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正月を彩る「松」の霊力
初春(はつはる)の初子(はつね)の今日の玉箒(たまははき)手にとるからにゆらぐ玉の緒
大伴家持(おおとものやかもち)
姫小松(ひめこまつ)おほかる野辺に子の日して千世(ちよ)を心に任まかせつるかな
源道済(みなもとのみちなり)
平安時代の新春、人々は野に出て「子の日の遊び」を楽しんだ。新年を迎えての初の子の日に、小松の多い野辺に出かけて小松を根ごと引き抜き、松の霊力によって長寿を願ったのである。掲出の源道済の歌は東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)の四十歳の賀(が)を祝う屛風の絵にそえた歌だが、子の日の野辺のめでたさに予祝(よしゅく)の心を添えている。
子の日を祝う心は万葉集の頃から宮廷行事として行なわれていて、掲出の大伴家持の歌は天平宝字(てんぴょうほうじ)二年(七五八)正月三日のことである。孝謙(こうけん)天皇は臣下らに玉箒(玉を飾った箒、初子の日に蚕室[さんしつ]を掃き整えるもの)を下賜(かし)され、詩歌の宴を催された。歌はこの時のもので、ことばのひびきの流麗さと、下句に向けてゆったりと形づくられてゆく謝恩のこころがみごとな一首である。
子の日の行事はその後はじめに述べたような野外の小松引きへと移行し、民間にも広がってゆく。源氏物語の初音の巻には年初の子の日の源氏邸の光景が描かれている。場面は幼い明石(あかし)の姫君のお部屋である。「童(わらは)、下仕(しもづか)へなど御前の山の小松ひき遊ぶ。(略)北の殿よりわざとがましく集めたる髭籠(ひげこ)ども、破(わ)り子こなど奉れたまへり」とあって、上流では邸内の築山(つきやま)などに設けた小松を引き、あとには御褒美(ごほうび)として何かが入った竹籠や、お菓子入りの小箱が特別に用意されている。さすがに今をときめく貴族の家の賑々(にぎにぎ)しい子の日である。
もっと庶民的な場では、こんな面白い場面も歌に残されている。それはある年の子の日のこと、平安中期の歌僧良暹(りょうぜん)は親しい友の賀茂成助(かものなりすけ)に「一緒に子の日をしましょうよ。ぜひ御用意を」と言ってやったまま、ふと忘れてしまい、別の友人と一日を楽しんでしまった。一方賀茂成助は迎えが来るのを待っているうち日暮れとなった。そこで良暹に送り付けた歌がこれ。
「けふは君いかなる野辺に子日して人のまつをば知らぬなるらむ」(今日あなたはどこへ行って子の日をしていたのですか。私がこうして一日中待っ〈松〉ていたとは知らないというわけですね)と言っている。良暹法師はどんな言いわけをしたのであろう。その後の二人の対応が微苦笑とともに偲(しの)ばれる。
ところで、寛和(かんな)元年(九八五)二月十三日、位を下りた円融(えんゆう)院は野外を逍遥(しょうよう)しつつ子の日の松を引こうと思い、北郊の船岳山(ふなおかやま)までお出ましになるという。今昔物語によれば、そこで俄(にわか)に遣水(やりみず)を作り、石を立て砂を敷くなどの景観が整えられ唐から錦平張(にしきのひらばり)を立てるなど、子の日の御幸(ごこう)の盛儀(せいぎ)が印象づけられる。
じつはこの日、珍事が起きた。かねて名ある歌人達が多く召されていたが、「歌人を召す」ということばに奮起し、召される地位をもたない在野の歌人、曽禰好忠(そねのよしただ)がこの場に闖入(ちんにゅう)して歌人の席に着席し、「私も歌人だ」と抵抗したが、役人によって無残に叩き出され、歌人好忠の自負は嘲笑を浴びた。ついに社会的身分差を越えられなかった好忠。何とも悲しい事件であった。
馬場あき子
歌人。1928年東京生まれ。学生時代に歌誌『まひる野』同人となり、1978年、歌誌『かりん』を立ち上げる。歌集のほかに、造詣の深い中世文学や能の研究や評論に多くの著作がある。読売文学賞、毎日芸術賞、斎藤茂吉短歌文学賞、朝日賞、日本芸術院賞、紫綬褒章など受賞歴多数。『和樂』にて「和歌で読み解く日本のこころ」連載中。
現在、映画『幾春かけて老いゆかん 歌人 馬場あき子の日々』(公式サイト:ikuharu-movie.com)を上演中。
構成/氷川まりこ
※本記事は雑誌『和樂(2021年12・1月号)』の転載です。