どんな偉人であれ〈老い〉からは逃げられない。長寿をまっとうしたシニアたちは、死に向かう自分の体とどう向き合っていたのだろう。江戸時代のシニア世代の生活と養生について書かれた『老人必要養草』(1716)を手がかりに、その実態を探ってみよう。
江戸の人は短命? それとも長寿?
香月牛山『藥籠本草 3巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
『老人必用養草(ろうじんひつようやしないぐさ)』は、表題のとおり老人の生活と健康について書かれた本である。この本が書かれた江戸時代、人びとの寿命は40歳ほどだった。当時は、はしかなどの感染症が流行すれば、ひとたまりもなかったし、乳幼児の死亡率もかなり高かった。栄養不足や衛生状態も今とはくらべものにならなかっただろう。
作者の香月牛山(かつきぎゅうざん)は医者だ。全五巻からなるこの本には、飲食、衣服、住居、健康、病とその治療法にいたるまで、幅広い内容がまとめられている。
もしかすると、滝沢馬琴(享年82歳)や伊能忠敬(享年74歳)もこの本を読んでいたかもしれない。なんたって長生きしたければ読んでおいて損はない、日本初の専門的な老人保健医療書なのである。
人に頼らず(できるだけ)自立し、元気に老後を送るにはどうすればよいのだろう。
これは現代にも通じる問いだ。その答えが、ここには書かれている。
好色は控えめに
いきなりこんな話で恐縮だが、性欲と食欲は人間の基本的欲望の二本柱である。なにも私が言いだしたんじゃない。この本に、そう書かれているのだ。「飲食好色の二つの欲は、共に人の大欲なり」と。
性欲については、さらにこう説明されている。「男女の欲望は基本的で重要」なものであり、「食欲とともに車の車輪を為すものといえよう」。
とはいえ若いときほどではない、という人もいれば、年老いてもまだまだ精力旺盛という人もいるだろう。ただ、色欲は慎まなければいけない(これも私が言っているんじゃない、念のため)。
年老いても生まれつき精力旺盛で、性交渉を一ヶ月慎めば、気が鬱滞して頭痛がし、頭や顔に吹き出物が出て、体が腫脹するような者もたまにいる。このような人が無理に性欲にしたがえば、必ず卒中風になったり、急死したりする。(『老人必要養草』巻四)
人は誰しも、老いれば気力と体力が衰えていくものだ。こればかりは逆らえない。だからといって、性欲が衰えたことを嘆いてむやみに回復薬を使うのは避けたほうがいい。血気がますます減少して死にかねないからだ。香月牛山先生の診断によれば、欲望をおさめて、ふつうのシニアになることが病にもならず、長寿をまっとうする秘訣なのだという。
そうは言っても、一人で眠るのが寂しい夜もある。そんな時には、若くてふくよかな女性を左右に寝かせて、つまり添い寝をしてもらいなさい、とこの本は説いている。なんとも甘い夢が見れそうだ。患者に寄り添った、いいアドバイスだと思う。
食べること
さて、この本には、もうひとつの欲望である食べることについても書かれている。食べることは生きるうえでなにより重要である。とはいえ、好きなものを好きなだけ食べてはいけない。シニアは量を守り、なおかつ食べる時間帯にも気をつけなくてはいけない。
老人は朝食を一合五勺、これを二杯にして定量とすべきである。日が長いときは昼食を摂るようにする。朝食の半分でよい。夕食は朝食よりも消化しにくいので、朝食の三分の二でよい。夜食は夜遅くまで起きているときだけ食べる。(『老人必要養草』巻二)
朝夕の食事としておすすめされているのが、お粥だ。それから、魚や鳥の肉も推奨されている。
老人に効果のある鳥肉は鶉(うずら)、雲雀(ひばり)、鳩、鶏、鴨、雀、雁、鶴、鷺の類の肉を薄く切って煮たものを食べる。これらの肉は濃厚でもなく、淡泊でもない。わが国の老人の脾胃にふさわしい味で、その血液を補う効果がある。なかでも鶏肉はとくに補益の効果が高い。(『老人必要養草』巻二)
この本によれば、シニアは牛肉を食べるのを控えたほうがよいらしい。食べてはいけないものはほかにもある。たとえば、うどんや素麺などの麺類は気のめぐりが悪くなるからダメ。生もの、冷たいもの、粘り気のあるもの、油揚げ、脂っこいものはすべてダメ。
とはいえ香月牛山先生も、やみくもになんでもかんでも禁止しているわけではない。これにはきちんと理由があって、消化に悪いとか、胃腸の負担になるとか、下痢になりやすいから、などしっかりと説明がなされている。患者の体を思っての、理にかなった食事制限なのである。
着るものと住むところ
老人が寝るときは細糸で織った紬の肌着を着せるとよい。温かく寒気を防ぐ絹の類、あるいは沙綾、倫子などは、身体に密着し皮膚を閉じるので、気をふさぎ熱を出し汗をかきやすくする。汗をかき衣服の裏が湿ったら、すぐに着替えたほうがよい。着替えずに乾くと、その湿気が皮膚に入って病気となる。高貴な人や裕福な人も、寝るときは紬の肌着を着るとよい。その効果は非常に大きい。(『老人必要養草』巻三)
夏は涼しく冬は暖かく、というのは健康の基本だが、紙衣(かみこ)と呼ばれる和紙で作られた衣服も健康によいそうだ。どうやら「気血」の働きが関係しているらしい。
本書にしょっちゅう登場する「気血」とは、東洋医学における重要な概念で健康の源でもある。気血のためには、住むところにも気を付けたい。この本によると、お年寄りの部屋は家の中央のいちばん静かな場所に設えるのがよいという。
運動をしましょう
気が整えば、健康が保たれる。となれば、身体を休めるだけでなく動かすことも重要になってくる。しかし、激しい運動は禁物。そこで本書がおすすめしているのが、簡単なストレッチである。
年老いたら手足をしっかりと撫でさすり、気血をめぐらすようにする。寝る前に手足の指の曲げ伸ばしを十数回するとよい。寝るときに、膝から下、すねから土踏まずまでを、撫でさすってもらうとよい。(『老人必要養草』巻四)
冬は要注意だ。生気がこもって外に出にくくなる寒い季節は、さするのはあまりおすすめできない。体をさするのは時々にして、後ろを向いたり、熊のように、のしのし歩くのもよいとか。
また、自ら気血をめぐらす方法を学んでおくことも重要だ。人に任せるのではなく、気の経路や「つぼ」について知識を深めておくように、と、厳しく指摘してくるあたり、なんとも医者の書いた本といったところ。自分の健康は自分事なのだから、手法もきちんと自己責任で身に付けなくてはならないのである。
健康の秘訣は退屈?
老人は何もすることがないので、朝起きて前述したように、手を洗い口をすすぎ、東南の陽気を受けて坐り、香をたいて鎮座し、よいことを思い、邪念を去り、気息を調え、呼吸を数え、しばらくして朝食を食べ、酒を飲む人はほろ酔い加減にのみ、楊枝で歯間の汚れを取り、口をすすぎ、正坐する。老人は食後かならず眠気が生ずるので、なんでも自分が好きなことをして眠気をはらし、眠らないようにする。一時間ばかり経ったら、杖をついて庭などを歩き、食気をめぐらすようにする(『老人必要養草』巻三)
「老人は何もすることがない」というのは余計なお世話だが、『老人必要養草』が推奨する生き方はなんとも悠々自適、心のおもむくまま、ゆったりとした一日の過ごし方である。
朝起きて身を整えたら、楽しいことだけを考え、お酒を飲んだっていい。あとは散歩にでも出かけましょう、といった具合だ。それだって、歩きすぎてはいけない。「家の中を百歩ほど歩くとよい」そうで「あまり疲れ過ぎたり、耐え難いようなきついことを無理にしてはならない」とも記されている。
歩くのは健康のためでもあるが、気を巡らせるのが目的でもある。流れる水が腐らないように、人の体もすこし動けば気が巡り、反対に動かずにいると気が滞って病気になる、と考えられていたからだ。
同じような理由から、呼吸を整えることも大切とされていたらしい。口をすすぐようにしきりに促しているのも、体に新しい気を取り入れるためだろう。とにもかくにもシニアたるもの、健康のためには気の循環が欠かせない。
老後を生き抜くヒント
『老人必用養草』がおもしろいのは、シニアに向けてだけではなく、その世話をする家族や疾病を治療する医療者にたいしても分かりやすく書き記されていること。
なかには「眠る前に焼き餅をすこし食べて燗酒を飲んで寝るとトイレに起きることがない」なんて眉唾物の情報もあるけれど、香月牛山先生はいたって真面目だ。常備薬についての情報、便秘の対処法、頻尿の悩みにも寄り添ってくれる、ありがたい本なのである。
なにせ三百年も前に書かれた本である。儒教道徳や漢方医学に基づいていることもあって、現代人から見ると不思議に思う点もかなりある。
ただ、江戸時代のシニアは病気のときにどんな看護をうけていたのか、健康的な生活のために気を付けていたことを明らかにしてくれる『老人必用養草』は、当時の医療を物語る資料としてとても貴重な資料であることはまちがいない。
おわりに
たとえ時代はちがっても、人の生き方の本質は江戸時代も現代も変わらない。人は皆、生まれた瞬間から死に向かって生きている。それだから、人生は大きな意味をもつのだ。
香月牛山先生の保養観のモットーは、天寿を全うすること。「天下にも代え難き貴重なものは寿命である」と述べているくらいである。そして、人間の寿命は百歳くらいが限度であるとも考えていた。平均寿命が40歳の時代に、ずいぶんと先を見据えていたと言わざるを得ない。
【参考文献】
香月牛山「老人必用養草 老いを楽しむ江戸の知恵」農山漁村文化協会、2011年