2023年大河ドラマ『どうする家康』は、戦国武将たちが、多数登場するストーリーのよう。その武将を演じる俳優のキャストが発表されると、豪華で華やかだと話題を集めています。主役の徳川家康役が松本潤、武田信玄役が阿部寛、今川義元役が野村萬斎。そして織田信長役が岡田准一と、これはもう期待するしかないですよね!!
豊臣秀吉(とよとみひでよし)には、ムロツヨシが配役されています。歴代の大河ドラマで、名だたる名優が演じてきた一癖ある役どころ。さて、どんな風に演じるのでしょうか? ワクワクしますね!
そこで、大河ドラマをより深く楽しんで頂くために、登場人物たちのおさらいをしたいと思います。今回は、豊臣秀吉です。さあ、共に戦国時代の世界へ、いざ!
織田信長との運命的な出会い
豊臣秀吉は、異例の立身出世を遂げた戦国武将として知られています。貧しい百姓の家に生まれながらも(諸説あり)、才覚でのしあがっていった人物です。
秀吉は青年になると、武家奉公を目指して家を出ます。職を転々とした後、松下之綱(まつしたゆきつな)に仕え、その後18歳の時に織田信長に仕えます。他の者が寝ていたり、外へ出かけたりしている時も、秀吉だけは、信長の命令にすぐに対応しました。よく知られている信長のぞうりを、自分の懐に入れて温めたエピソードの真偽は不明ですが、寝る間も惜しんで尽くしたのは、事実だったようです。
信長は秀吉の忠誠心と頭の良さを買って、引き立てるようになります。織田家中には、それを苦々しく思う者もいましたが、信長は気にしませんでした。
賢妻がいながら、女好きの秀吉
信長は永禄3(1560)年、桶狭間の戦い※(1)で今川義元を討ち、勢力を拡大していきます。そんな中、秀吉は、永禄4(1561)年におねと結婚します。秀吉が25歳、おねは14歳でした。おねは、信長が一目置いたという利発な女性で、内助の功を発揮します。後の秀吉の成功は、この優秀なパートナーの存在も大きかったことでしょう。
それほどの女性と出会っておきながら、秀吉は無類の女好きでした。出世していくにつれて、女性関係も派手になっていきます。おねが思わず信長に愚痴をこぼすこともあったとか。そんな秀吉の女性遍歴の記事は、こちらです。
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驚きの行動力で、主君の仇・明智光秀を討つ
妻目線で見ると、浮気を繰り返す困った夫の秀吉ですが、戦での活躍は、めざましいものがありました。天正元(1573)年には近江(滋賀県)のうち3群を与えられ、12万石の長浜城主となる異例の大出世を遂げます。この頃より木下改め、羽柴(はしば)藤吉郎秀吉と名のります。
秀吉は、信長の天下統一の野望を叶えるために、中国地方を支配する毛利氏との戦いに赴きます。天正10(1582)年、備中(びっちゅう・岡山県西部)高松城の戦い※(2)では、水攻めを行い、敵の戦意喪失に成功します。
そんな快進撃を続けている頃、京都では、大変なことが起こっていました。明智光秀が主君である信長への謀反を起こし、6月2日に本能寺において、信長は自害してしまったのです。知らせを受けた秀吉は急きょ毛利氏との和平をとりまとめます。そして主君の敵となった光秀を討つために京都へ引き返します。この驚きの判断力と行動力が、秀吉の天下統一の始まりにつながったといえます。
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ついに成し遂げた、天下統一
本能寺の変後、光秀、柴田勝家※(3)を倒した秀吉は、信長後継者としての地位を獲得します。そして四国征伐、九州征伐を行い、天正18(1590)年に小田原北条氏を滅ぼして、天下統一を完成させたのです。この間関白・太政大臣となり豊臣姓を賜ります。
秀吉は恵まれた環境からのスタートではなかったので、当初は家臣もわずかでした。どのようにして、人材を集めたのでしょう? 秀吉は信長によって、小者※(4)から小者頭、足軽、足軽大将、侍大将と重用された経験がありました。そのため、どんな身分の者でも実力と能力があれば抜擢しました。家臣たちを適材適所に配置して、力を発揮させる能力にもたけていたようです。人の心をつかむのがうまかったことから、人たらしと呼ばれていました。
秀吉は、自分は天下人なのだと知らしめるために、諸大名に命じて数万の人夫を集めさせ、巨大な大坂城を築城します。まさに栄耀栄華の時期を迎えていました。
秀吉は、お伽衆(おとぎしゅう)と呼ばれる人材の確保も。詳しくは、こちらからどうぞ!
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徳川家康との、長く続く冷戦
天下統一を果たした秀吉は、心穏やかに暮らしていたのでしょうか? いつ主君、信長のような目に自分もあうかもしれない。天下を取ったとはいえ、心中は穏やかとは言えなかったのではないでしょうか。虎視眈々とその座を狙う徳川家康との冷戦状態も続きました。
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最終的に、家康は秀吉に臣従します。その後も秀吉の野望が留まることはなく、明国支配を思いつき、朝鮮へ出兵※(5)させていきます。しかし、この計画はうまくはいきませんでした。
秀吉の死と辞世の句
秀吉は有馬温泉の湯治に、足繁く通っていました。文禄3(1594)年の4月に湯治に出かけたのを最後に、病気がちになり、体力が急激に衰えていったようです。名医たちの治療のかいもなく、症状は悪化していき、秀吉は死期を感じ始めます。
慶長3(1598)年、7月15日、諸大名を前田利家※(6)の邸宅に集めて、血判起請文を取らせて、秀頼への忠誠を誓わせています。この時、息子の秀頼はまだ6歳でした。幼い我が子を残していくことが、どんなにか心配だったのでしょう。
秀吉は年老いてから、思いがけず側室の淀との間に生まれた秀頼を溺愛していました。そのため、秀頼が誕生した2年後、目を覆いたくなるような、残酷な行動を起こしています。自分には跡継ぎの実子がいないからと、後継者と定めていた甥の秀次を、謀反の容疑で高野山へ追放し、切腹を命じたのです。それだけではなく、罪なき秀次の妻妾、子女を残らず虐殺しました。この時には、もう過去の人たらしと呼ばれた秀吉の面影は感じません。
暴君となってしまった秀吉も、最後は哀れな1人の父親でした。家康たち五大老※(7)に、秀頼のことを頼むと遺言を書き残しています。同年、8月18日に、秀吉は伏見城で亡くなりました。享年62。
辞世の句は、
露と落ち露と消えにしわが身かな 難波(なにわ・大坂)のことも夢のまた夢
この句の意味は、自分は露のようにこの世に生まれ、露のように消えていく。大坂城で過ごした日々は、まるで夢の中で、また夢を見ているような、そんな出来事だった。天下を取った秀吉の最期の言葉は、なんだか物悲しいですね。
主要参考文献:『豊臣秀吉と大坂城』跡部信著 吉川弘文館、『戦国武将名言禄』楠戸義昭著 PHP研究所、『豊臣秀吉101の謎』中江克己著 新人物往来社、『日本大百科全集』小学館
▼豊臣秀吉を知るならこちら
図説 豊臣秀吉 【オールカラー】