Culture

2025.06.24

大河ドラマ『べらぼう』で注目。大奥はどこにあったのか? 江戸城大手門から本丸御殿跡を歩く

2025年の大河ドラマ『べらぼう』でも、大奥のシーンがたびたび登場します。従来、大奥をテーマにした映画やドラマ、コミックなどでは、将軍の寵愛をめぐる、どろどろとした愛憎劇が描かれてきました。一方で大奥は、最高権力者である御年寄(おとしより)以下、一説に2,000~3,000人の女性たちが整然と立ち働く、機能的な組織でもあります。ここまでは、和樂webをご愛読の皆様にはおなじみの話かもしれません。和樂webには、そんな大奥にまつわる記事が豊富にあります。ところで……。

江戸城大奥が実際にどこにあったのか、現在どうなっているのか、についてご存じでしょうか。「江戸城跡は現在、皇居なので、立ち入りできない」と思っている人も時々いますが、大奥があった本丸跡は、自由に見学できます。ただし、当時の本丸御殿は現存しておらず、予備知識なしで訪れても、大奥の場所を特定することは難しいでしょう。そこで本記事では、現在の本丸跡において、かつての大奥の位置をおよそ把握するためのちょっとしたポイントと、江戸城の正門というべき大手門から歩いて本丸に至るまでの、かつての厳重な守りなどについても紹介します。当時の江戸城のリアルを、ぜひ記事上で疑似体験してみてください。

四番町の謎の石碑

私ごとながら以前、通勤で都内の市ヶ谷駅を使っていたことがありました。私が利用していたのは都営新宿線でしたが、駅のA4出口から地上に出て、南へ約150mのところ、JR市ヶ谷駅からだと南東に200m余り。二七(にしち)通り沿いの千代田区四番町のマンションが立ち並ぶ一角に、不思議な石碑が建っています。石碑にはこう刻まれています。

「御本丸大奥 御武運長久 西御丸大奥」

要は本丸大奥、西の丸大奥の繁栄を願う、という意味です。

「なぜこんなところに、大奥の石碑が?」

たまたま通りかかって石碑を見つけた時、驚くとともに、「なぜ?」という疑問が湧きあがりました。付近は江戸時代、旗本屋敷が連なっていたはずですから、旗本が徳川将軍家の繁栄を願って、自分の屋敷の庭に建てたものでしょうか。調べてみると、石碑には幕末に近い弘化4年(1847)に、これを建てたと刻まれているようです(碑の裏側にあったのか、自分の目で確認できていません)。弘化4年は、徳川12代将軍家慶(いえよし)の時代。大河ドラマ『べらぼう』に登場する、11代将軍家斉(いえなり)の息子です。また当時、西の丸には将軍の跡継ぎとして、家慶の息子家定(いえさだ)が入っていました。のちの13代将軍家定で、その正室が、薩摩藩から迎えた篤姫(あつひめ)です。なお、この石碑が建つ場所に屋敷のあった旗本は、石碑と直接の関係はなく、後世にここに運ばれた可能性が高いようで、千代田区は、詳細は今も謎であるとしています。
「御本丸大奥」と刻まれた石碑。どこから運ばれてきたものなのか

それはさておき、石碑には本丸大奥と並んで、西の丸大奥と刻まれています。実は江戸城内には本丸だけでなく、二の丸と西の丸にも御殿があり、それぞれ大奥がありました。つまり江戸城内に大奥は3か所あったのです。西の丸大奥には将軍の跡継ぎ、つまり次期将軍とその妻子、あるいは将軍を引退した大御所とその妻子が入り、二の丸大奥には将軍の生母や、前将軍の御台所、側室が入りました。とはいえ一般的に大奥といえば、将軍の本丸大奥を指します。
ではさっそく、かつての江戸城大奥を目指して、出かけてみましょう。

江戸城の中心部

江戸城の正門である、大手門。交通機関の最寄り駅は地下鉄大手町駅で、C10もしくはC13出口から徒歩5分ほどです。また東京駅丸の内方面出口からだと、徒歩10分程度の距離になります。大手門が建つのはかつての江戸城三の丸で、現在の皇居東御苑(ひがしぎょえん)の東側の出入口です。東御苑はかつての江戸城の中心部、三の丸、二の丸、本丸にあたり、自由に見学が可能。また東御苑の出入口として大手門の他に、北の平川(平河、ひらかわ)門(三の丸)、北西の北桔橋(きたはねばし)門(本丸)の3か所が使われています。
皇居東御苑(国土地理院地図を加工)

大手門をくぐる前に、現在の皇居、かつての江戸城中心部の全体像を確認しておきましょう。江戸城中心部は大きく4つのエリアから成ります。天皇がお住まいの御所のある吹上(ふきあげ)御苑、その東側の東御苑、二重橋前広場のある皇居外苑、日本武道館などがある北の丸公園です。吹上御苑以外は、ほぼ自由に見学できます。また周囲を取り巻く内堀(うちぼり)に沿ってランニングする人も多く、1周約5kmといわれます。
皇居

4つのエリアは、江戸城の現役時代にはいくつもの区画に分かれていました。たとえば東御苑は本丸、二の丸、三の丸という区画に分かれており、いうまでもなく本丸が江戸城の中枢です。また現在、御所のある吹上御苑には、吹上曲輪(ぐるわ)、山里曲輪(やまざとぐるわ)、西の丸などがあり、どちらかというと庭園などになっていた場所でした。さて、本丸、二の丸、吹上曲輪といった名前が出てきましたが、丸や曲輪とは、何でしょうか。曲輪とは、城の内部の区画をいいます。もし敵が城に侵入してきても、中心部までに多くの区画を作っておけば、敵はなかなか先に進めません。その間に敵にダメージを与えて撃退するという、簡単に突破させないための工夫です。特に中心部の重要な曲輪である本曲輪、二の曲輪、三の曲輪を、江戸時代頃から本丸、二の丸、三の丸と呼ぶようになりました。曲輪も丸も、意味合いは同じです。曲輪と曲輪の間は、堀や石垣、土塁などで仕切られていて、たとえば三の丸が落ちても二の丸で防ぎ、二の丸が落ちても本丸で防ぐことができる構造になっています。
江戸城中心部

最強の防御施設「桝形虎口」

では、濠(ほり)に架かる大手門橋を渡って、大手門に向かいましょう。濠は橋の北側が大手濠、橋の南側が桔梗(ききょう)濠と呼ばれ、大手濠の幅は48m、桔梗濠は大手門の前で広がっていて、80mもあります。橋を渡り、門の手前で警察官による手荷物検査を受けた後、入苑。なお現在の大手門橋は土橋ですが、かつては木橋で、橋の手前に「下馬(げば)」の立て札がありました。これは騎乗の者に馬から下りるよう命じるもので、大名以外の従者はすべて、徒歩で橋を渡らなければなりません。また従者の数も、たとえば10万石以上の大名の場合、武士が6人、他が7人程度に制限され、他の家臣は大手門の外で主君の下城を待つことになります。大手門は江戸城の表門であり、将軍はもちろん、諸大名や京都からの勅使が登城する際も、大手門をくぐりました。
大手門橋と大手門。手前の二の門(高麗門)は江戸時代のもの。右奥に見えるのが巨大な一の門(渡櫓門)

さて、大手門に限らず、江戸城の主要な門はすべて石垣で方形に囲まれており、そこに門は2か所設けられています。最初の外側の門(二の門)は小ぶりな屋根のついた高麗(こうらい)門で、門をくぐると石垣に囲まれた方形の空間になっています。大手門は30m四方ですが、これを「桝形(ますがた)」と呼びます。そして高麗門から見て90度曲がった先に、渡櫓(わたりやぐら)という長屋状の建物が載った頑丈な櫓門が現れます。大手門の場合、右に曲がった先で、櫓の長さは48m。これが2つ目の門(一の門)でした。周囲の桝形の石垣上には土塀(どべい)がめぐり、狭い桝形内に攻めこんだ敵は直進できず、櫓門の櫓と、石垣上の土塀に開いた狭間(さま、銃眼のこと)から城兵の集中砲火を浴びて、殲滅(せんめつ)されることになります。城の出入口は「虎口(こぐち)」といいますが、桝形を備えたこうした出入口は「桝形虎口」と呼ばれ、江戸城における最強の防御施設でした。大手門は10万石以上の譜代(ふだい)大名が交代で警備し、常時、10人の番士が詰め、鉄砲30挺(ちょう)、弓10張(はり)、長柄槍(ながえやり)20筋(すじ)などが常備されていました。なお大手櫓門は昭和42年(1967)の復元ですが、高麗門は江戸時代当時のものです。
大手門の渡櫓門。侵入してきた敵は、櫓内や周囲の石垣上から弓や鉄砲の猛射を受ける

下乗門と百人番所

大手門をくぐると、三の丸です。門を出て左に進むと、右手に皇室に伝わる美術工芸品類を展示する三の丸尚蔵館(しょうぞうかん)、左手に売店。さらに70mほど直進すると、道の左右に石垣があります。下乗(げじょう)門(大手三の門)の跡で、かつては石垣の前に幅36mの水濠があり、木橋が架けられていました。水濠が三の丸と二の丸を分けており、下乗門はその境目を守る門で、石垣は大手門同様、桝形に組まれた桝形虎口です。
下乗門はその名の通り、駕籠に乗って大手門を通過した諸大名も乗物を下り、これより先は徒歩での登城になるからでした。下乗門を駕籠に乗ったまま通ることができるのは、勅使、徳川御三家、加賀前田家などに限られていたといいます。また10万石以上の大名の場合、大手門を入る際は従者として武士が6人、その他7人程度が許されたと前述しましたが、下乗門で人数がさらに絞られ、この先、従者として許されるのは武士3人、他が3人程度でした。
下乗門の高麗門跡。ほとんどの大名はここで駕籠を下り、供の数も減らされる

下乗門跡の桝形虎口には現在、高麗門も櫓門も残っていませんが、巨大な石を積んだ石垣が、当時の威容を伝えています。また、桝形内には小ぶりな江戸時代当時の建物があります。「同心(どうしん)番所」で、下乗門を通る者を監視する、下級役人の同心らが詰めていました。なお、かつて周囲の桝形の石垣上には、塀ではなく、長屋状の櫓である多聞(たもん)櫓がめぐっており、いざというときには、櫓内からも敵に攻撃を加えることのできる、厳重な守りでした。
桝形内に現存する同心番所。番所は桝形の外、橋を渡る前の三の丸側にもあった
下乗門の桝形。左側の大きな石垣が下乗門渡櫓門跡

同心番所を右手に見て、左の櫓門跡から下乗門の桝形虎口を抜けると、二の丸です。左側に、細長い建物が見えてきます。「百人番所」です。これも下乗門を二の丸側から警備するためのもので、また本丸に向かう大名を改める場所でした。番所には鉄砲百人組と呼ばれた伊賀(いが)組、甲賀(こうか)組、根来(ねごろ)組、二十五騎組が交代で詰め、常時、与力(よりき、同心の指揮官)20人、同心100人が配置されていました。百人番所は全長50m近いもので、番所建築としては国内最大の規模です。かつては西側に供侍(ともざむらい)と呼ばれる長屋もあり、下乗門で随行から外れた大名の家臣らは、供侍で主君の帰りを待ったといいます。
二の丸百人番所。江戸城内最大の検問所といわれる

中の門と大番所

百人番所前から本丸に向かうには、現在、左右2つのルートがあります。右に向かえば二の丸庭園を経て、汐見坂(しおみざか)門跡からいきなり本丸大奥跡付近に出ますが、二の丸御殿を突っ切るこの登城ルートは、江戸時代の諸大名は当然ながら使用できません。そこで、かつて諸大名がたどった中(なか)の門を経て、本丸御殿を目指す左のルートを進みましょう。
百人番所(左)と中の門石垣(右)

百人番所南端からおよそ35m。左右に整然と積まれた巨石が中の門跡です。二の丸と本丸の境に建てられていた門で、かつては巨大な渡櫓が石垣の上に築かれていました。中の門は桝形虎口ではありませんが、下乗門の櫓門から大きく90度に曲がった位置にある中の門は、周囲の石垣とあわせて、全体で巨大な桝形を構成していたと見ることも可能、という説もあります。
中の門跡の巨大な石垣。石垣下には扉柱の丸穴が開いた礎石が残る

そして中の門を過ぎると上り坂となり、すぐ右手にまたも番所。大番所です。これまでの3つの番所の中でも、最も位の高い与力・同心が詰めて、中の門を警備していました。建物は再建されたもので、ルート上からはわかりにくいですが、西側(向かって左)が、かぎ状に折れた逆L字型になっています。大番所から先が、いよいよ本丸です。
大番所。葵の紋が刻まれた鬼瓦が残る

御書院門の威容

大番所前から、さらに坂を上ります。坂になっているのは、本丸が台地の先端に築かれているからでした。右手は高い石垣で、本丸の高さを物語っています。ほどなく、巨石を積み上げる石垣の角(かど)が見えてきます。本丸御殿に至る前の最後の関門、御書院(ごしょいん)門跡の桝形虎口です。御書院門は、中雀(ちゅうじゃく)門とも称しました。角を右折すると、二の門(高麗門)がかつてはありました。御書院門桝形の最大の特徴は、南側の石垣の左右(東西)に、2基の二重櫓が並び建っていたことです。これは江戸城内でも珍しく、本丸御殿手前の最後の虎口ということで、通過する諸大名に威容を示すねらいであったといわれています。残念ながら、現存していません。
御書院門桝形虎口。かつて左側の石垣の手前と奥に、2基の二重櫓が建っていた

高麗門跡を過ぎ、桝形内に入ると、突き当たりにかつて与力番所がありました。そこを右に曲がると、一の門の渡櫓門跡です。渡櫓は「御書院大御門」とも称しました。御書院門渡櫓の左右の石垣を見ると、黒く焼け焦げたような跡があります。これは幕末の文久3年(1863)に起きた大火で、本丸御殿が全焼した際、御書院門の渡櫓も焼け落ちましたが、その際の猛火を物語るものです。
御書院門渡櫓の東側の石垣。焼けて黒ずんでいる。下には丸穴の開く門柱の礎石

御書院門を出ると、かつては眼前に本丸御殿の玄関が現れました。現在は芝生の広場ですが、2本のケヤキが門柱のように生えているのが目に留まるでしょう。このあたりに、本丸御殿の玄関があったといわれます。
芝生広場の2本のケヤキ。このあたりに本丸御殿の玄関があったという

以上、大手門から本丸御殿までのルートをたどりましたが、大手門、下乗門、中の門、御書院門を経て、ようやく御殿の玄関に至ったことがわかります。しかも門は巨大な桝形虎口で、いくつもの番所がにらむ厳重な守りでした。通過する大名は、江戸城に攻め込むなど、とうてい不可能であると感じたはずです。大名の戦意を喪失させる規模と威容、それこそが江戸城設計のねらいでした。
「正徳江戸城図写」(部分、国立国会図書館蔵)を加工

富士見櫓と松の廊下

次に、大奥のある本丸御殿の痕跡を探っていきましょう。かつて御殿の玄関があった2本ケヤキから北方を望むと、遠くに天守台の石垣が見えます。そのあたりまで、南北約400m、東西約120〜220mの規模で、およそ130棟からなる本丸御殿が、かつてはびっしりと建ち並んでいました。現在は緑の芝生が広がるばかりで、当時の様子を思い描くには、かなりの想像力を要するでしょう。ただし、2本のケヤキが本丸御殿の玄関の位置を示すように、主要な場所の位置をつかむことができる、目印となるものがいくつかあります。それらを、紹介していきます。

まず本丸御殿ではありませんが、本丸には現存する櫓が2基ありますので、その一つを先に見ておきましょう。御書院門の南西、芝生広場西側のうっそうとした木立の中を南に少し進むと、本丸南端にそびえる三重櫓が現れます。富士見櫓です。万治2年(1659)に再建されたもので、2年前の明暦(めいれき)の大火で江戸城天守が焼失して以降、天守の代わりになったといわれます。本丸から望めるのは北側部分で、建物下の石垣は見えません。絵になるのは南側からですが、南側の西の丸は通常立ち入り禁止なので、見学には皇居一般参観などを申し込む必要があります。
富士見櫓。関東大震災で破損し、修復されている

では、本丸御殿に向かいましょう。富士見櫓から木立の中を北に進むと、ほどなく「松之大廊下」の石碑があります。元禄赤穂(げんろくあこう)事件の発端となる、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の刃傷(にんじょう)事件の舞台、松の廊下です。本丸御殿表(おもて)の大広間と白書院(しろしょいん)を結ぶL字形の長い廊下でした。全長50mに及んだといわれ、廊下に面する襖(ふすま)に、松の絵が描かれていたことが名前の由来です。松の廊下は表の南西端にあたるので、一つの目安となります。ただし実際の廊下は、現在碑が建つ位置よりも、もう少し東にありました。
松之大廊下碑。本丸御殿南西端の目印だが、実際の廊下はもう少し芝生広場寄りに位置した

さて、本丸御殿表という名称が出てきましたが、本丸御殿は大きく3つのブロックに分かれていました。すなわち、将軍が大名を謁見するなどの公式行事や、幕府の役人が政務を行う「表」、普段、将軍が起居し、また老中らとの打ち合わせなども行った、執務場所兼プライベート空間の「中奥(なかおく)」、そして御台所と大奥女中たちが生活する「大奥」です。それぞれの位置の目安となる、目印を見ていきましょう。

白書院と黒書院

「松之大廊下」の碑が建つ木立から、いったん芝生の広場に向かいます。芝生の中ほどに、背の低い石標があり、「午砲台(ごほうだい)跡」と刻まれています。午砲とは正午を知らせる大砲の空砲のことで、人々から「ドン」の愛称で呼ばれました。明治4年(1871)に陸軍によって始まり、その後、管理が東京市に移って、昭和4年(1929)にサイレンに代わるまで、続けられたものです。そして、「午砲台跡」の石標のあたりが、表の白書院のすぐ東隣にあった「紅葉(もみじ)の間」付近だといわれます。「紅葉の間」は小姓(こしょう)組の番所でした。なお白書院は、表で将軍が大名を謁見する部屋の一つで、白木(しらき)の柱が特徴でした。表で将軍が大名を謁見する部屋は、最も格式の高い大広間(白書院から中庭を挟んで南側、大広間と白書院を結ぶのが松の廊下)と、白書院、黒書院の3つです。大広間は約500畳、白書院は約300畳、黒書院は約190畳の広さでした。
また石標の北、一本松の生えるあたりが黒書院だといわれます。黒書院も将軍が大名を謁見する部屋の一つ、白書院から中庭を挟んだ北側にありました。黒漆塗りの柱が特徴で、日常的な対面の場であったとされます。黒書院のすぐ北東には、老中(ろうじゅう)の執務部屋や若年寄(わかどしより)の御用部屋などがあり、この辺が表の最北、中奥との境付近になります。
「午砲台跡」の石標と、一本松(左)。石標付近が白書院東の紅葉の間、一本松付近が黒書院
「江戸城御本丸御表御中奥御大奥総絵図」(部分、東京都立中央図書館蔵)を加工

富士見多聞櫓と中奥御休息之間

芝生の広場から、再び西の木立のあたりに戻りましょう。急な坂になった小高い一角があり、それを上ると長屋状の櫓が現れます。本丸に現存するもう1基の櫓、「富士見多聞櫓」です。こちらは内部を自由に見学することができ、横31m、幅4.9mの当時の櫓内の雰囲気を体感できるでしょう。また格子(こうし)窓からはすぐ下の蓮池(はすいけ)濠や、西の丸の紅葉山なども望めます。ところで、現在は富士見多聞櫓という名称ですが、江戸時代には「御休息所(ごきゅうそくじょ)前多聞櫓」と呼ばれていました。御休息所というのは、本丸御殿中奥の「御休息之間」のこと。つまり富士見多聞櫓から東の芝生広場が、中奥ということになります。
表と中奥を区画するのは、黒書院の最北にある御錠口(おじょうぐち)と、御用部屋の東にあった土圭(とけい)の間で、表から勝手に中奥に入らぬよう、常に見張りがいました。黒書院北の御錠口から御成廊下を経て、中奥の御座(ござ)之間。ここで将軍は老中や若年寄を応接します。御座の間の西にあるのが御休息之間で、下段が将軍の執務室、上段が寝室でした。御休息之間のさらに西隣に、御小座敷(おこざしき)という部屋があり、昼食をとったり、居間として使ったといいます。御小座敷の西側は庭園で、そのさらに西の奥に御休息所前多聞櫓がありました。なお御小座敷の北に御鈴(おすず)廊下があり、中奥と大奥を結んでいます。それ以外の場所は、中奥と大奥は銅塀で厳重に隔てられていました。
富士見多聞櫓(御休息所前多聞櫓)
「江戸城御本丸御表御中奥御大奥総絵図」(部分、東京都立中央図書館蔵)を加工

石室と大奥の井戸

富士見多聞櫓(御休息所前多聞櫓)から木立の中を少し北に進むと、石室(いしむろ)が口を開けています。年代は不明で用途も諸説ありますが、現地の案内板によると、火災などの非常時に、大奥の調度品を避難させる場所だったようです。この石室以北がいよいよ大奥のエリアで、石室の東は中奥と大奥を結ぶ御鈴廊下でした。御鈴廊下は、将軍の大奥への出入りの際に、鈴を鳴らして合図したことに由来します。幅約3.6m、長さ約27mの畳廊下でした。大奥の広さは約6万3,000坪。本丸御殿のおよそ半分を占めており、表や中奥よりも広かったことがわかります。また大奥は、将軍の御座所や御台所の居室、御年寄の執務部屋などがある主要エリアの「御殿向(ごてんむき)」、大奥女中の宿舎である「長局向(ながつぼねむき)」、大奥と外を取り次ぐ男性役人が詰める「御広敷向(おひろしきむき)」の3つのエリアに分かれていました。
石室。この東側に中奥と大奥を結ぶ御鈴廊下があった
「江戸城御本丸御表御中奥御大奥総絵図」(部分、東京都立中央図書館蔵)を加工

石室から東へ。芝生広場を横切ったあたり、東端の植え込みに「大奥跡」と記された表示板が建っています。ここが大奥のどの辺になるのかはわかりにくいのですが、表示板のすぐ西側、草むらの中に井戸が残ります。大奥には長局内だけで、25もの井戸があったといい、長局以外にもありました。一説にこの井戸は、東長局にあったものではないかといわれますので、表示板の場所もかつての長局付近にあたると見てよいのかもしれません。さて、大奥は天守台のすぐ近くにまで御殿がありました。最後に天守台に上って、南を望んでみてください。
大奥の表示板と井戸(右上)

天守台から大奥跡を望む

天守台から南を見下ろすと、向かって右側(西)に石室があります。石室より左(東)に御鈴廊下があり、そのすぐ北に、将軍が大奥に入った際に用いる部屋・御小座敷(おこざしき)がありました。将軍の大奥での寝室も、御小座敷です。また天守台のすぐ目の前、現在は舗装された通路になっているあたりに、将軍の正室・御台所のプライベートルームである新御殿(しんごてん)があり、御台所は日常生活の多くの時間をここで過ごしました。天守台から見下ろして正面が、大奥の主要エリアである御殿向、その東南、天守台から見下ろして左奥が、男性役人が詰める御広敷向です。もちろん御広敷向と女性たちがいるエリアは、厳重に仕切られていました。そして御殿向の東から東北にかけてが、大奥女中たちの宿舎である長局向。天守台の左手から宮内庁の桃華楽堂(とうかがくどう)の敷地にかけて、かつては2階建ての長屋が幾棟も連なっていました。
天守台から見下ろした大奥跡。場所の表示は筆者の推定
天守台東北から東は長局向

さて、大手門から本丸に至るまでのルートと、現存しない本丸御殿の主要な場所のおよその位置についてご紹介しました。当時の江戸城の規模や様子をイメージするのに、少しでもお役に立てれば幸いです。かつての江戸城中心部にあたる東御苑には、本記事で触れていない見どころもまだまだあります。ぜひ、足を運んでみてはいかがでしょうか。

取材協力:宮内庁
参考文献:西ヶ谷恭弘『江戸城』(東京堂出版)、『名城を歩く24 江戸城』(PHP研究所)、山本博文『将軍と大奥』(小学館) 他

Share

辻 明人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。
おすすめの記事

知らなかった!蔦屋重三郎が「耕書堂」を構えた日本橋通油町に、版元が集中していた理由

辻 明人

"源氏名"は大奥でも? 女中たちの名前と出世の関係を解説!

大奥の岩内

東京・葛飾区に巨大な城が?上杉や北条が取り合った葛西城の物語

辻 明人

【年収も権力も桁違い】高岳の実像|「べらぼう」で冨永愛が演じる“大奥総取締役”とは?

山見美穂子

人気記事ランキング

最新号紹介

※和樂本誌ならびに和樂webに関するお問い合わせはこちら
※小学館が雑誌『和樂』およびWEBサイト『和樂web』にて運営しているInstagramの公式アカウントは「@warakumagazine」のみになります。
和樂webのロゴや名称、公式アカウントの投稿を無断使用しプレゼント企画などを行っている類似アカウントがございますが、弊社とは一切関係ないのでご注意ください。
類似アカウントから不審なDM(プレゼント当選告知)などを受け取った際は、記載されたURLにはアクセスせずDM自体を削除していただくようお願いいたします。
また被害防止のため、同アカウントのブロックをお願いいたします。

関連メディア