「『ひけ』…と言われましても」
確かに、そうである。
道端に、かくかくしかじかと罪が書かれて。コイツはこんな悪事を働きましたぜと、分かっても。だからって、皆で成敗してやるとはならないだろう。万が一、百歩譲って。仮にそうなったとしても、相手の首を鋸(のこぎり)で切るという行為は、そう簡単にできるものではない。
だから、なのだろう。
江戸時代において、「鋸挽(のこぎりびき、鋸引)の刑」は一種の晒(さらし)刑的な意味合いが強かったという。土の中に埋めた箱に罪人を入れ、首だけを地上へと出させる。そして、隣には竹鋸と大鋸を置いておくというワケなのだが。まさしく、冒頭の画像の通り。
もちろん、これでは終わらず。
この先には、真の「死刑」が待っている。というのも、最期は、刑場で「磔(はりつけ)」に処せられるからだ。つまり、鋸挽の刑にて世間に晒され、引廻しがなされるのも、それは「死」への段階の1つに過ぎないのである。
ただ、これは江戸時代の話。
戦国時代などは、実際に竹鋸を通行人に挽かせて、ギーコギーコとやっていたというではないか。
大体、竹鋸では簡単に死にきれないし、死ぬまでに相当な日数が必要となる。いや、違う。逆の発想か。簡単には殺してやるまいと思うから、このような残虐な方法になるのだろう。それにしても、少しでも苦痛を長引かせてやろう的な発想には恐れ入る。
さて、今回は、この恐ろしい「鋸挽の刑」のお話。
もう既に、ある程度、今後の展開を予想されている方も多いかもしれない。
そんな血生臭い処刑法を行うなんて。絶対に、あの人に決まっているという、そんな予感。
そう、後世でも残虐なイメージが一向にぬぐえない第六天魔王。
「織田信長」である。
確かに、織田信長も行った。
自身を狙撃しようとした「善住坊(ぜんじゅうぼう、杉谷善住坊とも)」を鋸挽の刑に処したのは有名な話。
しかし、今回取り上げるのは、全く予想外のコチラのお方。
専ら慈悲深いと評判の……。
江戸幕府の礎を築いた「徳川家康」である。
むむ。
一体、どうして。
そんな疑問を是非とも解消して頂きたいというのが、今回の企画。
誰が、何をしたというのか。
そして、徳川家康は、どうして「鋸挽の刑」に処したのか。
それでは、早速、ご紹介していこう。
▼鋸挽に関する詳しい記事はこちら
残酷すぎて誰も執行したがらない刑罰「鋸挽」その恐ろしい処刑方法とは
やり過ぎ家康。まさかの本多重次に怒られる?
徳川家康が、どうして「慈悲深い」男だと思われたのか。
それはひとえに、滅亡した武田家に対する行動が、織田信長と違ったからだろう。
武田信玄亡きあと、名将揃いの家臣団を率いたのは「武田勝頼(かつより)」。
しかし、残念ながら「長篠の戦い」で多くの戦死者を出し、その勢いは一気に衰える。その後は武運にも見放され、ついに天正10(1582)年3月に自刃。
武田家滅亡後、織田軍は残党狩りを決行。
一方で、徳川軍はというと。その反対に、多くの武田家遺臣を召し抱えた。
徳川四天王の1人である「井伊直政(いいなおまさ)」。
彼の隊は赤色が映えて、遠目からでも良く目立つ。この有名な「赤備え(あかそなえ)」は、かつて武田二十四将の1人といわれた「山県昌景(やまがたまさかげ)」の「赤備え」と同じ。家康は、彼に属していた多くの遺臣を井伊直政につけ、備えも全て赤色にしたという。
それだけではない。
武田家滅亡後に、織田軍は武田家代々の菩提寺である「恵林寺(えりんじ、山梨県甲州市)」さえも焼き払う。無残に焼かれてしまった寺を再建させたのも、徳川家康その人である。何なら歴代の位牌を据え置き、その費用まで用意したというのだから、その慈しみは半端ない。
だからなのか。
「神君」と呼ばれる徳川家康を、人は憐み深いと思うのだろう。
けれど、それは本当かと突き詰めれば。
じつは、そうでもない。
なにせ、戦乱の世を駆け抜けて、天下人となった男である。慈悲深いだけでは、難局を切り抜けることなど、到底できない。それに、彼だって人の子。聖人君主とは程遠い言動もしばしば。
そんな一面が垣間見える出来事が『徳川実紀』に記されている。
その一部をご紹介しよう。
ちょうど、家康が甲斐国(山梨県)の府中に入ったときのこと。
甲斐国は、かつて武田信玄が治めていた地域。そこには、彼が残したモノが多くあったという。
そのうちの1つがコチラ。大釜である。
一体、何に使うかというと。
段々、グロい記事になって申し訳ないのだが。
ストレートにいえば、人を茹でるため。
じつに、武田信玄は、甲州の大罪人を大釜で茹で殺したというのである。想像するだけで、頭がクラクラとなりそうな絵面なのだが。そんな「人茹で大釜」がたくさんあった現場を見て。家康は、一言。
「『駿河・遠江・三河に一つずつ移せ』と命じられた」
(大石学ら編『現代語訳徳川実紀 家康公伝3』より一部抜粋)
えっ?
捨てるんじゃなくて、使うの?
めっちゃ、家康、人茹でる気満々やん。
このとき、もちろん、熱き心を持つ「鬼作左(おにさくざ)」こと本多重次(ほんだしげつ)は大激怒。主君の家康に対して、ズバリと諫言。
「『殿(家康)の御心は天魔と入れ替わってしまいましたか。かの入道(信玄)の暴政をよしとお思いになり、無用のものを多額の費用をもって移させるなど理解できません』と、その釜を全て打ち砕いて水中に捨てた」
(同上より一部抜粋)
この剣幕に、家康も大笑い。
いつもの鬼作左だと、納得したという。
結果的には、家臣が水中に捨てたというオチなのだが。家康の考えでは、大釜も全くナシというワケではなかったようだ。時に残酷にもなれるタヌキ親父というところだろうか。
大賀弥四郎の重すぎる罪とは?
ここまで、徳川家康の残虐な一面を見てきたが。
準備運動はここまでにして。ボチボチ本題に入ろう。
家康は、ある男に、冒頭でご紹介した「鋸挽の刑」を処している。
その人物とは、「大賀弥四郎(おおがやしろう)」。
一体、何者かというと。
彼は、徳川家の家臣である。最初は、「中間(ちゅうげん)」という身分。中間とは、武家奉公人のうち、侍と小者の間にある者を指す。つまり、生まれは、そこまで身分が高いワケではなかったようだ。
しかし、彼は恵まれていた。生まれ持った能力が非常に高かったのである。農村のことに通じ、計算も得意。そして、何より非常に気が利く男だったとか。ならばと、会計・租税に関する役職を任せれば、なかなか器用に物事をこなす。こうして、大賀弥四郎は次第に登用され、気付けば三河奥郡二十余ヶ村の代官へ。
それだけではない。家康と、その嫡男である「信康(のぶやす)」の御用も勤めることになったのである。
これで性格が良ければ、出世するちょっとイイ話で終わるのだが。なんせ、彼を端的に表現するならば。「仕事はできるが悪い奴」なワケで。加えて、大賀弥四郎がいなければ何事もうまくいかないと。そんな環境が、彼のダークサイドを増長させていく。
権力を持つにつれ、態度も尊大に。いつの間にやら、驕り高ぶる大賀弥四郎。しまいには、戦功にさえ口を挟み、自分の意にそぐわない者を取り立てないこともあったとか。
これに腹を立てたのが、近藤某という者。
戦功をあげ、恩賞の土地を賜ることになるのだが。この時に、弥四郎は、いつもの調子でいらん一言を言い放つ。
「全ては、私が取り成したお陰」
この言い草に、近藤は激怒。だったら、新恩の土地などいらぬと。なんなら、受け取れば「武士としての汚名」とまで言い切った挙句、老臣に切腹覚悟で返上を申し入れたのである。
結果論ではあるが。ここから弥四郎の人生に綻びが出始める。
困った老臣は、とうとう一連の出来事を家康の耳に入れることを決意。
そこから、事態は急転直下。
家康は早速、近藤を召して事情を問うと。なんと、大賀弥四郎の悪事が、まあ、出るわ出るわ。これは聞き捨てならないと、弥四郎を捕えて、その家財を没収する始末。
すると、まさかの予想外の展開に。
じつは、家財没収の際に、ある1通の書状が発見される。
その書状の相手とは……甲斐国。
徳川側からすれば、敵国。
つまり、大賀弥四郎は、甲斐国の武田側と密通していたのである。
その驚くべき内容が、コチラ。
「このたび弥四郎の親友・小谷甚左衛門、倉地平左衛門、山田八蔵などが、弥四郎と一味同心して(武田)勝頼の出馬を勧め、勝頼が設楽郡築手まで進軍して先鋒を岡崎まで進めれば、弥四郎が(勝頼勢を)徳川殿と偽り岡崎城の門を開けさせ、勝頼勢を城に引き入れて三郎殿(嫡男の信康)を殺害し、その上で城中に籠っている三河・遠江両国の人質を奪えば、三河・遠江の者たちはみな味方になるはずだ。そうなれば、徳川殿も浜松から尾張か伊勢へ立ち退くだろう。これにより、勝頼は戦わずして三河・遠江を手に入れることができる」
(同上より一部抜粋)
残念ながら。古今東西、大抵の悪事はバレる。このうち、弥四郎側にいた山田八蔵が寝返って徳川側に報告。その結果、彼らの企てた謀反が露見することに。
蓋を開ければ。
じつに、大賀弥四郎は、ただの小悪党ではなかった。家康を心底脅かすほどの大きな悪事に、率先して手を染めていたのである。
これには、さすがの家康も怒り心頭。
どれほどの怒りかというと。そのキレ具合は、家康が命じた刑罰から自ずと透けて見える。
まず、手を下したのが、弥四郎の妻子5人。
家康は、無情にも彼ら5人を「磔」に。
そして、当の本人である弥四郎はというと。
浜松城下を引き廻し。それも、念入りに、馬の尻の方に顔を向けて鞍に縛りつけたという。しかし、まだまだ、こんなモノでは家康の怒りは収まらず。弥四郎にとって一番大切であろう妻子。現代の感覚からいえば悪趣味だが、その妻子の最期、つまり、磔の様子を弥四郎に見せたのである。
その上で。
弥四郎を岡崎町口に生き埋めにして。
竹の鋸で往来する者に首を挽かせたのである。つまり、ギーコギーコというヤツである。
もちろん、大賀弥四郎はすぐには死なず。
苦しみながら、ようやく7日後に死んだという。
そもそも、江戸時代でも、「鋸挽の刑」は主殺しという大罪を犯した場合の刑罰だとか。戦国時代では、さらに物理的に鋸で挽くワケだから、罪人からすれば、まさにそれこそ生き地獄。本当に辛い苦しい最期だったに違いない。「裏切り」の代償は、いつの時代でも大き過ぎるということか。
最後に。
今回は内容が内容だけに。ラストは、あっさりと締めたい。
そろそろ、暑い時期になってきた。
やはり、暑くなれば、ひんやりと冷たくなるモノが欲しいワケで。ならば、今年の夏は、この世ならざる者たちの話でも書こうかと思っていたのだが。
この記事を書いて、思い直す。
幽霊よりも何よりも。一番恐ろしいのは、「人間」だ。
処刑法1つ取ってみても、そのイマジネーションの凄さに驚かされる。
やはり、人間は恐ろしい。
生きている人間。そして、絶大なる権力を持つ人間。
せめて、自分だけは。
そんなふうにはなりたくない。
参考文献
『現代語訳徳川実紀 家康公伝3』 大石学ら編 株式会社吉川弘文館 2011年6月
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『戦国武将に学ぶ究極のマネジメント』 二木謙一著 中央公論新社 2019年2月
『徳川四天王』東由士編 株式会社英和出版社 2014年7月