源平合戦で活躍しながら、異母兄の源頼朝(みなもとのよりとも)から謀反を疑われて亡くなった鎌倉時代の武士といえば、源義経(みなもとのよしつね)の名を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。ひそかに生き延びて、大陸へ渡ったという伝説があることでも知られています。
実はそれとよく似た伝説が、埼玉県北本市にもあるのです。
主役は蒲冠者(かばのかじゃ)とよばれた源範頼(みなもとののりより)。頼朝や義経とは異母兄弟にあたります。義経とおなじように兄の頼朝から謀反を疑われ、伊豆に幽閉されて亡くなったとされているのですが……。
伝説の舞台は北本市にある東光寺(とうこうじ)。今回は東光寺に眠る文化財を取材し、範頼伝説の謎へと迫っていきます。
その1 石戸蒲ザクラの下にある源範頼の墓
東光寺の境内には樹齢800年以上、日本五大桜のひとつにも数えられている桜の木があります。その名は石戸蒲ザクラ。桜の木の根元で苔むしているのは、範頼の墓と伝えられている石塔です。
範頼は建久4(1193)年に伊豆の修善寺に流され、自害したと伝えられています。しかし生き延びて、東光寺まで辿り着いたという伝説があるのです。
杖をついたら桜の巨木になった!?
石戸蒲ザクラは「範頼がついていた杖を地面にさしたところ、大きな桜の木に育った」という伝説のある木です。蒲冠者(かばのかじゃ)という範頼の呼び名にちなんで蒲ザクラと名付けられました。
奇想天外に思える話ですが杖は古来、神や王の力の象徴とされてきました。そのため、こうした「杖つき伝説」というのは各地にある伝説の定番なのだそう。範頼がそれだけ尊敬される人物だったという証でもあります。
ところが、東光寺付近では石戸蒲ザクラの伝説は「範頼が手植えした桜である」となったり、「範頼が兜をかけた木である」となったりと、現実的な話へと変化しています。おそらく、蒲ザクラを観に訪れた江戸の知識人(文人)たちは、杖が根付くという伝説を受け入れ難かったのでしょう。
その2 東光寺にある範頼の位牌
東光寺には、範頼とその娘と伝わる亀御前(かめごぜん)の位牌もあります。伝説によると範頼は近くにあった大きな屋敷で暮らしていました。そして、亡くなった娘の亀御前を弔うために東光寺を建てたのだそうです。
亀御前は範頼の娘?それとも妻?
東光寺では範頼の「娘」と伝えられている亀御前ですが、2kmほど離れた北本市の高尾という地域では、範頼の「妻」と伝えられています。高尾の伝説では、亀御前は範頼が伊豆で亡くなったという知らせを受けて嘆き悲しみ、荒川で自害したといわれています。
範頼がいつどこで亡くなったにせよ、きっとその死は多くの人々に悔やまれ、口から口へと伝わっていったのでしょう。その途中でエピソードが変化していったのかもしれません。
その3 範頼が暮らしていた?堀ノ内館跡
範頼が暮らしていたといわれている、館の跡も見つかっています。東光寺の周辺は昔から堀ノ内と呼ばれていて、実際の発掘調査でも大規模な館の外堀が発見されているのです。
周囲を掘に囲まれた堀ノ内館(ほりのうちやかた)。その鬼門とよばれる北東には石戸神社が祀られ、裏鬼門、つまり館の南西を守っていたのが東光寺でした。
歴史的には堀ノ内館は石戸氏の館
この堀ノ内館跡に、範頼伝説の謎を解くカギがあります。
鎌倉時代に堀ノ内周辺を治めていたのは、石戸(いしと)氏という御家人でした。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にもその名が登場するくらいですから、地元ではかなりの有力者です。
歴史的には、堀ノ内館は石戸氏の館であり、東光寺も石戸氏が建てたと考えるのが順当です。ではなぜこの場所に、範頼の伝説が伝わっているのでしょうか。
北本市に隣接する吉見町には、範頼が幼い頃に平氏に追われて隠れ住んでいたという寺があります。また鴻巣市には範頼の妻の実家にあたる、安達盛長(あだちもりなが)の領地があったといわれています。つまりもともと範頼にゆかりのある土地と、とても距離が近いのです。
東光寺に眠る文化財は、これだけではありません。
その4 桜の根元に並んでいた古い板碑
石戸蒲ザクラの根元には、かつて数多くの板碑(いたび)が並んでいました。板碑は亡くなった人を供養するために建てられたもの。その存在は桜の巨木をいっそう幽玄に見せ、範頼の伝説に真実味を与えたことでしょう。
現在は桜の根を守るために場所を移されて、東光寺の境内にある収蔵庫に保存されています。その数22基。板碑は埼玉県の荒川流域が発祥の地とされ、中世(平安時代末期~戦国時代)に数多く建てられましたが、初期の板碑でこれほどの数が1カ所にまとまってあるのは全国でも東光寺だけです。
板碑に刻まれている「キリーク」とは?
板碑の正面に刻まれた梵字(ぼんじ/サンスクリット語の文字で、日本には仏教の経典とともに伝来)はキリークといって、阿弥陀如来を一文字であらわしたものです。
東光寺周辺を治めていた石戸氏は承久の乱(1221年)に参戦したという記録があり、板碑に刻まれた年号と活躍した時代が一致します。
また、板碑の形や刻まれているキリークの形には、東北で見つかっている板碑と共通する部分があり、東北の仏教文化と交流があったこともうかがえるといいます。
訪れてみると分かるのですが、東光寺は地元の人が散歩のついでにちょっと立ち寄ってお参りするような、小さなお寺。そこにこれほどの文化財が眠っているとは、驚くばかりです。
最後にご紹介するのは、仏教が貴族から武士へ、武士から庶民へと伝わっていった時代を見つめた、一体の阿弥陀像です。
その5 「銅像阿弥陀如来坐像」を特別公開
東光寺には手のひらの上に乗るくらいの小さな阿弥陀如来坐像が祀られています。鎌倉時代中期~後期に作られたと推測される、北本市内最古の仏像です。市指定文化財の彫刻で普段は一般公開をしていませんが、特別に見せていただきました。
背面にフックのような突起があり、もともとは懸仏(かけぼとけ)といって銅鏡をアレンジした壁や柱にかける形の阿弥陀三尊だったと思われます。
土台となる返花座(かえりはなざ)は、近世になってから追加されたもの。何らかのアクシデントで懸仏の形は失われてしまいましたが、大切に祀られてきました。
仏教は貴族から武士へ、そして庶民へ
日本に仏教が伝来したのは6世紀。平安時代末期~鎌倉時代にかけて貴族から武士へと広がり、やがて庶民の間にも浸透しました。
鎌倉時代が終わりを告げて石戸氏の館が消えてからも、東光寺のお堂には阿弥陀如来像が大切に祀られて、地元の人々がお参りを続けてきたのです。
仏を供養し礼拝することで、亡くなった人が功徳を積むことができる。また供養をした人も死後、西方浄土(極楽)に行けるという仏教の教えとともに、範頼の伝説は東光寺に生き続けました。
桜の季節にはきっと遠くからも人が訪れて、花の評判とともに、範頼の伝説も広めてくれたのでしょう。
東光寺基本情報
住所:北本市石戸宿3-119
電話番号:048-594-5566(文化財保護課)
アクセス:JR北本駅西口から北里大学メディカルセンター行きバスで15分、「北里大学メディカルセンター」バス停下車、徒歩約10分
見学自由
無料駐車場120台
取材協力:磯野治司(埼玉県北本市役所 市長公室長)
【連載】石戸蒲ザクラ国指定100周年 きたもと桜国ものがたり
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