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2021.10.28

謹慎中の徳川斉昭登場!「戦艦製造は急務」…いや、そんなこといわれてもなぁ。——幕末維新クロニクル1846年10月

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日本が大きく変わった幕末。その時一体何が起きたのかを時系列で探る「幕末維新クロニクル」シリーズ。今回はついに幕府が「戦艦」の必要性に言及。けれどもそこには重大な問題が——。

前回までのクロニクルはこちらからどうぞ。


オランダ国書を見た黄門さま——1846年3月
琉球にイギリス船、フランス艦、あいついで来る。——1846年4月
戦列艦、突如として浦賀にあらわる!そして琉球に居座り続けるフランス艦隊——1846年6月
度重なる外国船来航、孝明天皇の耳に達す。その時下した「勅」とは——幕末維新クロニクル1846年8月

サムネイル画像は「ヲロシヤ舩渡来一件」より「ヲロシヤ国人の図」(国立国会図書館デジタルコレクションより)

弘化3年

お町お奉行、遠山左衛門尉さま御出座。肌脱ぎしたりはしませんが、堂々の登場であります。そして、マナー講師も楽じゃないようで……

9月(大の月)

朔日(1846年10月20日)

三河吉田藩主大河内信璋「健之丞・後伊豆守」・伊予亀山藩主石川総和「日向守」・掛川藩主太田資功「摂津守」参府ニ依リ、各登営ス。

2日

水戸藩士高橋多一郎「愛請」 前藩主徳川斉昭「前権中納言」ノ近状ヲ幕府老女三保山ニ訴ヘ、切ニ謹慎宥赦ノ周旋ヲ託ス。

 御老公様の謹慎を解いて欲しいという、水戸藩士の高橋多一郎。「近状ヲ幕府老女三保山ニ訴ヘ」とのことですが、極めて御活溌で精力的に海防意見など示しておられますし、病とは縁遠いようにお見受けしますけどね。

4日

下野国「都賀郡」稲荷大明神ニ正一位ヲ授ク。

 稲荷大明神とは、まごうかたなき神様です。その神様に「正一位」という位階を授けるのは、天皇さまであります。なおニンゲンの分際で正一位を授かった例もあるにはありますが、ほとんどは没後の叙位でした。基本的に、元気に生きて活躍している人には授からない特別な位階です。

5日

鹿児島藩主島津斉興「大隅守」外患ヲ醍醐理性院ニ禳ヒ、護符ヲ琉球臨海寺ニ納メシム。

 理性院(りしょういん)は、醍醐(現・京都市伏見区)にある真言宗醍醐派別格本山で、御本尊として大元帥明王(国家を守護する密教の守護神)を奉安しています。その御札を琉球の寺院に納めたキモチは、云わずともわかります。

7日

学習所工事竣工ニ依リ、所司代酒井忠義「若狭守・後修理大夫・小浜藩主」等十数人ノ労ヲ賞シ、物ヲ賜フ。

 かねて再興を計画していた朝廷の高等教育機関の学習所の建物が竣工(閏5月28日)した件で、関係者に御褒美がくだされました。ハコが出来ても書庫を充実させないと教育機関としては成り立ちません。まだまだ先は長いです。

川越藩、幕府ノ命ニ依リ、相模沿海警備ノ兵数武器ヲ録上ス。

 川越藩は幕府の命令に従って、相模(現・神奈川県)沿海警備の兵数と武器について員数を報告しました。

10日

幕府、特ニ前長崎代官高木作右衛門ノ子健三郎ニ家督ヲ命ジ、其職ヲ継ガシム。

 先代の(第11代長崎代官)作右衛門忠篤は、さる7月25日に高島秋帆が中追放された件に連座して、8月23日に罷免されています。長崎代官は世襲代官で、作右衛門という通称も受け継がれますが、どうやら健三郎は名を継がなかったようです。長崎奉行が交替したり江戸にいるまま遙任したりするのに対し、長崎代官は長崎に常駐しています。貿易拠点を支配する重要な役目なので、御家断絶には至らなかったのかと思われます。

11日

前水戸藩主徳川斉昭、老中阿部正弘「伊勢守・福山藩主」ニ海防書類ノ借覧ヲ求メ、又製艦・防備等ノ幕議決定ヲ促ス。是日、正弘、書類ノ貸与ヲ諾シ、製艦ノ事ハ急ニ決シ難キヲ答フ。

 とても謹慎中とは思えない水戸の御老公が、今度は老中阿部正弘に「海防書類」の貸し出しを求め、早く軍艦の建造計画を策定しろと詰め寄りました。「書類の貸し出しは構いませんが、軍艦の建造を急には決められませんから」という返事が即答でかえってきたとのことです。

12日

鹿児島藩主島津斉興、本年閏五月仏国軍艦琉球来泊ノ状ヲ幕府ニ報ズ。

 薩摩藩は、閏5月以来の琉球へのフランス艦隊来航について、幕府に報告しました。人が書状を携えて連絡するほかなかった通信事情を鑑みると、かなり迅速な対応です。

15日

石清水放生会

 現在は「石清水祭」として、例年9月15日に催行されています。長い歴史のなかで何度かの中断があり、いままた再興されています。

秋月藩主黒田長元「甲斐守」 参府ニ依リ、登営ス。

16日

神宮奉幣使藤波教忠「神祇大副」 豊受大神宮ニ奉幣シ、明日、同ジク皇大神宮ニ奉幣ス。

 豊受大神宮、皇大神宮は、伊勢神宮の外宮と内宮です。奉幣(ほうべい、ほうへい)は、天皇の使者が神社・山陵などに幣帛を奉献することをいい、この使者が奉幣使です。神宮奉幣使は、伊勢神宮への使者のことです。

19日

浦賀奉行支配組与力中島清司、川越藩ノ問ニ対シ、戦艦製造ノ急務ヲ答フ。

 いやいや「戦艦製造ノ急務」といったって、まずは幕府が正式に大船建造の禁を解かないと。もちろん浦賀奉行所の与力ごときに幕法に背いての大船建造を目こぼしできる権限なんてありません。少しでも幕法に沿わないことがあれば、牢屋行きは間違いなしですからね。高島秋帆を投獄したのは、つい最近のことですし、みんなシッカリ覚えてますよ? ちなみに中島清司には三郎助という名の息子がいます。

20日

高知藩主山内豊煕「土佐守」 領海防備ノ為銃砲ヲ鋳ル。

 高知藩=土佐藩の殿様は第13代の豊煕(とよてる)で、西洋砲術を導入するなどして文武を奨励した人でした。

21日

宍戸藩主松平頼位「主税頭」 病ニ因リテ退隠シ、嫡子頼徳「彜若・後大炊頭」 後ヲ承ク。

 常陸宍戸藩は、かつて水戸光圀が弟に1万石を分与して新規立藩させて成立したので、水戸徳川家とは縁が深いです。まして第8代藩主の頼位(よりたか)は、水戸家の徳川斉昭の大叔父にあたります。跡を継いだのは頼徳(よりのり)でした。

22日

踐祚奉賀ノ為幕府進献スル所ノ金品ヲ、廷臣ニ頒賜ス。

 幕府から朝廷に献上された、践祚のお祝いを廷臣たちに分配したとのことです。こうした品々、公家社会では贈答品として使い回されたようで、ことに干鯛なんかは消費されることなく延々と使い回されたみたいです。なにせ「腐っても鯛」というくらいですしね。

23日

高崎藩主大河内輝充「右京亮」 病ニ因リテ退隠シ、養子輝聴「恭三郎・後右京亮・前大多喜藩主大河内正敬男」 封ヲ襲グ。

 新たに高崎藩主となったのは大河内輝聴(てるとし)という人です。大河内家は、徳川一門の長沢松平家の養子となってから松平を名乗っていましたが、なにせ松平は数が多いので大河内のままとします。

幕府、大目付酒井忠誨「安房守」ヲ小姓組番頭ニ補ス。

 ここでいう「小姓組」は軍制組織で、将軍の身の回りを世話する小姓ではありません。将軍の馬廻衆(親衛隊)として格式ある存在でした。

25日

幕府、釈奠ヲ大成殿「江戸・湯島」ニ行フ。

 4月13日に春の釈奠が行われ、今度のは秋の釈奠です。年2回でした。釈奠(せきてん)については4月13日の項で解説しています。

大多喜藩主大河内正和「備中守」 就封ニ依リ、禁裏附内藤忠明「安房守」 赴任ニ依リ、各登営ス。

26日

鹿児島藩主島津斉興、仏国軍艦琉球来泊ノ状ヲ長崎奉行ニ報ズ。

 さる12日に薩摩藩から幕府へ報告した「仏国軍艦琉球来泊ノ状」を、長崎奉行にも報せました。このとき薩摩の殿様の斉興は江戸にいますから、琉球からの通報を江戸で受け取り、それを長崎に伝えているので、14日間のタイムラグが生じています。けっこう早いですよ、ふつう江戸と京との間で14日くらいかかりますから。

27日

醍醐三宝院門主准三宮高演「醍醐寺座主・大僧正」 退隠シテ得自在院ト称ス。

 醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山で、豊臣秀吉が醍醐寺三宝院裏の山麓で「醍醐の花見」を開催しました。准三宮とは、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた人のことです。

28日

鹿児島藩主島津斉興、世子斉彬「修理大夫」ノ在藩中ニ海防及琉球処置ヲ決セン為、明春帰藩センコトヲ幕府ニ稟ス。

 薩摩藩の殿様は、世子の斉彬が特例によって帰国している間に、海防のことや琉球の問題をどう処置するか決めてしまいたいので、明春、帰国させて欲しいと幕府に申し入れました。

琉球在番奉行倉山作太夫「久寿」・使番新納四郎右衛門「久仰」等、那覇「琉球」ニ著ス。

 さる閏5月14日、山川港に待機させておいた倉山作太夫らが那覇に着きました。

29日

新清和院「欣子内親王・光格天皇中宮」百箇日法会ヲ般舟三昧院及泉涌寺ニ修ス。三十日亦同ジ。

 この時期、皇室の法事は仏式です。神式なら百日祭と呼びます。

鹿児島藩世子島津斉彬、琉球外警ノ状ヲ前水戸藩主徳川斉昭ニ報ズ。

 鹿児島藩=薩摩藩の世子、島津斉彬が水戸の御隠居さまへ、琉球警備の状況を伝えました。

是月

諒闇ニ因リ、玄猪ノ儀ヲ停ム。

 冬を迎える「玄猪ノ儀」とは火鉢やコタツにシーズン初の炭火を入れる儀式です。旧暦の10月は亥の月にあたり、五行思想で亥は水の運気を持つとされ、火災予防の願いを込めて行われた宮中行事ですが、喪中につき中止となりました。西日本で、ウリボウに似せてつくった亥の子餅を食べる「亥の子祭」の起源は玄猪ノ儀ではないかと思われます。

福岡藩主黒田斉溥「後長溥・美濃守」・佐賀藩主鍋島斉正「肥前守」 長崎警備方略ヲ幕府ニ建言シ、砲台増設ノ必要ヲ陳ズ。

 幕府の長崎奉行には軍勢が与えられていなかったので、長崎の警備は福岡藩と佐賀藩とが交代で担当していました。文化5 (1808) 年8月の英国軍艦長崎侵入(フェートン号事件)では、幕府の長崎奉行が切腹したほか佐賀藩士2名が切腹10名が家禄没収となった先例があって、福岡・佐賀両藩の殿様にとっては、何処ぞの御隠居さまの海防意見とは違い、長崎の砲台増設は切実な問題なのであります。

琉球滞留外国人等、監視ノ煩累及物価ノ不同ヲ訴フ。在番奉行、琉球吏員ヲ令シテ、其取締ヲ厳正ナラシム。

 琉球滞留外国人というと、英国籍の医師でハンガリー生まれのユダヤ人なんだけど改宗してプロテスタントの宣教師だという複雑な背景を持ったベッテルハイムと、閏5月24日にフランス艦隊が置いていったカトリックの宣教師チュルヂュのことですね。監視がキツイというのはともかくとして「物価ノ不同」は、市中の価格と琉球の役人から請求される代金とが違いすぎるという意味でしょうか? だとすると、監視の役人を連れながら市場へ出掛けているのでしょうね。

10月(小の月)

朔日(1846年11月19日)

京都町奉行田村顕影「伊予守」・番医数原玄長、参府ニ依リ、各登営ス。

 田村顕影は陸奥国一関藩田村家の分家にあたる旗本で、天保9年(1838年)に禁裏付に任じられて京へ上り、天保13年(1842年)に京都町奉行になりました。数原玄長は知らない人です。登城した記録が残されるくらいの人ではありますが、特筆されるべき何事かを見つけることはできませんでした。

3日

幕府、所司代酒井忠義「若狭守・後修理大夫・小浜藩主」ヲ以テ浦賀・琉球・長崎ニ外国軍艦来航ノ状ヲ奏聞ス。

 京都駐在の所司代が、浦賀や琉球や長崎にあいついで外国軍艦が来航している状況を、朝廷に報告しました。天皇は幕府に「大政委任」しておりますが、内政にとどまらず外交権まで委任されているかどうかは曖昧でした。報告しているということは、幕府としても「朝廷は関係ない」とは思っていないようですね。

琉球在番奉行倉山作太夫「久寿」琉球中山府摂政浦添王子「尚元魯」・三司官国吉親方「向良弼」ヲ招キ、仏国人ノ要求拒絶シ難キニ於テハ通商ヲ允許スベキヲ内示ス。

 薩摩藩の琉球在番奉行は、琉球中山府に対し、「フランスの要求を拒絶しきれなかったら、通商を許可しちゃっても良いのでは?」ということを内示しました。幕法が及ばない琉球王国とはいえ、それを幕府が見過ごすかどうかが問題です。さる6月5日に老中の阿部正弘が「琉球交易は公許し難きも、遠隔の地に在るを以て臨機の処置特に之を一任すべき」と、玉虫色のことを言ってますけど、いざとなれば「公許し難き」と言ったじゃないかって、責任逃れする気でしょうしねぇ。

4日

久保田藩主佐竹義厚「右京大夫」卒ス「9月8日」是日、嫡子義睦「次郎・後右京大夫」家督ヲ承ク。

 久保田藩=秋田藩の殿様が死亡、嫡男が相続したとのことです。義厚は享年35、まだ若いのになぁ。跡を継いだ義睦は天保10年5月22日(1839年7月2日)生まれ、満年齢だと7歳ですから幼君ですね。

5日

官庫ノ書籍ヲ学習所ニ下附ス。関白鷹司政通「太政大臣」以下公卿・堂上、亦蔵書ヲ献ズ。

 朝廷の高等教育機関たる学習所は、すでに建物がさる閏5月28日に竣工しております。あとは中味ということで、さる6月9日に教授陣の人選がなされ、今度は書籍が入りました。

宇和島藩主伊達宗城「遠江守」書ヲ前水戸藩主徳川斉昭「前権中納言」ニ復シテ、幕府ノ琉球処置ヲ批評ス。

 宇和島の殿様が、水戸の御老公様に返書したなかで、幕府の琉球処置を批評したのだそうですが、謹慎中の人と通信するのはどうかと思います。ちっとも謹んでませんものねぇ。

6日

幕府、前水戸藩主徳川斉昭ノ請ニ依リ、藩地ニ於テ大砲鋳造ヲ聴ス。

 新しいオモチャを与えれば、しばらく温和しくしているだろうということでしょうか?

川越藩主松平斉典「大和守」老中阿部正弘「伊勢守・福山藩主」ヲ訪ヒ、内海防備ノ要務ヲ議ス。

 思えば内海防備って、外洋で外国軍艦を阻止できないという前提で論じられるものですよね。諸藩に沿海の防備を命じておきながら、幕府みずからは海軍を建設しようとはしていないわけでして、江戸湾に侵入されたら「諸藩の防備が手緩いから」っていわれたんじゃ、かないませんからねぇ。

12日

久留米藩主有馬頼永「筑後守・贈従三位」卒ス「7月3日」是日、養子慶頼「孝五郎・後頼咸・中務大輔・前藩主頼徳男」封ヲ襲グ。

 なくなった久留米の殿様は頼永(よりとお)で、享年25でした。跡を継いだのは異母弟の慶頼(よしより)20歳です。

13日

関白鷹司政通ノ多年在職ノ功ヲ賞シ、物ヲ賜フ。

 鷹司政通は、先代の仁孝天皇さまの御代から留任の関白です。寛政元年7月2日(1789年8月22日)生まれですから、満年齢だと57歳ですね。関白は5年くらいで席を譲る習わしでしたが、この人は文政6年(1823)から20年以上も留任し続けています。

先朝奉仕ノ女官十二人ニ薙髪ヲ命ジ、終身秩米ヲ給ス。

 仁孝天皇に仕えていた女官12人に薙髪が命ぜられました。崩御あそばされたのは正月26日で、大喪が発せられたのが2月6日でした。なぜ、このタイミングなのかはわかりません。

是ヨリ先、輪王寺門主入道公紹親王「影信・有栖川宮韶仁親王王子」病ミ、大覚寺門主入道慈性親王「明道・有栖川宮韶仁親王王子」ヲ以テ附弟ト為ス。是日、公紹親王、退隠シ、慈性親王、後ヲ承ク。

 附弟とは法統を受け継ぐ弟子のことで、武家でいう世継ぎにあたります。公紹親王は有栖川宮第7代の韶仁(つなひと)親王の子で、附弟として跡を継いだ慈性親王は血統のうえでも実弟です。

14日

勅使徳大寺実堅「権大納言・武家伝奏」・同坊城俊明「前権大納言・武家伝奏」東下ス。議奏広橋光成「権大納言」・同橋本実久「権大納言」伝奏ノ事ヲ執ル。尋デ、議奏三条実万「権大納言」実久ニ代ル。

 さる4月28日に幕府から践祚奉賀の使者が来たので、その返礼の勅使でしょう。幕府に対する勅使には武家伝奏が任じられるのが常で、その不在の間に代役を務める人を決めたということです。武家伝奏は、武家(幕府)の奏請を朝廷に取り次ぐ重要な役職で、学識ある弁舌巧みな公卿から選任されました。

19日

前輪王寺門主入道公紹親王「普賢行院宮」薨ズ。是日、喪ヲ発ス。

 仏教界も「次代につなぐ」ことは大事です。公紹親王さまは、跡継ぎを決めて退隠なさって6日後に薨去が発表されました。実際には9月晦日に亡くなっていたとする史料があります。武家でいうところの末期養子みたいに、危篤状態であれ息がある間に跡目を定めたことにした模様です。

20日

富山藩主前田利保「出雲守」病ニ因リ退隠シ、嫡子利友「啓之助・後出雲守」封ヲ承ク。

 加賀藩前田家の分家筋にあたる富山藩の殿様は、このあと長い隠居生活をしていますから、このケースは実子への順当な相続です。しかし、それで丸く収まるとも限らないのが家督相続の難しいところであります。

22日

鹿児島藩主島津斉興「大隅守」仏国軍艦琉球来航ノ状ヲ幕府ニ報ズ。

 薩摩藩の殿様から幕府へ、琉球でのフランス軍艦来航の状況について報告がありました。かねて明春の帰国を願い出ていましたが、まだ江戸にいます。

23日

幕府、奏者番青山幸哉「大膳亮・八幡藩主」ノ願ニ依リ、寺社奉行兼務ヲ免ズ。

 寺社奉行は、勘定奉行と町奉行とともに三奉行とも称されますが、寺社奉行には1万石以上の譜代大名が奏者番と兼任で就任するならわしでした。庶民の戸籍にあたる宗門人別改帳の管理責任を負う重職であり、しばしば藩や代官支配地の領域を跨ぐ事柄にも対処せねばならず、なかなか難しい役柄でした。

24日

准三宮鷹司祺子「仁孝天皇女御・政煕女」立太后ノ期ヲ明年三月ト定ム。

 仁孝天皇の女御だった鷹司祺子(やすこ)は先代の嫡妻で、かつまた孝明天皇を養子としていたので新帝の嫡母にあたらせられます。ゆえに皇太后となる立場であり、明年3月を立太后の期と定めました。

25日

鹿児島藩世子島津斉彬「修理大夫」領内沿海要地ヲ巡見シ、是日、鹿児島ニ帰ル。尋デ、状ヲ幕府ニ報ズ。

 鹿児島藩=薩摩藩の世子、島津斉彬が領内沿海の要地を巡見して鹿児島に帰ったとのことです。あとから幕府に報告されています。

26日

勅使徳大寺実堅・同坊城俊明、江戸ニ著ス。

 さる10月14日に江戸行きを命ぜられた勅使が、この日、江戸に到着しました。

幕府、京都町奉行田村顕影ノ大葬及新清和院「欣子内親王・光格天皇中宮」葬送ノ事ニ与カリシ勤労ヲ賞ス。

 仁孝天皇の大喪の礼に関わったことで、賞された田村顕影ですが、大任を果たした御褒美として、このあと栄転するでしょう。

27日

前輪王寺門主入道公紹親王ノ訃、京ニ到ル。廃朝三日。

 公紹親王の訃報が伝わって、朝廷では廃朝三日が仰せ出されました。清涼殿の御簾を垂れ、音奏、警蹕が停止されます。音奏、警蹕はクロニクル001の弘化3年3月27日の項で説明しています。

27日

幕府、町奉行遠山景元「左衛門尉」等ノ水災救助ニ膺リシ労ヲ賞ス。

 かつて北町奉行だった遠山景元の通称は金四郎で、あの遠山の金さんのモデルです。この時期には南町奉行でした。水害に際して救助にあたったことを賞されています。

28日

勅使徳大寺実堅・同坊城俊克明、登営、大将軍徳川家慶及世子家祥ニ、年頭並踐祚ニ関シ、聖旨ヲ伝宣ス。大乗院門主隆温及公卿諸門主ノ使者、同ジク登営シテ各祝意ヲ表ス。

 勅使が将軍家慶と、その世子である家祥に、聖旨=天皇の思うところを伝えました。年賀の儀式や、即位の礼が控えています。禁裏御料は3万石しかないのに、即位の礼には現代の価値にして億単位の資金が必要ですから、どんなにやりくりしても自力で捻出するのは無理なのです。

幕府、高家由良貞靖「播磨守」ニ差控ヲ命ズ。

 高家は幕府のマナー講師です。おりしも勅使が江戸に滞在中で、なにかトラブルでもあったのでしょう、「差控」とは役目を降ろされることです。なにがあったかはわかりませんが、その後も由良貞靖は高家として働いているので、経歴に傷が付くほどのことではなかったようです。

是月

日出藩主木下俊敦「大和守」外警ヲ憂ヒ、武備ヲ修ス。

 豊後国の日出(ひじ)藩は、豊臣秀吉の正妻だった高台院(於禰)の甥にあたる木下延俊を藩祖とします。かつて徳川が滅ぼした豊臣氏の傍系ですけれども、関ヶ原の戦いに東軍の側で参戦したけれど「外様」にされているのは、信濃国松代藩真田家と同様です。まあ、いろいろな意味で特殊な外様藩ですね。時節柄「外警ヲ憂ヒ、武備ヲ修ス」ことは必要でしょうけれど、外様藩が武備を充実させると、アレコレいわれたりはしなかったのかな? 

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。