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平安時代、蛍は今よりもずっと身近であった
つつめども隠れぬものは夏虫の身よりあまれる思ひなりけり よみ人しらず
物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る 和泉式部
枕草子は夏の月夜を愛でたあと、「闇もなほ」と筆をつぎ、「蛍の多く飛びちがひたる、また唯一つ二つなど、ほのかにうち光りてゆくもをかし」と蛍を夏の風物詩と賞揚している。私の住むあたりにはまだ蛍の里が残っているが、子供の頃は夕涼みの縁台に蛍が飛んでくるのを団扇(うちわ)で捕えたりするのが日常だったし、竹箒(たけぼうき)を持って田圃(たんぼ)や小川の岸に蛍狩りに行ったものだった。
平安朝の蛍は比べるともう少し身近な存在だったようだ。宇多(うだ)天皇の姫宮さまの桂のみこ(孚子内親王 ふしないしんのう)のもとに異母きょうだいの敦慶(あつよし)親王が通っておられたころ、桂のみこにお仕えする少女は敦慶親王をこの上なくすばらしいお方とお慕いしていたが、もちろん誰ひとりそのことを知るものはない。折ふしお庭に蛍が飛ぶ風情が何とも美しいのを目にされた敦慶親王はふとこの少女をかえり見て、「あの蛍を捕えておくれ」とお命じになった。少女は嬉しさに心ときめかせながら、着ていた汗衫(かざみ)という薄物の袖に捕えた蛍を包んでお見せした。その時少女は長年の思いをこめて一首の歌をお耳に入れた。
「つつめどもかくれぬものは夏虫の身よりあまれる思ひ(火)なりけり」(いくら包んでみても隠すことができないものは、蛍〈夏虫〉の身より包み切れずに外に洩れる思いの火の光りでございます)というものだ。敦慶親王は美貌と才気をもって知られる風流の貴公子である。少女の恋の行方は不明だが、この恋の歌は愛誦(あいしょう)され、後撰集の夏の部によみ人しらずとして入集された。
その後、後拾遺(ごしゅうい)集に入集した源重之(みなもとのしげゆき)の蛍の歌「音もせで思ひに燃ゆる蛍こそ鳴く虫よりもあはれなりけれ」(泣く音も洩らさず、思いの炎に燃えて死ぬ蛍は、恋をうたって鳴く虫よりも心にしみていとおしい)という歌、これはあの少女の歌への共鳴歌のようである。
そして、蛍といえばどうしても忘れられないのは和泉式部(いずみしきぶ)の有名な一首、掲出歌である。「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る」。この歌には詞書(ことばがき)があり「をとこに忘られて侍(はべ)りけるころ、貴ぶねにまゐりて、みたらし川に蛍のとび侍りけるを見て詠める」とある。
詞書の男とは誰であるかわからないが、多くの説話集では最後に夫とした藤原保昌(ふじわらのやすまさ)だとしているが、最初の夫道貞(みちさだ)だという説もある。交際は多かったし、ほかにも「忘られて」しまった交わりは沢山(たくさん)ある。ここであえて特定しなくても歌の場面の貴船(きぶね)詣でや、蛍の斬新かつ実感のある捉え方から醸される恋の喪失感の深さが、蛍の青白い浮遊を自らの遊離魂(ゆうりこん)と見る哀しみとともに伝わってくる。蛍は和歌文学史を彩る夏の題材としてさまざまな哀楽のすがたを見せてくれたが、今日のくらしの周辺からついに姿を消してしまった。実にさびしい。
馬場あき子
歌人。1928年東京生まれ。学生時代に歌誌『まひる野』同人となり、1978年、歌誌『かりん』を立ち上げる。歌集のほかに、造詣の深い中世文学や能の研究や評論に多くの著作がある。読売文学賞、毎日芸術賞、斎藤茂吉短歌文学賞、朝日賞、日本芸術院賞、紫綬褒章など受賞歴多数。『和樂』にて「和歌で読み解く日本のこころ」連載中。映画『幾春かけて老いゆかん 歌人 馬場あき子の日々』(公式サイト:ikuharu-movie.com)。
構成/氷川まりこ
※本記事は雑誌『和樂(2023年6・7月号)』の転載です。