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2025.06.16

徳川家康を助けて大奥へ!? 忍者の末裔「伊賀者」の正体とは

江戸城の大奥。そこは、将軍以外は立ち入ることのできない女の園……ではありますが、実は出入口近くの一部エリアには男性の役人たちも勤めていました。

警備を担当する役職には、戦国時代に徳川家康のピンチを助けたという「伊賀者(いがもの)」の名が。伊賀者とは漫画『忍者ハットリくん』でもおなじみの、伊賀国(いがのくに、現在の三重県西部)出身の忍者のことです。

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大奥の伊賀者は、見張り兼ボディガード

大奥は、御台所(みだいどころ、将軍の正室)や、将軍の子どもを生んだ側室が暮らす御殿向(ごてんむき)と、大奥女中たちが寝起きする長局(ながつぼね)、男性の役人たちが勤める御広敷向(おひろしきむき)とに分かれていました。

大奥に出入りする人や物を監視していたのが「御広敷番」です。御広敷番之頭という管理職の下、御広敷添番、御広敷伊賀者などの役職に分かれて働き、御広敷伊賀者は「七つ口」という長局と御広敷の境にある通用門を警備するかたわらで、大奥の女中たちが外出するときには付き添いもしました。

赤く色分けされている部分が長局で、薄茶の部分が御広敷。境目に七つ口がある
『江戸城本丸大奥総地図』出典:ColBaseより、一部をトリミング

幕府お抱えの伊賀者はスナイパー

伊賀者が働いていたのは、大奥だけではありません。
お城を守る鉄砲百人組は、伊賀組、甲賀(こうか)組、根来(ねごろ)組、二十五騎組の四編成。普段は交代で二の丸の百人番所に詰めて、大手三の門を守っていました。大手三の門は大手門から入って次の門。三の丸と二の丸の間にあり、登城する大名もここで籠を降りて先へ進んだので、別名を下乗(げじょう)門といいます。

また、将軍が上野の寛永寺や芝増上寺(いずれも徳川家の菩提寺)を参拝するときの警備も担当しました。有事のときには甲州街道を守り、将軍の江戸からの脱出を助けるのも役目だったと言われています。

伊賀者の身分は、武士の中では下級の与力・同心クラス。本来であれば将軍に直接目通りのできない、御目見(おめみ)え以下の御家人です。それなのに重要な任務を任されていたのには、ある理由がありました。

「伊賀越え」で家康のピンチを助けた

徳川家康の人生の中でも、指折りのピンチに数えられる「伊賀越え」。天正10(1582)年、本能寺の変で織田信長が討たれたとき、家康は信長の招待を受けて和泉国堺(いずみのくにさかい)、現在の大阪府堺市にいました。

信長という同盟者を失って、連れている家臣もわずか。明智光秀に追われて一時は死をも覚悟する家康ですが、家臣たちの説得を受けて伊賀の山を越え、領地である三河国(みかわのくに)への帰還を目指します。

そのときに家康の山越えを助けたのが伊賀国の地侍たちと、山を隔てた近江国(おうみのくに)甲賀の地侍たちでした。諜報活動や奇襲を得意として戦国時代に暗躍した彼らの一部が家康に仕え、のちに幕府お抱えの役人となったのです。

しかし、「伊賀越え」のときに伊賀者が家康を助けたというエピソードは、のちの創作ではないかとする説もあります。

『六十余州名所図会 伊賀 上野 (大日本六十余州名勝図会)』著者:歌川広重 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

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服部半蔵は忍者ではなく武士

ところで「伊賀忍者の頭領」というイメージのある服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさなり)は、家康の近臣十六将に数えられる武士です。伊賀者たちを統率する立場でしたが、彼自身は忍者ではありませんでした。

家康の天下取りを支え、江戸時代には甲州街道に面した門の前に屋敷を構えてお城の西側を守ったので、その門を半蔵門と呼ぶようになったという説があります。

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右下の、浅黄色の着物を着ている武将が服部半蔵
『江戸繪日本史』著者:佐藤求太 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

大奥の伊賀者は、ちょっぴりえらそう

さて、平和が260年も続いた江戸時代。ときの流れとともに大奥の「伊賀者」は忍者ではなく、すっかり幕府の役人になりました。

伊賀者は、本来であれば袴の着用を許されていない下級武士です。でも、御広敷伊賀者だけは大奥勤めだからという理由で、特別に羽織袴の着用を許されていました。

老中のような身分の高い人が大奥を訪ねてきたときには、御広敷添番も伊賀者も詰所の前に並んで礼をとります。冬になると詰所では火鉢を使っていましたが、火鉢をしまって並ぶのがマナー。でも、添番が火鉢をしまっても、伊賀者はしまいませんでした。

大奥の添番と伊賀者はどちらも御目見え以下ですが、幕府からもらっていたお給料は添番が100俵(およそ40石)に対して、伊賀者は30俵2人扶持(およそ15石)と、伊賀者のほうが下です。

それなのに伊賀者だけ火鉢を出していたのは、その昔、家康の妾(めかけ、しょう)だったみか殿という女性が冬の寒い日に、出入口の警備をしている伊賀者を気遣って、火鉢を与えてくれたことがあったから。

というのも江戸時代の初めには伊賀者の中でも年配のベテラン、言い換えれば寒さを気遣われるほどの老人が、大奥の警備を任されていたようなのです。そして、彼らはちょっと特別待遇を受けていた……。

家康はやはりいつかどこかで伊賀者に助けてもらったことがあり、その恩を忘れなかったのかもしれませんね。

大奥女中の警護をする伊賀者
『絵本婦女合世佳娥美 [3]』著者:歌川豊国 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

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アイキャッチ:『局政岡・仁木弾正・男之助・河津三郎・股野五郎・き世川・菖蒲前・頼政・井ノ隼太』より一部をトリミング 著者:歌川豊国 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

参考書籍:
『忍者の末裔』著:高尾善希(角川書店)
『江戸の隠密・御庭番』著:清水昇(河出書房新社)
『御殿女中』著:三田村鳶魚(青蛙房)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)
『江戸城物かたり』(東京市立日比谷図書館)
『岡崎市史 別巻中巻 徳川家康と其周囲』(岡崎市)

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大奥の岩内

昔は口が堅いと褒められましたが、座右の銘は「壁に耳あり障子に目あり」。大奥のあれやこれやを語ります。
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