Q1.紫式部はいつ生まれた? 家族・家柄は?
紫式部(むらさきしきぶ)は天延(てんえん)元 (973)年ごろ生まれました。両親はどちらも北家藤原氏の出。二、三代さかのぼれば、大臣に名を連ねていてもおかしくない家柄でした。宮中に仕える女房としては、ひときわ高い家柄に生まれたといえるでしょう。しかし運命に翻弄(ほんろう)され、少女時代に生家はすでに斜陽にありました。紫式部は母親とは幼くして死別し、父藤原為時(ためとき)の手で育てられたようです。為時もまた一流の文人、当時屈指の漢詩文家でした。
Q2.紫式部はどんな少女だった?
紫式部は少女期から利発さを発揮しました。父為時が、紫式部の弟である惟規(のぶのり)に漢籍の手ほどきをしている間、そばで聞いていた彼女のほうが先に理解してしまったという話は有名です。
紫式部は、家に伝わる歌書や物語を読みふけり、箏(そう)の腕前もなかなかだったとか。為時は「この娘が男であったなら」と嘆いたといわれていますが、父の授ける教養を吸収することで、傑作小説の地盤ができたのでしょう。しかし、この父の嘆きは多感な少女だった紫式部にとって、つらいものだったとも想像できます。女として生まれた悔しさを、紫式部はこのころすでに感じていたのかもしれません。
Q3.紫式部が書いた代表作品は?
紫式部といえば『源氏物語』。美男子・光源氏が主人公の日本初の長編小説です。
紫式部は26歳ごろ、20歳以上も年上の藤原宣孝(のぶたか)と結婚し長女賢子(けんし)をもうけます。しかしわずか3年で夫と死別。その後、紫式部は心の隙間を埋めるように物語を書き始めました。それが『源氏物語』です。
紫式部が残した『紫式部日記』によれば『源氏物語』は「最初は友人に読んでもらい、共感を得ることで救われた」そうですが、いつしかそれが永遠の流行文学に育ったのです。
Q4.紫式部はだれに仕えていた?
紫式部は32歳ごろ、一条天皇の中宮彰子(しょうし)のもとに出仕しました。すでに書き始めていた『源氏物語』の面白さが話題となり、そんな才女がいるならと、藤原道長(みちなが)に懇願され出仕したのです。
このころ道長は中宮彰子の〝サロン〟の充実化に懸命でした。紫式部は、本心では宮中の華やかさ、憂さ、つらさになじめなかったようです。才能をひけらかさずに目立たぬよう生きていくのが何よりの処世術、と心得ていたといわれます。『源氏物語』は出仕後も書き続けられました。
Q5.紫式部の晩年は?
紫式部の宮仕え後の消息は、よく知られていません。紫式部は長和(ちょうわ)3(1014)年ごろ、およそ41歳で病死したといわれます。
娘の賢子は母との死別の際、こんな歌を詠んでいます。
「憂きことの増さるこの世を見じとてや空の雲とも人のなりけむ」
京都市中には、紫式部にちなむ遺跡があります。蘆山寺(ろざんじ)境内に邸宅跡を示す石標が、また、墓は西御所近くにあります。しかしこれらは確かなものと断定できず、紫式部の晩年の真相は謎に包まれている、といっても過言ではないでしょう。
※ここまでの本記事は雑誌『和樂(2007年1月号)』の転載です。
文/濱野千尋
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