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激動の時代だからこそ人を思う気持ちは増すばかり
思ひやれひとりかきやる黒髪のとけて寝られぬさよの手枕 中御門経高
思ひ出でむ人の心はしらねども形見なるべき夜半の月かな 新待賢門院廉子
鎌倉時代の後期、後深草(ごふかくさ)天皇と亀山天皇の系譜に皇位や所領をめぐる対立が生まれ、幕府の斡旋(あっせん)によって交互に位に即(つ)くようになったが、後醍醐(ごだいご)天皇の親政の理想に反発する武士団は足利尊氏(あしかがたかうじ)を中心に武家による政治を望んだ。吉野にあって政権を主張する後醍醐天皇を南朝(なんちょう)とし、武士に擁立された光明(こうみょう)天皇を北朝(ほくちょう)とする。南北の和議の成立には57年の歳月を必要とした。いわゆる乱世、戦闘が繰り返され、人々が人生の激変に堪(た)えた時代であった。その中だからこそ人は濃く人と思い合ったのだ。
思ひきや手もふれざりし梓弓起きふし吾が身なれむものとは 宗良親王
「もののふの手なれの武器としてのみ見ていた梓弓(あずさゆみ)だが、今や皇子の私にも身近なものとなった。かつて考えたこともなかった現実である」
宗良親王(むねよししんのう)は後醍醐天皇の皇子。元弘(げんこう)の乱(1331年)では讃岐(さぬき)に流され、また各地を転戦しつつ南朝のため心を尽くした。南北朝がようやく和解するころ『新葉集(しんようしゅう)』を篇纂(へんさん)して南朝歌人たちの詠歌をまとめた。その中の歌をみよう。
思ひやれひとりかきやる黒髪のとけて寝られぬさよの手枕(たまくら) 中御門経高母(なかみかどつねたかのはは)
「あの方は今宵も訪れがない。思い悩んでひとりかきやる黒髪もたちまち解け乱れて眠れない夜。わが腕を枕として物思う夜よ」
作者の女性は南朝の大納言(だいなごん)中御門光任(みつとう)の妻として経高の母となった。明日どういう運命が待っているか定めがたい乱世にあって、女性の恋は最も破れやすく、危うい物思いの種であったにちがいない。
思ひ出でむ人の心はしらねども形見なるべき夜半(よは)の月かな 新待賢門院廉子(しんたいけんもんいんれんし)
「どんな思い出となったか、あの方のお心はわからないが、私にとっては忘れがたい一生の形見ともなるはずの、ともに眺めた夜半の月なのです」
思い出の対象は後醍醐天皇か。廉子の姓は阿野(あの)。天皇の寵(ちょう)厚く天皇配流地(はいるち)の隠岐(おき)にも同行。後に後村上(ごむらかみ)天皇となる皇子や内親王たちの母である。女院(にょいん)号を賜(たま)う待遇を受けた。歌の「人の心はしらねども」はふつうは恋の心のあやうさとして軽く詠むことばだが、ここでは、むしろ下句の「形見なるべき夜半の月かな」の切実な詠嘆に対置された危機感さえ感じさせる。
こんな歌もある。「思ふことなくてぞ見ましほのぼのと有明の月の志賀の浦波」これは元弘元年六波羅(ろくはら)追討の計画が洩(も)れて比叡山に拠(よ)ることができなくなった時、側近の花山院師賢(かざんいんもろかた)(=文貞公 ぶんていこう)を偽りの行幸(ぎょうこう)として山へ赴(おもむ)かせたのである。
その後師賢も捕えられ、東国(千葉)で没したが、天皇の身代りとして迎えた琵琶湖の朝明けを即詠するなどさすが貴族の文雅の心は衰えていなかったと感銘深い。
馬場あき子
歌人。1928年東京生まれ。学生時代に歌誌『まひる野』同人となり、1978年、歌誌『かりん』を立ち上げる。歌集のほかに、造詣の深い中世文学や能の研究や評論に多くの著作がある。読売文学賞、毎日芸術賞、斎藤茂吉短歌文学賞、朝日賞、日本芸術院賞、紫綬褒章など受賞歴多数。『和樂』にて「和歌で読み解く日本のこころ」連載中。映画『幾春かけて老いゆかん 歌人 馬場あき子の日々』(公式サイト:ikuharu-movie.com)。
構成/氷川まりこ
※本記事は雑誌『和樂(2023年8・9月号)』の転載です。