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2021.06.28

徳川家康との偶然の出会いが運命を変えた!「片手千人斬り」の父と息子のちょっといい話

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今回は、いつになく真面目な始まり方で。

織田信長の家臣である太田牛一が記した『信長公記』に、こんな一説がある。

「弓を取り、矢をつがえては放ち、つがえては放ち、矢数が尽きるまで散々に射尽くして、屈強の武士多数を射倒した末、勝頼のあとを追って切腹した。高名を後代に伝える、比類ない働きであった」
(太田牛一著『信長公記』より一部抜粋)

コチラは、武田勝頼(かつより)の最期の場面である。
奇しくも、織田信長が「本能寺の変」で自刃した同じ年の天正10(1582)年。信長の死の約3ヵ月前に、勝頼は切腹。織田軍の滝川一益らに包囲され、逃れることはできないと悟ったのだろう。『信長公記』には、婦人たち50人、そして武士41人が全員切腹または討ち死にを遂げたと記されている。

それにしても、壮絶な最期だったに違いない。
そんな場面で、敵方の織田軍から「高名を後代に」「比類ない働き」と称賛された男がいた。一説には「片手で千人を斬った」などと、伝説的な死に様までもがついてまわるほど。

その男の名は「土屋昌恒(つちやまさつね)」。
通称は「惣藏(そうぞう)」。この記事の冒頭の画像の武将である。

今回は、コチラの方……ではなく、その「子」が主人公。
最後まで主君である「武田勝頼」への忠義を貫いた「土屋昌恒」。
そんな男を父に持つ「平三郎(平八郎との資料もあり)」の波乱の一生についてである。

ときは戦国時代。それも、平三郎は敗れた側の人間である。
生き残ったとはいえ、その後の人生はなかなかハードで辛いもの。

そんな状況下で訪れた、ある1つの「出会い」。
これが、その後の平三郎の人生を大きく変えていくのである。

今回は、そんな「父の忠義が息子を救う」という、ちょっとイイ話をご紹介。
さてさて。彼の人生はいかに……?

※冒頭の画像は、歌川国綱(2世)筆 「天目山勝頼討死ノ圖」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)となります
※この記事は、「徳川家康」「土屋昌恒」の表記で統一して書かれています

裏切られ続けた勝頼の傍にいた土屋昌恒の伝説

「沈む泥船」。
非常に残念だが、武田勝頼は、きっと家臣たちから、そう思われていたに違いない。

いつ頃から、勝頼と家臣の不協和音は表面化したのか。
まずは、ここから話を始めていこう。

偉大なる父・武田信玄の死後。
勝頼が率いたことで、一時は、武田家も領地が最大となるほどに拡大。特に、信玄も落城させられなかった遠江高天神城(たかてんじんじょう、静岡県掛川市)の攻略に成功したことは、大きな功績といえるだろう。

ただ、無茶をし過ぎた。いや、自軍の勢力を見誤り、過信したのが原因だろうか。

最初のほころび。
それは、天正3(1575)年5月の「長篠の戦い」でやってくる。

織田信長・徳川家康連合軍相手に、武田家が誇る騎馬隊は壊滅的な状況。
そして、何より、この戦いの一番の痛手は、武田側に多数の死傷者が出たコトであろう。それも、重臣クラスが揃いも揃って。武田四天王の「馬場信房(ばばのぶふさ)」、「山県昌景(やまがたまさかげ)」、「内藤昌豊(ないとうまさとよ)」らが戦死。ちなみに、土屋昌恒の兄である「土屋昌次」も、この戦いで戦死している。

蓋を開けてみれば。
残念ながら、勝頼はここぞというところで、大敗を喫したのであった。

落合芳幾筆 「太平記英勇伝」「八」「武田勝頼」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

次第に、武田家の雲行きは怪しくなる。
焦る勝頼は、とうとう次の手へ。
信玄が築いた旧体制を一新し、新たな家臣を召し抱えるのである。一方で、天正5(1577)年には、北条氏との同盟を結び、勝頼独自の体制を構築。

しかし、結論からいえば、これもうまくいかず。
上杉謙信の死で、天正6(1578)年「御舘(おだて)の乱」が勃発。武田家は、上杉家の後継者争いに巻き込まれていく。当初は、北条氏との同盟を優先させていたが、途中で鞍替え。この結果、景勝が上杉家の家督を継承するに至り、北条氏との同盟は解消となる。

それだけではない。今度は、北条氏が徳川家康との同盟関係を選択したため、勝頼は、東西を北条氏政、徳川家康に挟まれる形に。

こうして、ついに、恐るべき事態が。
天正9(1581)年3月、徳川家康が高天神城を奪取。
事実だけ取り出せば、勝頼が高天神城を見捨てた結果に。これにより、武田家臣団の不満は一気に爆発。こぞって、泥船からの脱出を試みるのである。

確かに、忠義だけで食べていけるワケではない。自らを含め一族の将来を考えれば、寝返るという選択肢も検討せざるを得ない状況だったのだろう。天正10(1582)年正月には、重臣の木曾義昌(きそよしまさ)までもが、勝頼に見限ることに。この義昌、じつは勝頼の姉の嫁ぎ先。つまり姉婿の親族も寝返ったのである。

武田包囲網は粛々と狭まる。織田軍、徳川軍に対し、武田諸城は次々と降伏。ついに勝頼は居城を捨て、家臣の小山田信茂(おやまだのぶしげ)の勧めで岩殿山城(いわどのやまじょう、山梨県大月市)を目指すことに。

しかし、こんな場面でも。いや、逆に、終局が予想できるこんな場面だからか。まさかの小山田の寝返りにより、岩殿山城に入れず。こうして勝頼は行き場をなくし、天目山(てんもくざん、山梨県甲州市)へと向かうのであった。

歌川芳虎筆 「武田勝頼天目山陣取」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

どうにか田野の民家に入ったときには、勝頼に付き従う家臣らの数も40~50名ほどに。もとは2万5千ともいわれた武田家家臣たち。それが、敗戦を重ね、裏切りを重ね、最期の場面ではこの有様。

既に勝敗はついている。
それでも勝頼を見捨てることなく。最後まで付き従う家臣たち。
そんな忠義に篤い家臣の中に、あの「土屋昌恒」がいた。

彼の最期は壮絶だ。享年27。
昌恒とて、死ぬのは分かっていただろう。
ただ、主君が「討ち死に」するのは家臣の恥。せめて、自刃ができるようにと。昌恒は、自らの身を犠牲にして、時間稼ぎを行う。織田軍の群れにひるむことなく、鬼のように戦ったという。だからこそ、「千人斬り」という伝説も存在するのだろう。

その様子が、冒頭でご紹介した場面。
こうして、土屋昌恒は。
敵方からも、あっぱれと称賛する最期を迎えたのであった。

父の忠義は子に引き継がれる?

さて、忠義に篤い父の話はここまでにして。
その子である「平三郎」に話を戻そう。

生まれは、天正6(1578)年というのだから、土屋昌恒が自刃した際は、若干5歳(数え)。一説には、勝頼に忠義を示すため、昌恒自ら我が子に手をかけたという話もあるようだが、どうやら事実ではなさそうだ。そんな幼き平三郎を連れ、昌恒の妻は甲斐国(山梨県)を脱出。そうして辿り着いたのが、意外にも駿河国(静岡県)にある曹洞宗の寺であった。

昌恒の妻とされるのは、今川氏の重臣、岡部忠兵衛貞綱(さだつな)の娘。この岡部貞綱、今川氏が敗れたのちは武田氏に仕え、土屋姓を与えられたとか。「土屋貞綱」と名乗り、武田水軍を任されて活躍した武将である。

じつは、この武田水軍の本拠地が、駿河国の「清水」。
つまり、昌恒の妻は、父と馴染み深いこの地を選んだというワケだ。なかでも、今泉にある曹洞宗の寺、楞厳院(りょうごんいん)は、岡部家、そして土屋家の菩提寺。母子はこの寺を頼って、遠路はるばる逃げてきたのである。

こうして、無事に逃げ込んだのち。
平三郎の将来を思えば、養育するには本格的な修行が行える場所が望ましい。そんな思いもあったのだろうか。平三郎は、臨済宗の古刹である「清見寺」へと居を移すことに。

この「清見寺」こそが、彼の人生の転機となる場所。
いずれ天下を取るあの御仁。
そう。のちの天下人「徳川家康」との対面を、引き寄せるのであった。

月岡芳年 「本朝智仁英勇鑑」「一」「徳川内大臣家康公」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

じつは、資料によって、彼らの出会い方は微妙に違う。
時期は、天正16(1588)年9月(明確に書かれていない資料もある)。
単純計算して、平三郎11歳(数え)の頃であろう。

『寛政重修諸家譜』であれば、家康が鷹狩りのついでに「清見寺」へ立ち寄ったことになっている。一方、『徳川実紀』の『東照宮御実紀附録』では、手紙を書くために紙と硯を借りに寺へ寄ったという設定だ。

どちらにしろ、清見寺へ寄った家康に対応したのが、この「平三郎」であった。
お茶を出したのか。それとも、紙と硯を持ってきたのか。
彼の一挙手一投足。その立ち居振る舞いに、目をみはる家康。

こ、これは……? ふむ。感心感心。
家康は、つい住職に声をかけたのだとか。

「何ものゝ子ぞ」

キターーーーーー!
これぞ、人生のターニングポイント。
まさに、シンデレラが落とした靴を、王子が拾ったときの、あの臨場感。
そうだ。ようやく訪れるのだ。
ナニモノにも代えられないプライスレスな「父の忠義」が、やっと日の目をみるのである

こうなれば、答える住職も、恐らく心臓バクバク。
「つ、土屋……昌恒の遺児なり」

その名前に、ピッピーンときた家康。
土屋……昌恒?
確か、沈みゆく船から決して降りることなく。最期まで武田勝頼に付き従った忠臣。なんといっても、武田家の重臣クラスでは、この昌恒のみが残っていたと聞く。紛れもなく、目の前の子は、その忠臣の遺児だというのか。

「忠臣の子は忠臣になる」
ひょっとして。これは、いわば呪縛のような、家康の強い願望だったのかもしれない。それでも、家康に迷いはなかった。清見寺から即座に平三郎を引き取り、のちに徳川2代将軍となる「秀忠」の近習にしたのである。

こうして、「平三郎」はいつしか。
「徳川秀忠」の「忠」の一字をもらい、「忠直(ただなお)」と名乗ることに。

地道な努力を怠らず。ただひたすら忠義を尽くした結果。
慶長7(1602)年。上総久留里藩(千葉県君津市)2万石の大名となるのであった。

最後に。
その後の土屋家について。
途中で改易などのアクシデントはあるものの。じつに、江戸幕府の「老中」を何人も輩出する系統となっていく。それもこれも、全ては忠臣とうたわれた「土屋昌恒」がいたからこそ。

こうなると。人生、何が起こるか、ホントに分からない。
よく「一寸先は闇」というが。人との出会いで「闇」が「光」に変わる可能性だって十分にある。

ただ、一言いわせてもらえれば。
家康と平三郎の出会いは、どこかしら既視感が漂う気がしないでもない。
ほら、アレ。
実話ではないとされている「豊臣秀吉と石田三成の出会い」(諸説あり)。

確か、あの話も。秀吉が、お茶を入れに来た小坊主の先見性を気に入って……だったはず。なんだか、今回の出会いもそうだが。行き当たりばったり的な偶然ではなく「運命」を彷彿とさせるシュチュエーション。

そう考えれば。
導き出す結論は1つ。

どのような状況に置かれても、絶対に腐らないコト。
とにかくベストを尽くす。
やれることをやる。

何しろ、人生を変えるような「運命の出会い」は、突然訪れるかもしれないのだから。

参考文献
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『徳川四天王』東由士編 株式会社英和出版社 2014年7月
『戦国武将を育てた禅僧たち』 小和田哲男著 株式会社新潮社 2007年12月
『現代語訳徳川実紀 家康公伝3』 大石学ら編 株式会社吉川弘文館 2011年6月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。

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