攘夷には種類がある
文久二年、薩摩藩の実権を握る島津久光は、勅使の大原重徳に随行して江戸へ赴き、幕府に政治改革を要求しました。すでに横浜が開港され、貿易が盛んになってきた時期のことです。知識人たちは開国と貿易が歴史的必然であることを悟っていましたが、それでも「攘夷」はなくなりません。
一つは破約攘夷という考え方です。締結された通商条約は、いわゆる不平等条約(治外法権・協定関税)なので、いったん白紙に戻してから、改めて条約を結ぶべきだというのです。諸外国からすれば、有利な条件で締結した条約を、みすみす手放したりはしないでしょう。だから、いったん武力に訴えてでも外国人を追い出したのち、新たに対等な条約を結ぼうというのです。
もう一つは、大攘夷という考え方です。貿易を振興することで国力をつけ、充分な経済力と軍事力をつけてから世界万国と対等に交際することを目指すという堅実な路線です。この考え方も、日本の自主独立を保つため、外国の介入を防ぐという「攘夷」の範疇です。久光の考え方は大攘夷で、無闇に外国との間に摩擦を起こそうとする破約攘夷派の無謀な活動を抑止すべきだと考えていました。しかし、そうした考えは薩摩藩内部にも伝わっておらず、久光が京に滞在していた間に、久光の行動目的を破約攘夷のためと誤解した藩士らを鎮圧、薩摩藩士の同士討ちとなった寺田屋事件を引き起こしていました。
江戸での目的を遂げて
藩主の父といっても、無位無官の久光には幕閣と対等に話し合える資格がなく、勅使に随行することで、その資格を得ました。そして、安政の大獄で失脚していた一橋慶喜を将軍後見職に、同じく隠居を強制されていた越前福井藩の前藩主・松平春嶽を政事総裁職に就任させ、幕政改革の目的を果たしました。そのあとは勅使を京まで無事に帰せば、久光の政界デビューは大成功となったでしょう。しかし、その帰路に生麦事件を起こしてしまいます。
『維新史料綱要』の文久2年8月21日に、
鹿児島藩主茂久生父島津久光、勅使大原重徳ニ先ダチ、江戸ヲ発シ、帰洛ノ途ニ就ク。偶々生麦村(武蔵国橘樹郡)ニ至リ、横浜在留英国商人「ウイリアム・マーシャル」「ウードスロープ・クラーク」「チャールス・リチャードソン」「マーシャル」の従妹「ボロデール」ノ川崎大師ニ向ツテ騎行スルニ遇フ、供頭奈良原喜左衛門(清)等、英人ノ馬ヨリ下ラズ、道ヲ旋セントシテ先駆ノ列ヲ紊ルヲ憤リ、之ヲ襲撃シ、「リチャードソン」を殺シ、「マーシャル」「クラーク」二人ヲ傷ツク(『維新史料綱要』巻4 p131~132より)
このように概略が記してあります。たまたま出くわした騎馬の外国人一行が、久光を警固する行列のなかにまで乗馬したまま割り込んできたので供侍が斬りかかり、一人を斬殺、二人を負傷させたという事件です。
大名行列が無礼討ちで人を斬ったといってもタダゴトで済むはずがない。自藩の領内ならともかく、よその領分で人を斬ったら、届け出ただけでオシマイとはいきません。ましてや斬った相手が外国人とあっては、外交問題に発展するのは避けられません。
異人斬りや外国公館の焼き討ちなどの過激な攘夷運動を抑止すべきだと考えていた久光でしたが、外国人を殺傷したことで、対立していたはずの破約攘夷派を勇気づけてしまいました。
米国人から見れば自業自得
まあ、しかし、斬られた英国人一行にも批難されるべきことがありました。
横浜在住の米国人宣教師ヘップバーン(一般にヘボンと称される人物)の塾で英語を学んでいた林董によると、
文久二年(千八百六十二年)の事なり、東海道は諸侯の往返頻繁なれば成丈け通行を見合はす様にと幕府より外人に照会し置きたれども、外国人は成丈け内外間に据へ付けたる障碍を排去せんと欲し、東海道に出でざれば散策運動の便なしとて右の照会を承諾せず、然らば本牧の方に向つて運動散歩の便を開かれよとて、幕府は新規に平坦の道路を作り、東海道に大名の通行ある時は前以て通知する故、其時丈は切めて遠慮せらるゝ様にと請求したるに、香港より避暑に来りし一行「レノックス、リチャルドソン」「ミュンスボロテール」と「マーシャル」「クラーク」の四人香港へ帰る以前に是非江戸を見物せんと云ふ友人等は今日は島津三郎通行の通知ありたり、危険多ければ見合すべしと云ふ、四人は聴入れずして否此等アジヤ人の取扱方は予能く心得居れり、心配なしとて八月廿一日東海道に出で終に生麦の騒動を引起せり。予が知れるヴァンリードと云ふ米人は日本語を解し頗る日本通を以て自任したるが、リチャルドソン等よりも前に島津の行列に逢ひ、直に下馬して馬の口を執り道の傍に佇み、駕の通る時脱帽して敬礼し、何事なく江戸に到着したる後リチャルドソンの生麦事件を聞き、日本の風を知らずして倨傲無礼の為めに殃(わざわい)を被りたるは、是れ自業自得なりと予に語れり(林董 述『後は昔の記』p23~24)
以前から外国人と日本人との摩擦を避けるよう、居留地の外国人のために新たな散策路を開鑿するなどの配慮がなされ、大名行列が通行するときは東海道の通行を遠慮するよう注意喚起もなされていたのに、英国人一行は「アジア人の扱い方なら心得ている」などといって大名行列を見物しに行ったのでした。だから、日本通の米国人ヴァン・リードは「自業自得だ」と思ったということです。
いわゆるテロではありません
政治的な主張を暴力による恫喝で行うことをテロといいますが、生麦事件の場合は異なります。脱藩浪人が、居留地の近くで外国人を待ち伏せて殺害するのはテロで間違いないけれど、藩組織に連なっている藩士が、主筋にあたる人を警固しているときのことですし、上司の命令に基づき職務として斬ったのです。
当時の日本は非文明国と看做されていました。現代に当てはめると、首相級の人が暗殺される(桜田門外の変)政情不安な発展途上国に相当します。そんな国で、要人を警固する車列に外国人のクルマが割り込んだら、どうなることでしょう。その場で警察官に射殺されても驚くには値しません。ましてや、撃った警察官のことをテロリストとは呼びません。
ただ、テロではないからこそ大事件なのです。命令に基づき、職務として斬ったからには、その場の命令系統のトップにあたる久光は、事件の責任を免れない立場です。
瀕死のリチャードソンを介錯したのは海江田信義だったとされます。かつて、藤田東湖とサイコロ博打に興じたあげく、東湖に陰嚢を露出させる羽目に追い込んだ有村俊斎と同一人物です。もはや助からないとしても手当の真似事くらいしておくべきでした。無惨に斬殺された遺骸を現場に残して立ち去ったことで、居留地の外国人たちの感情を害しています。
薩摩藩の事後の対応は、お世辞にも立派とは言い難いものでした。幕府に宛てた最初の届け出は、浪人らしいものが不意に現れて外国人を斬ったという、虚偽の報告です。つぎには、実在しない人物で、前に薩摩藩を浪人した岡野新助という者が、旧主の行列を一目見ようとして沿道に控えていたところ、外国人の無礼な振る舞いに腹を立てて犯行に及んだという、とうてい信じがたい内容で届け出ています。久光に責任が及ぶのを回避するために、突如として現れたテロリストの犯行ということにしたかったのでしょう。
横浜の外国人たちは、ヴァン・リードのように英国人一行の「自業自得」と思う人ばかりではなく、ただちに武力行使で報復すべきだと息巻いた人も多くいました。しかし、イギリスの代理公使ジョン・ニールは冷静な対応をとりました。ニールは連隊長として実戦経験のある陸軍中佐で、横浜に駐留する英軍の戦力では、久光の警固兵と戦うのに兵力不足であると判断し、外交交渉によって事件の決着を図ることにしました。その点も、個人あるいは少人数のグループによるテロとは異なっています。テロリストのグループが相手なら、人質でもとられないかぎり、一国を代表する公使が交渉しませんからね。
よろしい、ならば戦争だ!
もともと久光とは政治的に対立していた破約攘夷派は、外国人を殺傷した久光に熱烈な支持を送りました。まったくの誤解ですが「薩摩は、われわれの同志ではないか」と、勝手に思い込んでしまったのです。
幕府もまた久光の立ち位置を測りかねていました。久光は幕政改革を要求したとはいえ穏健な態度でしたし、井伊直弼の遺策である公武合体(和宮降嫁の回、参照)を支持していました。幕府にとって敵ではないと思わせておきながら、いきなり過激な事件を起こして困難な外交問題を押しつけてきたわけです。いったい久光は何を考えているのか、不審に思うというよりは、怒りを感じていました。それゆえ、幕府による英国との交渉では、幕府として賠償要求に応じるほか、別途、薩摩藩に対しても英国から賠償を求めることを了承しました。幕府みずから「全国政権ではない」ことを国際社会に向けて認めてしまいましたが、その重要性には気づいていなかったようです。
薩摩藩は英国の賠償要求を頑なに拒否し、とうとう英海軍の東洋艦隊の襲来を招くことになりました。どうやら自分の非を認めたら、イギリスから「現場の責任者=久光の身柄を差し出せ」などと要求されかねないと考えていたようです。そのような屈辱を受けるくらいなら「戦争も辞さない」という強硬姿勢を見せました。
異文明の不幸な出会い
イギリスの歴史学者アーノルド・ジョゼフ・トインビー(1889-1975)は、さまざまな文明の発展を研究してきた人で、著書『歴史の研究』のなかで、文明の興亡を追いながら、近代に於ける異文明の不幸な出会いを論じています。
帝国主義者である諸外国征服者たちが持つ別の思考は、原住民を「土着民」として分類したがる傾向がみられる。この語は、元々はその善悪の判断の出来るような内容はなかったのに、もっとも軽蔑的に連想させる意味だけが現在残っている。異質社会の構成員に対して彼ら故国の「土着民」という烙印を押すことで、支配者は土着民の政治・経済の無価値を断言しながら、土着民の人間性を否定していたのである。(中略)住民たちを単刀直入に「土着民」と名付けることで、支配者は暗黙の裡に彼らを処女地「新世界」の動植物と同一視しているのだ。(新解『トインビー著歴史の研究』Arnold Toynbee 著鈴木弥栄男訳・編 p742)
トインビーの見解に従うならば、欧米人が異文明に属する人々の自由を奪い、奴隷として強制労働させたのは、彼らを動植物と同一視していたからでした。野生馬を捕らえて農耕に使役する感覚で、異文明の人間を天然の生物資源として扱ってきたのだということです。
生麦事件を引き起こした英国人一行もまた、日本人を「動植物=通常の人権を有しないもの」と看做していたことでしょう。異教徒だから、肌の色が異なるから、言葉が違うから……というような理由からくる「人種差別」ですらありません。
対する日本人もまた、欧米人を夷狄と呼んで激しく嫌悪しました。現代の人種問題である「ヘイト」や「レイシズム」などとは次元が違う悪感情だったといえるでしょう。生麦事件は、異文明の不幸な出会いを象徴する出来事でした。
さて、今回の「なにが起きなかったか」は、生麦事件と不可分の関係にある薩英戦争の記事で纏めることとします。薩英戦争で起きたアクシデントによって「起きなかったこと」は、世界史が変わるほどの一大事です。