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2026.06.13

「ういろう」の伝来は博多から?戦国時代の豪商らが眠る妙楽寺へ(ダイソンの寺社探訪―妙楽寺・福岡県)


静かだ。
とても静かだ。

目を閉じれば。
先ほどの街の喧騒がウソのよう。
駅前に押し寄せる人の波も、大通りを行き交う車の姿も。
何もかもが幻だったかと思うほど。

「静かだと。皆さん、そう言われますね。うちは博多駅の近くですけれども、参道が長いおかげで、外の車の音とかあまり聞こえないですね」とご住職。

そうなのだ。
まさか、ここが。
あの賑やかな博多の町の中だなんて。

そんな驚きから始まった、今回のダイソンの寺社探訪。
もちろん、これだけではない。
さらなる「新発見」が待っていたのである。

今回で5回目となる「ダイソンの寺社探訪」シリーズ。
訪れたのは、福岡県博多区にある臨済宗大徳寺派の寺。
JR博多駅から徒歩10分ほどの距離にある「石城山 妙楽寺(せきじょうざん みょうらくじ)」だ。

「石城山 妙楽寺」本堂

妙楽寺のある一帯は「博多旧市街」と呼ばれるエリア。
博多のメイン通り「大博通り」の東に位置し、中世から続く商人の町としても有名だ。中国や朝鮮半島など大陸との交流も色濃く残り、加えて、そこここに寺が点在する石畳の道を歩けば、まさに大都会「博多」の存在をすっかり忘れてしまうような趣がある。

その一角にあるのが、今回の取材先である妙楽寺だ。
うなぎの寝床を思わせる長い参道を抜けると。

妙楽寺の境内図

最初に目を引いたのが、正面にあるアートのような不思議な塀。「博多塀(はかたべい)」だ。
さらには、その隣にある意味深な石碑もじつに興味深い。
なんだか色々と気になるではないか。

ということで。
つい、ガツガツ先回りをしてしまったが。
今回の「ダイソンの寺社探訪」は、コチラの「石城山 妙楽寺」を徹底解剖。
歴史や見どころだけでなく、あまり知られていない仰天事実も併せて、早速ご紹介していこう。

※冒頭の画像は「石城山 妙楽寺」にある記念碑です
※本記事の写真は、すべて「石城山 妙楽寺」に許可を得て撮影しています

「石城山」という名前が示す意味

「うちは江戸時代でこの地に移ってきたんですけれども。それ以前は、海側の方にありました。戦国時代で(博多の町が)焼けて、江戸時代に黒田家が中津(大分県)から入ってくるのと一緒に、こっちに移ってくるんですね」

こう話されるのは、妙楽寺四十世「渡辺亮英(りょうえい)」氏。
平成29(2017)年に、新住職の就任の儀式である「晋山式(しんざんしき)」を経て、前住職より交代されたという。
今回の取材については、お父上であり前住職の「桂堂(けいどう)」氏も同席。おふたりで快く受けてくださった。

左から、妙楽寺三十九世「渡辺桂堂」氏、四十世「渡辺亮英」氏

「創建は1316年といわれています。鎌倉時代の末期ですね」とご住職。

想像していたよりも、かなり古い。
700年ちょっとの歴史があるというコトか。

「初代の住職が『月堂宗規(げつどうそうき)』というお坊さんなんですけれども。その方が海側に近いところに庵(いおり)を建てたのが始まりと言われてますね。ただ、大きな伽藍(がらん)など、本当にお寺らしい建物ができるのはその30年後です」

妙楽寺の説明によれば、月堂禅師は太宰府(だざいふ、福岡県)の生まれ。
幼い頃より観世音寺に出家得度されていたが、20歳の時に崇福寺の大応国師の弟子となり、のちにその法を受け継いだ人物だという。

妙楽寺や博多の歴史については、お父上の桂堂氏の方がさらに詳しいとか。
「今はもう埋め立てられて……博多の地形はだいぶ変わってね。昔は『櫛田(くしだ)神社』(の場所)は、大きな入り江で。海のすぐ横に川があって、船でないと出ていけないような状態だったんですよ」と桂堂氏。

鎌倉時代末期。
現在とは異なり、博多の繁華街のある場所は海であったとか。
そして、地形もさることながら、当時の博多はなんといっても「元寇(蒙古襲来)」の余波が未だ収まっていなかったという。

(一勇齋)国芳 「高祖御一代略図」「弘安四年上人利益濛㹿軍敗北」 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

確かに、2度にわたって蒙古が襲来したのは文永11(1274)年と弘安4(1281)年。
妙楽寺が創建される40年ほど前の出来事となる。

じつに、最初の「文永の役」で、日本には多大な被害が生じた。
この教訓から、鎌倉幕府は九州の御家人らに命じて博多湾沿岸に石塁を築かせる。当時はこれを「石築地(いしついじ)」と呼んだとか。現在でいうところの「元寇防塁(げんこうぼうるい)」である。

のちの発掘調査で、幅1~1.5m、高さ1.8mもの石を積み上げ、粘土で補強していることが判明。築かれた石塁は博多湾沿岸から太宰府、大野城市、春日市まで。なんと総延長は20km。その甲斐あって、2度目の襲来である「弘安の役」では、元軍の上陸阻止に役立ったとされている。

ちなみに、コチラは『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』の中の一場面。
後方にある石垣のようなものが「元寇防塁」だ。

『蒙古襲来合戦絵巻』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

そして、元寇後も。
武装した貿易船が往来する博多では、引き続き防塁の修理が行われていたという。
そんな石塁が築かれた一帯に建立されたのが妙楽寺の始まりとなる庵。

「昔は『元寇防塁』があって。石垣がずっと張り巡らしてあるから『石城山(せきじょうざん)』と。寺の名はそこからきとるとですね」と桂堂氏。

なるほど。
陸地からは分かりにくいが。
海上より陸地を望めば、防塁の上に建てられた庵が、まさに「石城」のように見えたのだろう。

「石城山 妙楽寺」の扁額

「石城山」と号した由来は。
まさかの日本史で有名な「元寇」と結びついていたのである。

「ういろう」の原点は博多?

さて、博多は古くから海外貿易で栄えた港町である。

「妙楽寺はその貿易港の横にあって。寺の建物も『寺』の用途だけでなくて、貿易商人とか、それに携わる人たちの宿舎になったり、今の言葉で言うと事務所みたいになったりと。多目的に使われたんですね」とお父上の桂堂氏。

そんな博多へ大陸から来るのは、なにも貿易商人だけではない。
留学僧や、さらには国から逃れるために来た人たちも。

「中でも有名なのが『ういろう』の方ですね」とご住職。

そういえば。
参道を抜けた正面に立つ石碑には「ういろう伝来之地」という文字が刻まれていた。

妙楽寺の「ういろう伝来之地」の石碑

「ういろう」って、
あの、もちっとした和菓子のコトだろうか。

以前、名古屋に住んでいたが。
「ういろう」は名古屋名物として有名だったはず。いや、他にも山口県や神奈川県の小田原も同じく有名のようだが。
ここに来て縁もゆかりもない「博多」が、どうして「伝来の地」として出てくるというのか。

「元と明が争って、元から明に変わる時代ですね。その時に元の役人だった『陳延祐(ちんえんゆう)』さんという方が、日本に亡命してきたと言われてます」

ご住職の説明が続く。
「『ういろう』っていう名も、元々は中国の役職らしいんです。ういろうは『外郎』って書きますけど、その上に『員(いん)』を書いて『員外郎』というのが役職名らしいんですよね。正式には『礼部(れいぶ)』という部署などの機関名をつけて『礼部員外郎』。(役職には)定員があって、定員から外れた役職を『外郎』や『員外郎』と呼びました」

さらに驚くべき情報が。
「この日本に来た陳延祐さんですが、じつは役職だった『外郎』を名前として通すんですね。(陳延祐でなく)『陳外郎(ちんういろう)』と。さらに、今ではそれが苗字になって『外郎家(ういろうけ)』となってるんですよね」

つまり、私たちが普段呼ぶ「ういろう」という言葉の由来は……。
元は昔の中国の役人の役職名。それも定員オーバーした役職の名だったというのである。

妙楽寺四十世「渡辺亮英」氏

「『陳外郎(ちんういろう)』さんは亡命して、博多、それも妙楽寺に住むようになって。その頃は室町時代ですから、その一族が足利将軍に気に入られて、京都に移り住んで、そこからさらに小田原に行くっていう話があるんですよね」

ふむ。
なんだか、話が一足飛びでよく分からないぞ。
彼が亡命して妙楽寺に住むところまでは分かる。
だが、小田原へ?
いや、その前に、そもそもどうして、彼もしくはその一族が将軍に気に入られるに至ったのか。

横から桂堂氏の補足説明が入る。
「陳さんは色々、薬とかも処方できるお医者さん、儒医っていうんですかね。今で言うたら漢方医でした。『ういろう』っていうのは『薬』です」

より詳しく聞くと。
陳延祐という人物は漢方医のような特殊スキルを持っており、薬を調製することができたという。桂堂氏曰く、特に彼の「透頂香(とうちんこう)」という薬は、かなり効き目があったとか。だからこそ、かの将軍、足利義満も大絶賛。京都に邸宅を与えられるほどというから、陳一族の薬はかなり重宝されたのだろう。

この「透頂香」という薬だが。
代々子孫が調製法を受け継いで。
のちに「外郎(ういろう)」と称して京都、さらには小田原でも売り出したという。

「歌舞伎の演目に『外郎売(ういろううり)』っていうのがあります。アナウンサーの新人の人たちは、それを覚えさせられるらしいですけどね。ういろうを売る時のセリフが、結構、早口言葉で。なんか難しいんですよね。滑舌の練習というかですね」とご住職。

春仙 畫 『春仙似顔畫集 : 創作版畫2』 渡辺版画店 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

調べてみると、確かに歌舞伎十八番のひとつに「外郎売」の演目がある。
享保3(1718)年に2代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)が初めて演じた演目。ここでの「外郎」の説明は「中国から渡ってきて小田原で売り出された薬」とある。喉に効き目があり、頭がすっきりして、口の動きもよくなる効能があったとか。

「江戸時代ですね、本当に(外郎という薬は)売られてたらしいんですよね。で、2代目市川團十郎が、具合が悪い時にその薬を飲んで、調子が良くなったと。その恩返しということで、『外郎売』の演目を作って、今に至ってるらしいんですよね(諸説あり)」

「で、これがその薬のういろう」
お父上の桂堂氏から渡されたのは、小さな箱。

「今も売ってますね。小田原で薬も作ってるし。(ここでは)お菓子のういろうも売ってるそうですよ。私は行ったことはないんですけど。これは行った人から貰ったもの。電話して送ってくれって言っても送ってくれない。直接行って並んで買わないといけないみたいですよ」と桂堂氏。

小田原で売られている薬の「ういろう」

コチラの「ういろう」という薬。
なんでも仁丹のような銀の丸い粒の形をしているという。
いやはや、まさか現在まで「ういろう」の薬が存在するとは思いもしなかった。
予想外に、秘法が脈々と受け継がれて……?
思わぬ歴史の繋がりに、つい唸ってしまった。

「『ういろう』とは元々は薬で。現在のお菓子の『ういろう』が、具体的にいつの時代から出たのかは、じつは定かではないんですよね。ただ、(妙楽寺がういろう伝来の地だとは)江戸時代の書物にも書かれているみたいですね。とは言っても、これには諸説あるようで。小田原の方でも、鎌倉に来た中国の偉い和尚さんが持ってきたっていう話もありますから」

なるほど。
こうして各地に言い伝えが残るのであれば。
ういろうの伝来ルートがひとつではなかった可能性も僅かながらある。

ただ、いえるのは。
「陳延祐」氏、いや「陳外郎」氏が妙楽寺に滞留した事実は疑いようがない。
あの「ういろう」の伝来の地が博多だったとは。
またしても、妙楽寺に驚かされたのであった。

絶対に外せない!博多塀と豪商の墓

最後に。
駆け足となるが、妙楽寺のみどころをあとふたつご紹介しよう。

博多塀

まず、おススメしたいのが。
冒頭でご紹介した個性的な塀。
「博多塀(はかたべい)」である。

妙楽寺の正面にある、再現された「博多塀」

「戦国時代に焼けた瓦とかで作った塀のことを『博多塀』と言いますね」とご住職。

ならば……。
うん?
にしても、この正面の「博多塀」は妙にキレイすぎやしないか。

「正面にあるのは、もう10年ぐらいになるかな。私が作った……」とお父上の桂堂氏。

あ。
やっぱり。
道理で。

「古い瓦を私が保存していて、それを使って塀を作ったんです。そしたら表からも目立つような塀になって。(参拝客から)写真なんかも撮られてね。これは幅も短いですからね、丁寧に作ることができたけども。長いと、そうはいかんですよね。それだけの材料も揃いませんからね」

もちろん、妙楽寺には古い博多塀も残存するという。
それがコチラ。

コチラが古くから存在する「博多塀」

開山堂というお堂の裏手にある「博多塀」。
実際に拝見すると。

あ。
やっぱり。
何かが違う。

時間の流れの重みなのか。
いや、それにしても。
正直、もっと劣化しているかと思ったが。意外とコチラもしっかり残っていて驚いた。

じつは他にも似たような塀があるという。
「朝鮮にもあるし。堺にもね。ちょっと形式が違う。瓦そのものをびっちり積んで。博多塀は間に石がこうして入ってますけど、堺とかの塀は、本当に瓦と土だけで積み上げてね」と桂堂氏。

「博多塀」

よく見ると、確かに瓦以外のモノが。
大小様々な石である。
それがまた独特のアクセントになっていて面白い。

「本当の博多塀、江戸時代からの塀が残ってるのは、うちと隣の聖福寺さんかな。もう禅宗のお寺ぐらいしかないですね。だから私も極力、古い塀を残そうと思って残したんですけど」と桂堂氏。

歴史的にみても、非常に貴重な「博多塀」。
妙楽寺に立ち寄る際は、是非とも見学をおススメしたい。

豪商の墓

次にご紹介するのは、妙楽寺の本堂裏手にある広大な墓所から。

福岡藩藩主であった黒田家の家臣や藩医らの墓がズラリと並ぶ中で。
一際目立つ墓石がある。
それが博多豪商「三傑」のひとり、「神屋宗湛(かみやそうたん)」の墓である。

「宗湛」という名は、出家後の号である。
ちなみに、彼が一代で財を築いたワケではない。
曽祖父である「寿禎(じゅてい)」が明で銀精錬の新技術を学び、その後、石見銀山を開いて巨万の富を築く。その曽孫にあたる宗湛も、豊臣秀吉の保護を受け、中国や朝鮮、南方諸国と交易し、莫大な財を成した。

博多に関していえば。
戦国時代に焼き尽くされ、荒廃した博多の町の復興に尽力。
秀吉の「太閤町割(たいこうまちわり)」と呼ばれた区画整備に、宗湛は協力している。
そんな彼の墓所がコチラ。

神屋宗湛の墓

まあ、なんと表現すればいいのか。
「墓石」という概念をあっさり超越した、もはや巨石の類である。
少し反り気味の独特のフォルム。とにかく迫力がすごい。

これを墓石にしようというアメージングな発想。
やはり、これこそが、貿易で財を成した神屋宗湛のスゴさといえるだろう。

そんな宗湛の墓がどうして妙楽寺にあるのか。
「昔、妙楽寺があった場所の隣に『神屋宗湛』の屋敷があったんですよ。『島井宗室(しまいそうしつ)』という豪商の屋敷もその近くにあって。まあ、一種のスポンサーというか。妙楽寺が焼けて、この地に移転させる時に(宗湛らが)主力になった人だと思うんですね。あと、宗湛は貿易商人ですからね。昔の妙楽寺もすぐ隣に港がありましたから。妙楽寺と神屋宗湛の関わりは昔から深かったと思うんですね」とお父上の桂堂氏。

さらに、意外な事実を教えてくれた。

「宗湛の墓石はね、当時のまま。途中で建て直したとかじゃなくて。これには、朝鮮から持ってきた石だという説がありましてね。だいたいどこの石だって分かる、すごい学者の人がおられたけども。見てもらったら、やっぱり(場所の)特定はできないと言われた」

墓石そのものにも驚いたが。
もしその説が本当ならば、遠く離れた朝鮮の地からわざわざ墓石を持ち込むあたり。
さすが凡人ではない思考なのだろう。

最後の最後まで驚かされた、今回の「ダイソンの寺社探訪」。
こうして無事に取材を終了した。

取材後記

取材前、カメラマンに、どうして妙楽寺を選んだのかと訊かれた。

取材対象を選定する基準は人それぞれ。
正直なところ、妙楽寺にはパッと目を引く派手さはない。
なんなら、近くには観光バスが止まるような有名な寺も幾つかある。
だから、「なぜ」と訊かずにはいられなかったのだろう。

ただ、結果からいえば。
個人的には狙い通りの大満足。

現在ではあまり知られていない「博多」の歴史。
大陸との懸け橋となり、貿易の拠点であった博多。
元寇で被害を受けた博多。
戦国時代に活躍した豪商が集まる博多。

そんな博多の埋もれた歴史を体感できるのはもちろんのこと。
初っ端の「静けさ」から始まり、小さな驚きが随所にあって。
その「意外性」の連続が、かなり私の感性に刺さったといえる。

取材後。
口数の少ないカメラマンが「なるほど」の一言。
静かに歴史に寄り添う時間を過ごしたいなら。
知る人ぞ知る「石城山 妙楽寺」で間違いない。

撮影/大村健太

基本情報

名称:石城山 妙楽寺
住所:福岡市博多区御供所町13-6公式webサイト:https://hakata-myorakuji.com/

「ダイソンの寺社探訪」シリーズ一覧はこちら

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Dyson 尚子

京都出身のフリーライター。北海道から九州まで日本各地を移住。現在は海と山に囲まれた海鮮が美味しい町で、やはり馬車馬の如く執筆中。歴史(特に戦国史)、社寺参詣、職人インタビューが得意。
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