年中行事で刻まれる、人生のハレとケ
私が年中行事を意識するようになったきっかけは、その際にふるまわれる食を通してだった。まだ実家暮らしだった頃、おせちの材料を調達するため、母と買い出しで何軒もハシゴし、ハレの日を口実に、あれこれと作りたかったご馳走を何日もかけて作った。それが楽しくて、節分の恵方巻きや、重陽の節句の菊料理、また秋の彼岸のおはぎなど季節が巡ってくることが待ち遠しくなっていった。
私の独身時代のライフスタイルは、変化に富むもので常に何かしらのテーマがあり、たとえば「本当のタリアテッレを学ぶために、いざボローニャ」とか「雌牛のどの部位を使い、どんなソースを合わせたら究極のハンバーグができるか50日実験」とか、挙げ始めたらきりがないくらい研究を楽しんでいた。一日たりとも同じ日がなく刺激的で、もはや毎日がハレだったと思うのだ。
しかし、結婚し子供が産まれて家庭に固定されてみると、単調でメリハリのない生活が続く。それでも何年か経って振り返ってみると、思い出されるのは、息子のお食い初めで親族が子供の健やかな成長を笑顔で見守る様子や、初節句に主人の京都の実家にご縁ある皆さんが集い、鯉のぼりが風になびくさまを目にしたことなど。節句や通過儀礼などの年中行事を通しての思い出ばかりだ。自分が家庭を持ち、はじめて地に足が着いた生活を始めた途端に、毎日が本当の意味でケとなり、そこにささやかなハレの行事を取り入れることで一年に心地よいリズムが刻まれるようになった。
人生の転機 ─ 運命の相手は茶家の人
私にとっての人生の節目はいくつかあり、幼稚園から高校までを過ごした学校に別れを告げ別の大学に飛び込んだことや、フランスへの料理留学が挙げられるが、中でも特に大きな転機は5年前に結婚したことだ。結婚とは他の文化を学ぶこと。相手は京都の茶家の人。当時は、周りから難しそうな家柄の相手だけど大丈夫なの?と心配されることもあった。
主人とは大学時代に出会い、大人になってから趣味を通じて再会した。博識で面白く、よい意味で非常に素朴な人。私自身は学生時代に茶道を少しだけかじって苦手意識があったのに、主人の茶室に遊びに行った時のお茶は本当に楽しく、お茶に対して難しさを感じることがなくなった。そんなわけで比較的気楽な気持ちで結婚したけれど、時間が経ってみると、思っていた以上に行事が多いし、そこにかける京都の人の思い入れの強さにも驚かせられることになるのだ。
その代表的な行事に正月がある。年末年始に息子が入院し東京で正月を迎えることになった時でさえ、元日だからとぱりっと着物に袖を通して病院に行き、三が日は白味噌雑煮を食べないと新年が始まった気がしないとどこにいても行事を遂行しようとする主人や、極寒のニューヨークで京都の正月を再現しようと餅つきをする主人の友人など、そのこだわりに思わず京都人ってメンドクサイネ!と言ってしまった。しかし、その言葉を嬉しそうに繰り返す姿を見ていると、私の発言が京都人の誇り、京都愛にさらに火をつけてしまったように感じた。
京都の元旦と雑煮
さて、今回は雑煮について取り上げる。雑煮は、様々な具材を煮雑(にまぜ)たもので、正月の三が日に食べられる家庭料理のこと。一説には京都が発祥の地とも。
東京生まれの私の実家の雑煮は、鰹節と昆布がベースのすまし汁に、焼いた角餅が入り、人参や、椎茸、菜の花に柚子やイクラなど彩りのあるもの。一方で京都の雑煮は、昆布出汁にたっぷりの白味噌を溶き、茹でた丸餅、祝い大根、丸く剥いた里芋と頭芋、最後に鰹節をたっぷり乗せた色の入らない真っ白なもの。汁に餅が入っていること以外、両者に共通点はほぼない。
京都の元旦は忙しい。男性はまず新年最初の井戸水、若水を汲む。女性はこの若水に昆布を浸して一晩。翌朝5時頃までには着物を着て台所へ。その年初めての火を使って雑煮を作り、まずは敷地内の神仏にお供えする。それから家族と内弟子が揃い、雑煮と祝い肴3種をいただく。体が温まったところで場所を初祖である利休さんを祀る茶室「祖堂」に移し、当主である家元自らが点てる新年最初の濃茶である「大福茶(おおぶくちゃ)」をいただく。終わると天井の突き上げ窓を開けて朝日を拝む。門に出て日の丸をかかげる。この一連の流れが終わっても朝の8時過ぎ。実家で過ごしていた頃は、まだお屠蘇をいただいているような時間だ。
歳神様はご先祖様?
食いしん坊の私は、京都の白味噌の雑煮を初年度からひどく気に入ってしまった。冷え切った体に、染み渡る甘い雑煮。上からたっぷりかけた鰹節が温度差でゆらゆら踊る姿が本当に美しい。これなら三が日、飽きずに、むしろ進んで食べたくなる。そんなわけで、東京で過ごす間も頻繁に白味噌のお椀を作るようになった。おいしさを追求したい私は、より深みが出るようにと昆布と鰹節で出汁をひいた。あるとき、京都の雑煮はなぜ昆布出汁だけなのだろうと疑問に思った。考えてみたら若水に精進と、やや宗教色を感じるのだ。
正月は、そもそも歳神様を迎えるものではないか。神様の神饌はなまぐさものは大丈夫なはず。ということは…仏様?そう、どうやらそれは間違いではなく、実際のところはお盆同様に先祖をお迎えする行事であったようだ。だから京都では雑煮に昆布出汁を使い、人間だけ上から鰹節をのせていただくのだろう。
しかしなぜご先祖様ではなく、歳神様と呼んでいるのだろうか。そもそも日本人は、あらゆるところに魂が宿るとして八百万の神を信仰している。信仰というと大層だが、身近に神仏を感じていると言う方が自然な気がする。お天道様に恥じないように生きなければとか、鳥居を通り過ぎる時にお辞儀をしてしまうというようなこと。
正月行事の行われてきた旧暦の1月は今でいう2月頃に当たる。この時期は、旧年の収穫が済み、気持ちを新たにまた農業が始まる季節とも重なる。正月はその収穫を捧げ、お下がりをいただき新しい一年も食べ物に困らないように、収穫が上手くいくようにと祈る農耕民族にとって切実な願いを込めたものであったのだろう。それは身近なご先祖様に対してであり、また自分たちを生かしてくれている大自然という神に対してなのかもしれない。だから、先祖を含む大きな存在として習合させてしまい歳神様をお迎えすると言っているのではないか。
中村宗哲さんの漆の雑煮椀
器は中村宗哲さんの漆の雑煮椀だ。中村家は千家十職の塗師の家系で、千宗旦の次男(のちの武者小路千家の始祖、一翁宗守)の娘婿が初代という深いご縁で結ばれている。主人の実家では宗哲さんのお椀に、それぞれ異なる色使いや大きさの家紋が入っており、誰のお椀か一目でわかるようになっている。私のものも結婚した翌年の正月にはすでに出来上がっており、金の蒔絵で武者小路千家の女紋が入っているお椀を頂戴した時には感激した。このとき改めて、家族揃って健康に新年を迎えられるという奇跡に感謝をした。
今は東京で過ごす時間が多いが、それでもすでに白味噌雑煮が恋しくなっていることを思うと、私もおそらく将来はメンドクサイ京都人になっているのだろう。それだけの魅力がこの地にはあり、それは京都の人たちがどんな状況であれ粛々と行事を続けているからに他ならない。