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文楽のトップランナー・竹本織太夫が語る。「未来の文楽ファンを作るために」今できること
アートと海外旅行にあけくれた学生時代
織太夫さんの家は、文化・文政期から文楽の三味線弾きも多く輩出している家系でした。織太夫さんは周囲から三味線弾きの道へ進むことを期待されますが、徐々に全身全霊で語る太夫に魅力を感じるようになります。その思いが実り、8歳の時に豊竹咲太夫(とよたけさきたゆう)に入門。初代豊竹咲甫太夫(さきほだゆう)を名乗ります。
「中学校を卒業して、すぐに文楽の世界へ入りたかったのですが、祖母や母の勧めもあって高校に進学しました」と織太夫さん。幼稚園から絵を習っていて中学生時代に絵の才能が開花していたことから、美術の推薦を受けての進学でした。「2年生になると1週間の内、9時間は美術の授業でしたね。昼食の後にスケッチに山へ行くような自由な感じでした」
ご家族や咲太夫師匠の理解もあって、青春時代を謳歌していた織太夫さん。夏休みなど長期の休みがあると、必ず海外旅行へ行っていたそうです。しかも1人で!
「高校1年生の時に、アメリカ大陸を東西南北、横断しましたね。ルーブル美術館が大改装されて、ピラミッド型の建物が設けられた時には現地にいて、パリに1週間ぐらい滞在していました。大英博物館に通い詰めた時もありましたし。この高校3年間の経験で、外側から文楽を見ることができたのは良かったと思います」。今ほどインターネットが普及していなかった時代に、自力で海外旅行をする高校生は珍しかったことでしょう。
寝る間もないほど取り組んだ修行の日々
充実した高校生活を送っていた織太夫さんは、卒業すると本格的な太夫の修行が始まります。当時を振り返っていただくと、驚きのコメントが返ってきました。「18歳から10数年の記憶がほとんどないのです」。お休みも10年ぐらいはなかったのだとか。「修行が始まると、師匠が鬼みたいに豹変して、目の前のことをやるのに必死でしたね」
咲太夫師匠の身の回りのお世話から、文楽の床本(ゆかほん)※1を墨で清書する作業にお稽古と、寝る時間もないほど、文楽に費やす日々が続いたそうです。「これ以上はできないというぐらい一生懸命だったのですが、師匠から『浄瑠璃は教えられるけど、やる気だけは教えられへんねん』と言われて落ち込みました」
織太夫さんの才能をかっていたからこそ、要求するレベルも高かったのでしょう。「私は根がマイペースな性格なので、師匠は変えたかったのだと思いますね」
竹本織太夫襲名への葛藤
ひたすら芸に邁進する日々を送った織太夫さんは、文楽の次世代を担う一人として、注目される存在に成長していきました。そして40歳になった時に、咲太夫師匠から襲名を勧められます。それは、師匠の父で人間国宝だった八代目竹本綱太夫(つなたゆう)の前名「竹本織太夫」の名前でした。
「以前からもお話をいただいていたのですが、すぐに応じることはできませんでした」と織太夫さん。大きな名前だけに決心がつかないなか、「八代目綱太夫50回忌追善公演をするから、そのときに襲名をしてくれ。お前にしてやれるのは、ここまでや」という師匠の思いを受けて、「わかりました」と返事をしたそうです。
「襲名してからは暖簾を守る気持ちで、自分の一生をかけて、織太夫の芸を守らせていただくという気持ちになりました」
師匠の助言を胸につとめた千穐楽
2024年1月新春文楽公演で、織太夫さんは近松門左衛門の『平家女護島(へいけにょごのしま)・鬼界が島の段』を語りました。能や歌舞伎でも上演される俊寛(しゅんかん)の絶望を描くこの作品は、高度な技巧と表現力が必要な難曲とされています。
「師匠も語ったことがない演目を語るのは、初めての挑戦で、配役が決まってから、ずっと師匠が心配をしてくれて。そんな姿を見るのも初めてでしたね」。咲太夫師匠はこの頃、体調が思わしくない状態が続いていましたが、毎日のように織太夫さんに電話を掛けてこられたそうです。
「師匠は電話で、『手負(てお)いに聞こえたらあかんで』と言ってくれて。俊寛は年寄りに見えるけれど、実際の年齢は37歳。お腹がすいているだけで、傷をおって弱っているように周囲に見られてはいけないという意味なんです」。平家討伐の陰謀がもれて鬼界が島に流されてしまった俊寛。この人物を俯瞰して見ている咲太夫師匠の言葉が、織太夫さんはずっと頭から離れなかったそうです。
この段は八代目綱太夫の師匠である、豊竹山城少掾(とよたけやましろのしょうじょう)が昭和5年に復活させたという、いきさつがありました。咲太夫師匠から山城少掾と八代目綱太夫の音源があるから、それを参考にというアドバイスを受けて、織太夫さんは音源を頼りに三味線の鶴澤燕三(つるさわえんざ)さんと、一から作り上げる稽古を行いました。
無事に初日が明けて公演が始まり、千穐楽の日、咲太夫師匠が危篤との知らせを受けます。「子どもの時からずっと、千穐楽はもう二度とこの役はやらないかもしれないという思いを込めて、一番丁寧に気を入れて語りなさいと師匠から言われていました」。その教えを守り、渾身の俊寛を語ってから、織太夫さんは咲太夫師匠が入院する東京へ駆けつけます。「もう会話をすることはできなくなっていましたが、師匠は待っていてくれたのだと思いました」。後ろ髪を引かれる思いで、入院先の東京から帰阪して3日後に、咲太夫師匠はお亡くなりになられました。
「祖父師匠と大師匠が大切に守ってきた『俊寛』を、師匠の言葉をいただきながら舞台を勤めることができたのは、良かったと思っています」
若太夫襲名公演を全力で応援し隊・隊長に!
2024年4月、5月は大阪と東京で十一代目豊竹若太夫襲名披露の公演が開催されます。織太夫さんは「全力で応援し隊・隊長」を名乗っておられることから、初代豊竹若太夫の法要に参列。お墓参りと公演成功祈願が行われた本経寺に同行しました。
初代豊竹若太夫のお墓がある本経寺は、国立文楽劇場から歩いて10分ぐらいの場所にあります。義太夫節(ぎだゆうぶし)※2の創始者である竹本義太夫は、大阪・ミナミにある道頓堀にかつて「竹本座」という人形浄瑠璃の小屋を持っていました。その弟子で「豊竹座」を旗揚げしたのが初代豊竹若太夫です。両座はしのぎをけずり、相乗効果で歌舞伎をしのぐ人気を誇っていたそうです。
豊竹呂太夫さんのお祖父様が襲名された名跡を、今回57年ぶりに引き継がれます。着物の紋は、初代若太夫が考えた江戸時代の紋で、豊竹若太夫だけに許された紋なのだそうです。取材会で「師匠方から厳しく稽古されたことを、今は感謝しています。言われたことが今、やっとわかってきました」と語る呂太夫さんの言葉に、太夫の芸の奥深さを感じました。
太夫たちの思いで復活した豊竹櫻
本経寺の境内には、「豊竹櫻」と呼ばれるしだれ桜が植えられています。初代若太夫が亡くなってから、追善のために植えられましたが、1840年半ば(天保年間の末頃)に枯死してしまいます。現在の桜は、若太夫250忌にあたる平成25(2013)年に「人形浄瑠璃文楽座」で豊竹姓を名乗る者の有志により、墓石の修復と共に、追善のために再度植えられたものです。
「私も携わらせていただいたので、思い出深いですね」と、当時豊竹咲甫太夫を名乗っていた織太夫さん。毎年3月半ば以降に美しく咲く豊竹櫻は、国立文楽劇場から近いので、大阪へ来られた折には眺めてみてはいかがでしょうか。
取材・文/瓦谷登貴子 取材協力/本経寺 国立文楽劇場
参考書籍:『文楽のすゝめ』竹本織太夫監修
竹本織太夫さん出演情報
豊竹呂太夫改め十一代目豊竹若太夫襲名披露
(大阪)国立文楽劇場 4月文楽公演
第二部で襲名披露口上と襲名披露狂言『和田合戦女舞鶴(わだがっせんおんなまいづる)』を上演。この作品は、元文元年(1736)に大坂豊竹座で初演された時代浄瑠璃。鎌倉幕府三代将軍、源実朝(みなもとのさねとも)の時代に起こった、北条氏が和田氏を滅ぼした和田合戦を防ごうと働く人々の悲劇を描いた内容。
竹本織太夫さんが出演するのは、第三部の『増補大江山(ぞうほおおえやま)』。源頼光(みなもとのらいこう)の家臣・渡辺綱(わたなべのつな)は一条戻橋で若い女性と出会う。しかし本当の正体は鬼だった? 両者の戦いが見どころの内容。
期間:2024年4月6日(土)~29日(月・祝)【※17日(水)休演】
会場:国立文楽劇場【大阪メトロ・近鉄(日本橋)駅7番より東へ徒歩約1分】
(東京)国立劇場 5月文楽公演
AプロとBプロに分かれての上演。襲名口上と襲名披露狂言はAプロ。竹本織太夫さんが出演するのは、Aプロの『近頃河原の達引(ちかごろかわらのたてひき)』。祇園の遊女お俊と恋仲の伝兵衛が、思わぬ運命のいたずらで悲劇に巻き込まれる。二人を見守る周囲の人々の情愛が伝わる内容。
期間:2024年5月9日(木)~27日(月)【※15日(水)休演、◎19日(日)よりAプロとBプロの上演順が入れ替わる】
会場:シアター1010【(北千住)駅4番直結】
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