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五月雨、晴れて常夏
五十雨は美豆の御牧の真菰草刈りほすひまもあらじとぞ思ふ 相模
塵をだに据ゑじとぞ思ふ咲きしより妹とわが寝るとこなつの花 凡河内躬恒
「この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)の欠けたることのなしと思へば」と詠んだ藤原道長(ふじわらのみちなが)が出家して、長子頼通(よりみち)が摂政のあとを継いだ。
家の栄華はまだまだつづいている。長元八(一〇三五)年五月十六日には頼通主催の歌合(うたあわせ)の会が盛大に開かれている。
歌合といっても権力者が主催のものだから、歌の出来ばえを競うだけではなく演出も大がかりであった。
左方(ひだりかた)と右方(みぎかた)に分けられた歌人はそれぞれに季節に似合わしい衣装の美に心をつかい、左方は撫子(なでしこ)の金物(かなもの)を打った飾り舟を仕立てて池より登場する。右方も美々(びび)しい飾り車に乗りこんで車の音も高らかに登場、というような劇的なもので、まるで源氏物語の胡蝶(こちょう)の帖の一場面を思い出させるような花やかさがあった。
季節は五月半ばであるから、歌の題は五月雨(さみだれ)、菖蒲(あやめ)、撫子、時鳥(ほととぎす)、蛍火(ほたるび)などである。藤原家のイベントとして記録に残るべき催しであった。
歌合の二番目は「さみだれ」の題である。まずは左方から読み上げられる。判者(はんざ)は三位大中臣輔親(さんみおおなかとみのすけちか)、当年八十二歳、そのたたずまいは年がらも加わり神さびた風情で、絵の中の人のようにすばらしい。女房たちは羅(うすもの)を撫子襲(なでしこがさね=表くれない、裏紫)にして着飾っていた。折ふし月が美しい宵である。講師(こうじ)が高らかに詠み上げた歌は女性歌人相模(さがみ)の歌。
五月雨は美豆(みず)の御牧(みまき)の真菰草(まこもぐさ)刈りほすひまもあらじとぞ思ふ 相模
(降り続く五月雨に美豆の牧場も濡れしおれて馬の姿もなく、菰むしろにもなる真菰草まで雨に浸[ひた]され、刈り干すひまもないことでしょう)
この歌が読み上げられた時、人々は皇室領の牧のすばらしい情景がすぐ眼に浮かび、これを雨の題材とした相模の才に感嘆して、賞讃の声が殿中に満ちたと伝えられている。
相模は相模守大江公資(さがみのかみおおえのきんより)の妻となり任地の相模まで同行。走湯権現(はしりゆごんげん)に初の百首歌(ひゃくしゅうた)を奉納した才女である。うっとうしい五月雨に光を一筋添えるように、美豆の御牧を詠みこんで新鮮な野趣と典雅を併せたのが手柄であった。
さて五月雨が上がるころ、人々は庭に咲く花として常夏(とこなつ)を楽しんだ。
源氏物語には常夏を題とした帖がある。美貌の玉鬘(たまかずら=夕顔の娘)への恋情に悩む中年の源氏の苦悩が描かれている。常夏とは今石竹(せきちく)と呼ばれている中国原産の花。当時はまだ珍しく上流の邸宅の庭に唐(から)の錦をみるように咲き誇っていた。
塵(ちり)をだに据(す)ゑじとぞ思ふ咲きしより妹(いも)とわが寝るとこなつの花 凡河内躬恒
(塵ひとつさえ寄せつけまいと大切に育てて、妻のように床(とこ)になつかしく思っている花。ですから、お分けできませんよ)
これは隣家から常夏を分けてほしいと頼まれた時の断りの歌。やわらかな、しゃれた下句の、相手に悪感情を起こさせないような物言いの巧みさは抜群。こんな歌とともに、実は少々根分けして贈ったのかもしれない。
馬場あき子
歌人。1928年東京生まれ。学生時代に歌誌『まひる野』同人となり、1978年、歌誌『かりん』を立ち上げる。歌集のほかに、造詣の深い中世文学や能の研究や評論に多くの著作がある。読売文学賞、毎日芸術賞、斎藤茂吉短歌文学賞、朝日賞、日本芸術院賞、紫綬褒章など受賞歴多数。『和樂』にて「和歌で読み解く日本のこころ」連載中。映画『幾春かけて老いゆかん 歌人 馬場あき子の日々』(公式サイト:ikuharu-movie.com)。
構成/氷川まりこ
※本記事は雑誌『和樂(2024年6・7月号)』の転載です。