革の扱いに長けていた古代人たち
飛鳥時代から明治まで幅広い世界を物語につむいだ歴史時代小説家・杉本苑子の作品に、「華鬘(けまん)」という短編がある。舞台は大化の改新直後。後に天智天皇の妻となる女性が、父親のもとから牛皮製の華鬘をもらってくるシーンから話が始まる。
華鬘とは今日でも、寺院に行くと飾られている透かし彫りの荘厳具。金属で作られることが多い中、作中に出て来る華鬘は染めた鹿革製で大変軽く、主人公の女性は自分の部屋にこれを飾ろうとして、思いがけぬトラブルに巻き込まれる。
飛鳥時代の革製の華鬘は現実には類例がないが、現在、奈良国立博物館には平安時代中期に作られた牛皮製の華鬘が収蔵されている。漆塗の革を透かして加工した上に、極楽浄土に棲むとされる人の顔に鳥の身体を持つ迦陵頻伽(かりょうびんが)や、花の文様を色鮮やかに描き、国宝に指定されている品である。
革は軽く、また保存性が高いことから、すでに古墳時代から武具などに用いられていたらしい。七世紀に編まれた史書『日本書紀』には、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が弟・須佐之男命(すさのおのみこと)の言動に腹を立てて、天石窟に引きこもってしまった時の出来事として、天照大御神を誘い出す手段の一つとして、天羽鞴(あめのはぶき)という革製の送風機が作られたとある。もちろんこれは事実ではあるまいが、真名鹿(鹿)の皮を丸ごと剥いで作ったという記述はなかなか詳細で、当時の人々が革を日常的に用いていたと想像できる。
八世紀に公布された『養老律令』は、当時の国の制度を知る上で重要な史料。その一巻、「衣服令」には天皇や貴族が着るべき服が定められており、様々な革製の靴が登場する。たとえば皇族や貴族が儀式の際に用いる履物は、黒い革で作られ、底が厚底になっているもの。女性の履物は緑色の革靴。普段の履物は、厚底ではなく底一枚だけの革靴と区別されているのが面白い。
正倉院には現在、聖武天皇が東大寺大仏開眼会の際に履いたとされる「衲御礼履(のうのごらいり)」という革製靴が残されている。今日の革靴イメージからは程遠い、鮮やかな茜色に染められた革靴で、到るところに散りばめられたガラス・真珠つきの花形金具が、その華やかさをますます際立たせている。表面はスエード状の子牛の牛革、内側は滑らかな白革に綾の中敷きを置き、更に爪先部分には白い革を切り取った飾りまで施している。
革の細工物を装飾に使う例は正倉院には多く、たとえば「紫皮裁文珠玉飾刺繍羅帯(むらさきがわさいもん しゅぎょくかざり ししゅうらのおび)(残欠)」は花形の刺繍や紫染めの革で飾り立てた帯。ガラスや水晶、真珠の飾りが付けられており、正倉院の帯の中でも屈指の美しさを誇る作品だ。ここにおいて紫染めの革は、忍冬(すいかずら)という植物の形に切り取られ、幅約八センチという大きさから宝石類にも劣らぬ存在感を放っている。
これは少し後の史料になるが、平安時代初期に編纂された『延喜式』には、紫革や緋革、纈革(ゆはたがわ)といった革が九州・大宰府から都にもたらされていたと記されている。紫革・緋革はすでに見てきたような染革、また纈革は絞り染めを施された革だろう。牛馬の革自体はその他、尾張国(現在の愛知県)や近江国(滋賀県)など諸国から届けられていたが、それらと染革が明確に区別されているのは、前者が馬具などそのまま用いられる革製品用、後者が装身具などの細工としての革製品用と使い道が異なっていたために違いない。
また以前も述べたように、正倉院には今日のベルトとまったく同じバックルを持つ玉帯が伝えられており、これらの中には帯部分が革製のものも複数ある。まさに今日の革ベルトと同じ材質、同じ形状というわけだ。ただたとえば紺色の方形・四角形の玉が美しい「紺玉帯(残欠)」は、かつては牛革製と考えられていたが、近年の調査では牛や馬の革ではなく、他の小型動物の革ではないかと推測されている。先の衲御礼履になめらかな子牛の革を用いている点といい、古代の人々は我々が想像する以上に革の扱いに長けていたと考えねばなるまい。
大切なのは殺生に対する思い
ところで現在の京都市中京区、京都御苑にもほど近い地に通称・革堂(こうどう)と呼ばれる寺院がある。正式名称は霊麀山行願寺(れいゆうざん ぎょうがんじ)という天台宗寺院で、ちょうど来年の大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部が『源氏物語』執筆まっただ中の寛弘元年(1004)、行円という僧侶によって建立された寺だ。一説にこの行円は元は西国の猟師。ある雌鹿を殺したところ、その腹の中から仔鹿が出てきたために己の所業を悔い、出家した人物。己の行いを忘れまいと、殺した母鹿の皮を常にまとっていたことから、周囲からは「革聖」と呼ばれるようになり、彼が開いた寺もまた「革堂」との俗称が付けられたという。
平安時代中期に編まれた『倭名類聚抄』という辞書では、皮と革は厳密に区別されている。今日の用途と同じく、皮は毛のついたままの毛皮、革は都久利加波(つくりかわ)、つまり加工された毛や脂が除去されたものだ。
行円の伝承には皮と革が混在して登場しており、史料からだけではどちらを身につけていたのか分からない。現在、革堂の霊宝館には行円の鹿衣とされる品が納められ、年に数日のみ公開されているが、それを確認する限りでは、行円はレザーではなくファーを身に着けていたようにも思われる。
ちなみに僧侶が死んだ動物由来の品を身に着ける例は、他にもある。口から六体の仏さまが出ている独特の肖像彫刻で親しまれる六波羅蜜寺の開基・空也上人も、その例だ。空也には大変可愛がっている鹿がいたが、ある時、一人の武士がその鹿を殺してしまった。そこで空也は彼から鹿の皮と角をもらい受け、皮は衣に仕立てて着用し、角は杖の先にはめて、念仏を唱え歩いたという。
今日、一部のマナーでは毛皮・革製品は殺生を連想させるため、結婚式には用いるべきではないとされている。ただ行円や空也の行いからは、大切なのは動物由来の品を身に着けるかどうかの行動ではなく、殺生に対する思いを忘れぬ心だと教えられる。毛皮や革を避けて身を装い、披露宴で和牛ステーキに舌鼓を打つ自らの矛盾に、身がすくむ思いである。