

長野県にある雷電の生家には、現役時代の雷電が長年綴った旅日記が2冊、引退して雲州藩の相撲頭取になってからの公文書メモが1冊保存されているという。『雷電日記』とは、この3冊の総称だ。

江戸の名大関雷電為右衛門こと雷電は、巷説によると六尺三寸(191㎝)、四十貫(150㎏)の「強くて大きい」体躯の力士だったらしい。

江戸時代の男性の平均身長は、およそ155cmと言われているので、かなりの高身長!

相撲・演芸評論家の小島貞二(こじまていじ)氏によると『雷電日記』が書かれた時代から明治、大正時代まで、力士のなかには自分の四股名すら満足に書けない人が多かったという。そんな時代に「これだけの日記を書き綴ったことは、その文章からいって、その筆跡からいって、雷電が並々ならぬ才子」であることを物語っている。

残念ながら、この日記には雷電のプライベートなことは記されていない。だから彼がどんな人物だったのかは想像するしかない。それでも巡業先の地名や興行の成果を中心に、人に見られることを意識して書かれたと思われる文章からは、雷電がまじめな性格だったことが伺える。

すべては半鐘のせい?「め組の喧嘩」の以外な結末

『新撰東錦絵 神明相撲闘争之図(しんせんあずまにしきえ・しんめいすもうとうそうのず)』歌川芳年、明治19年(国立国会図書館デジタルコレクションより) 

町奉行所の役人の出馬で収まった力士と火消の騒動。しかし話はこれで終わらない。
雷電によると、火消たちは役所から許可をもらっていた相撲小屋の御免看板や木戸までも打ち壊してしまったようだ。

江戸っ子に人気の町火消と相撲力士。いずれも劣らぬ江戸の華と考えた末、下された刑は軽く「騒動の主犯は半鐘である」とのお裁きで一件落着。すべての責任を押し付けられた半鐘は三宅島に島流しにされてしまったとか。

か、鐘が主犯!?!?

というのは創作で、雷電によると事実は少し違うらしい。

日記によれば、将軍様は「よく自重した」と相撲衆を直々に褒めたと言う。なんのお咎めもなかった相撲衆に対し、火事でもないのに建物を壊してまわった火消は町内行事をつつしむように命じられ、なかには江戸を追放された者もいたという。

やはり現実は物語のように都合よくはいかないようだ。

ところで喧嘩のせいで場所をあと3日残してしばらく休むことになった春の大相撲だが、4月24日に残りの3日の取り組みを終え、場所を無事に終えることができたという。

めでたしめでたし!

【参考書籍】
江戸の三火消と消防技術:お江戸の科学 (gakken.co.jp)
『雷電日記』ベースボール・マガジン社、渡邉一朗/監修 小島貞二/編、1999年

書いた人

文筆家。12歳で海外へ単身バレエ留学。University of Otagoで哲学を学び、帰国。筑波大学人文学類卒。在学中からライターをはじめ、アートや本についてのコラムを執筆する。舞踊や演劇などすべての視覚的表現を愛し、古今東西の枯れた「物語」を集める古書蒐集家でもある。古本を漁り、劇場へ行き、その間に原稿を書く。古いものばかり追いかけているせいでいつも世間から取り残されている。

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大学で源氏物語を専攻していた。が、この話をしても「へーそうなんだ」以上の会話が生まれたことはないので、わざわざ誰かに話すことはない。学生時代は茶道や華道、歌舞伎などの日本文化を楽しんでいたものの、子育てに追われる今残ったのは小さな茶箱のみ。旅行によく出かけ、好きな場所は海辺のリゾート地。