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2019.08.30

ハリウッドで映画化!信長に仕えた黒人、弥助とは何者だったのか?

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織田信長の側近くに、外国人が仕えていたことをご存じだろうか。しかもお雇い外国人のような客分ではなく、れっきとした織田家の侍として、である。身長182cm、漆黒の肌のその男は、「弥助(やすけ)」と呼ばれた。実はゲームやコミック等の影響で、Yasukeの名はいまや世界的に知られており、日本初の外国人侍が黒人であったことは驚きとともに好意的に受け止められている。それを受けてハリウッドでは、マーベル・コミックの『ブラック・パンサー』の実写版で大人気を博したチャドウィック・ボーズマンを起用し、弥助を主人公にした映画化も決定したという。では、弥助とはどんな男だったのか。その実像を探ってみよう。

天正10年(1582)6月2日早朝、京都に滞在する織田信長の宿所を、重臣の明智光秀の軍勢が襲った。本能寺の変である。この時、弥助は信長の側近くにいて、同僚らとともに敵と戦いながら、謀叛(むほん)の一部始終を目撃していた。そして、業火に包まれた本能寺の奥で主君の信長が最期を遂げると、彼は思いもかけぬ行動に出るのである……。

弥助に関する史料は多くはない。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡、太田牛一『信長公記』、『松平家忠日記』、ジャン・クラッセ『日本西教史』、フランソワ・ソリエ『日本教会史』などに断片的に記されるのみである。しかし最近、イギリス出身で日本在住の研究者ロックリー・トーマス氏が、長年の研究をもとに『信長と弥助』を出版し、弥助の生涯の不明な部分を埋める試みを行った。本稿では『信長と弥助』を参考にさせて頂きながら、その実像を紹介することにしたい。

弥助とは何者なのか

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

イエズス会巡察師ヴァリニャーノの背後に控える男

本能寺の変からさかのぼることおよそ3年の、天正7年(1579)7月25日。アジア、アフリカ地域で最も高貴とされるカトリック教徒が日本に上陸した。巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノである。巡察師とはイエズス会総長の名代として、各地の布教状況の査察、指導を行う宣教師をいう。イタリアのキエティ(当時はスペイン領)生まれのヴァリニャーノは、この時、40歳。威厳に満ちた彼を筆頭とするイエズス会一行は、上陸した島原半島の口之津で日本の信者たちに迎えられ、長崎へと赴くのだが、ひときわ人々の目をひいたのが、ヴァリニャーノの背後に控える、従者で護衛役でもある大男であった。

ずば抜けて背が高く、屈強な肉体を持ち、肌の色は墨を塗ったかのような漆黒。坊主頭を日差しから守るためか白い布をターバンのように巻き、槍を手にしていたと思われる。年齢は20歳代前半。名前は不明だが、これが後年、「弥助」と呼ばれる若者であった。ヴァリニャーノらは、若者を「イサケ」と呼んでいた可能性があるという(『信長と弥助』)。

弥助がこの時、24歳であるとすれば、生まれは1555年ということになる。しかし出身国、出身民族、母国語などはわからない。ただ、彼がアフリカにルーツを持つことは間違いないようで、ルイス・フロイスの書簡に弥助について「Cafre(カフル)」と記されている。カフルとは、同じく肌の黒いインド人、東南アジア人、アラブ人と明確に区別して、アフリカ人のみを指すポルトガル語であった。また、ポルトガル領東アフリカ(現、モザンビーク)出身とする説もあるが、『信長と弥助』のロックリー氏は、断定はできないとする。

弥助は「ハブシの戦士」だったのか

では、弥助はどこでヴァリニャーノらと出会い、従者になったのか。それについては、インドの可能性が高いようだ。1574年にポルトガルのリスボンを発したヴァリニャーノらの一行が、まず目指したのはインドのポルトガル領であった。途中、モザンビークに3週間寄港しているので、そこで弥助と出会った可能性もないわけではないが、インドには3年間滞在して、布教状況を査察している。そして当時のインドのポルトガル領には、アジア、アフリカから膨大な数の人々が奴隷として連行されており、その中にはインド軍の主力を形成した軍事奴隷の「ハブシ」も多数含まれていた。

ハブシとは北東アフリカの奴隷を指す言葉である。ハブシの男は獰猛(どうもう)で戦闘技術が巧みであり、さらに忠誠心が高いことから、軍事奴隷としての実力は当時のアジア全域に知られていたという。ハブシを手に入れた者は、十分な訓練と食事を彼らに与えて戦士として育成し、ハブシは忠誠心をもって主人の護衛や用心棒を務めた。また軍に属するハブシは乗馬技術に習熟した者が多く、主人との雇用関係が切れたハブシが、傭兵として自らを売り込むようなこともあったという。弥助もまた、こうしたハブシの一人ではなかったろうか。

弥助の体格のよさから見て、10代の頃からハブシの戦士として育成されていた可能性があるだろう。3年間のインド査察を終え、次に戦乱の続く極東に向かわなければならないヴァリニャーノが、ハブシの屈強な若者をボディガードに選ぶのは自然なことであった。ただしイエズス会は建前上、奴隷を認めていない。弥助も軍事奴隷ではなく、イエズス会と雇用契約を結んで、ヴァリニャーノの身辺護衛と従者を自らの任務としていたはずである。

戦乱の九州で過ごした2年間

フランシスコ・ザビエル

10万人の信者を獲得していたイエズス会

イエズス会のフランシスコ・ザビエルによって、キリスト教が初めて日本にもたらされたのは、天文18年(1549)のこと。弥助らの日本上陸の、ちょうど30年前であった。ザビエルは日本人について、「この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は、異教徒の間では見出せない。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がない。驚くほど名誉心が強く、他の何ものよりも名誉を重んじる」と語っている。

ザビエル来日から30年の間に、日本におけるキリスト教信者は10万人にのぼっていた。特に九州地方と、京都周辺での布教の成功は目覚ましかったという。天正4年(1576)には、イエズス会によって京都に教会堂が建てられ、「都の南蛮寺」と呼ばれた。

一方、ヴァリニャーノ一行が上陸した九州では、来日の翌年にあたる天正8年(1580)にキリシタン大名の大村純忠(おおむらすみただ)が、なんと長崎の地をイエズス会に寄進している。その背景には、ポルトガルとの交易による利益と軍事力を自領に確保しようとするねらいがあったが、純忠自身が熱心なキリスト教信者であることもまた事実だった。のちに純忠はヴァリニャーノと面会し、「天正遣欧少年使節」の派遣も決定している。

長崎

三勢力鼎立の九州から都へ

ヴァリニャーノ一行は来日してから2年間を、主に九州で過ごした。九州では豊後(現、大分県)の大友宗麟(おおともそうりん)が最有力の大名であり、キリシタン大名でもあったが、薩摩(現、鹿児島県)の島津氏に高城(たかじょう)川の合戦で大敗を喫して以来、失速。代わりに島津氏と肥前佐賀(現、佐賀県)の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が台頭して、三勢力鼎立(ていりつ)の争いとなっていた。しかしヴァリニャーノ一行に危害が及ぶことはなく、ボディガードの弥助が腕力を振るう機会もなかったろう。ただし、弥助の姿に驚いて、一行のもとに群がる日本人は少なくなかった。

そして天正9年(1581)に入ると、ヴァリニャーノは使節として都を訪問することを決意する。実はヴァリニャーノが日本を去る日が近づいており、その前に日本最大の実力者である織田信長に拝謁して、イエズス会の布教活動の庇護を確かなものにしておきたかったようだ。大友宗麟の献身的な協力を得て、宗麟が仕立てた船に乗ったヴァリニャーノ一行は、瀬戸内海を一路、和泉(いずみ)の堺(現、大阪府)へと向かう。それは弥助にとっても、運命的な旅路であった。

大友宗麟像

織田信長との出会い

南蛮寺

死傷者が出るほどヒートアップした弥助見物

当時の国際貿易港である堺に到着した一行は、船から馬に乗り換え、紋章旗や十字架を掲げながら京を目指した。そんな一行が物珍しく、群衆が取り囲む。特に「黒い大男」弥助の姿は、多くの日本人を驚かせた。一行は摂津(現、大阪府)高槻(たかつき)城主でキリシタン大名である高山右近(たかやまうこん)の歓待を受けた。のちに信仰を守って国外追放となり、フィリピンのマニラで生涯を閉じる右近だが、このときは織田信長の有力な配下である。右近は、ヴァリニャーノらが速やかに信長に拝謁できるよう祈ったという。

そして、事件は彼らが京都に到着し、教会堂(南蛮寺)に入ったところで起きた。黒い大男の噂は一行が到着するよりも先に京都に届いており、その姿を見ようとする群衆(1,000人を超したとも)が教会堂に押し寄せたのである。宣教師たちは建物が壊されるのを恐れ、門扉(もんぴ)にとりついた群衆の中には、押しつぶされて死傷する者まで出た。騒ぎは、京都に滞在していた信長の軍勢が派遣されて、ようやく収まったという。信長は、騒動の原因となった黒い大男の正体を知りたがり、自分のもとに連れてくるよう命じた。図らずもヴァリニャーノ一行は、上洛直後に信長への拝謁のチャンスを得たのである。

本能寺跡碑

信長に気に入られた「黒い大男」

信長が京都で宿所としている本能寺は、教会堂から徒歩5分程度の近距離にあった。弥助を含むヴァリニャーノ一行は、織田家の武士たちに守られながら信長のもとへ赴いたのだろう。その謁見の様子を、織田家家臣の太田牛一(おおたぎゅういち)は次のように記す。

「二月二十三日、キリシタン国から黒坊主が参上した。年のころは二十六、七歳でもあろうか、全身の黒いことは牛のようである。見るからにたくましく、みごとな体格である。その上、力の強さは十人力以上である。伴天連(バテレン、ヴァリニャーノらのこと)がこの男を召し連れて参上し、信長公に、布教のご許可にたいしてお礼を申し上げた(以下略)」(太田牛一『信長公記』の現代語訳)。

また宣教師ルイス・フロイスは、弥助を見た信長の反応を次のように記録している。
「大変な騒ぎで、(信長は)その色が自然であって人工でないことを信ぜず、帯から上の着物を脱がせた」

信長が弥助の体を洗わせたという説もあるが、そこまでせずとも着色でないことはわかっただろう。弥助が正真正銘の「黒い大男」だと知れると、信長も居並ぶ家臣たちも、敬意をもって彼に接したようだ。『信長公記』には弥助が「十人力」であると記されており、その腕力を見せる機会もあったのかもしれない。しかし弥助の振る舞いはあくまで礼儀正しく、信長はすこぶる上機嫌で、弥助に褒美として銭一万(十貫文)をその場で与えている。

後日、ヴァリニャーノは再び信長に拝謁し、西洋の様々な品物を献上するが、その際に、政治的配慮で信長気に入りの弥助も献上されたのではないかと、『信長と弥助』のロックリー氏は推測する。また初対面後、信長自ら教会堂に出向き、弥助と再会したことをうかがわせる記録もあり、信長がヴァリニャーノに弥助を譲るよう求めた可能性もある。いずれにせよ弥助の意思に関係なく、その身柄はイエズス会から信長の下に移ることになった。しかし信長は彼を、お飾り的な「黒い大男の従者」にするつもりはなかったのである。

戦国の覇者の小姓「弥助」

復元された安土城天主

「いずれどこかの領主になるのでは」

なぜ織田家で弥助と名づけられたのかは、よくわからない。ロックリー氏は、ヴァリニャーノ一行が彼を「イサケ(ユダヤ名イサク)」と発音するのを聞いて、「ヤスケ」にしたのではとする見方とともに、彼の出身がモザンビーク北方の「ヤオ」族で、それを聞いた信長が日本男性の名前に多い「助」を加えて、「ヤオ助→弥助」にした可能性も紹介している。

織田家の家臣となった弥助は、主君に従って近江(現、滋賀県)の安土に赴くと、小姓(こしょう)に任じられた。信長の小姓といえば森乱丸(蘭丸、もりらんまる)が有名だろう。常に主君の側近くに仕え、身の回りの世話を焼くだけでなく、使者として信長の意を伝え、ときに自分より格上の部将に指示を与えることもあった。そんな要職に異国人が抜擢されるのは破格のことだが、合理的な信長が理由もなく弥助を小姓にするとは考えにくく、弥助が多少は日本語で会話できたこと、また軍事奴隷(ハブシの戦士)として、ヨーロッパの最新の軍事知識と技術を身につけていたことが高く評価された可能性があるという。

弥助は信長の太刀持ちなどを務め、常に側近くに控えていたようである。また扶持(ふち、給与のこと)を与えられ、装飾付きの短刀、さらに安土城内に私宅まで下賜された。たまに従者を伴って安土城下を歩くこともあり、城下の人々は弥助が信長の寵愛を受けていることを知って、「いずれどこかの領主になるのでは」と噂したと伝わる。外国人領主が現実的であるのかはともかく、小姓が城持ちの領主となる可能性は十分にあった。たとえば森乱丸は、本能寺の変の直前に5万石を領し、小姓を務めながら大名になっている。日本初の外国人侍である弥助は、運命の変転にとまどいながらも、信長の厚遇に感謝していただろう。

信長とともに戦場にも赴く

次に弥助が記録上に現われるのは、天正10(1582)年4月19日である。長年の宿敵であった甲斐(現、山梨県)の武田氏を滅ぼした信長は、戦場の視察に赴くが、その傍らに弥助の姿があった。信長と同盟を結ぶ徳川家康(とくがわいえやす)の家臣・松平家忠(まつだいらいえただ)が、信長主従を記録している。

「信長様が、宣教師から進呈され、扶持を与えたというくろ男を連れておられた。身は墨を塗ったように黒く、身長は6尺2分(約182cm)。名は弥介というのだそうだ」(『松平家忠日記』の現代語訳)

すでに決着はついていたとはいえ、信濃(現、長野県)、甲斐の敵地に乗り込む以上、不測の事態が起きることは十分にあり得た。信長に近侍(きんじ)する弥助は、いざという時には主君の楯(たて)となり、敵を撃退するという重大な任務を負っていたはずである。記録にはないが、弥助も甲冑(かっちゅう)姿であっただろう。信長が小姓の一人として、弥助に信頼を置いていたことがうかがえるのではないだろうか。しかし、それからわずかひと月余りのちに、信長と弥助は運命の本能寺の変を迎えるのである。

弥助はなぜ最後まで戦い続けたのか

本能寺の変(歌川芳富「盆應寺夜討図」)

密命を帯びていた可能性

「これは謀叛か。いかなる者の企(くわだ)てぞ」。信長の問いに「明智の手勢と思われます」と応える森乱丸。「是非に及ばず」と口にした信長……。天正10(1582)年6月2日早朝に本能寺の変が起きた際、弥助も乱丸と同様に信長の側近くにいた。従って、信長と乱丸のこのやりとりも、弥助は耳にしていたかもしれない。

本能寺を直接襲った明智光秀の軍勢は一説に3,000(総勢は1万3,000)、片や信長の手勢はごく少数であり、ひとたまりもなかった。しかし小姓をはじめとする鍛え抜かれた家臣らは、即座に最善の防御態勢をとって明智勢を迎え撃ち、主君が炎の中で自刃する時間を稼ぎながら、そのほとんどが討死する。もちろん弥助も他の小姓たちとともに、ここで戦死してもおかしくはなかった。ところが彼は、明智勢に囲まれた本能寺から奇跡的に脱出することに成功するのである。

弥助が逃げるつもりであれば、本能寺のすぐ東にあるイエズス会の教会堂に駆け込めばよかった。しかし、彼は教会堂に目もくれず、北へと走る。目指したのは、信長の嫡男信忠(のぶただ)の宿所である妙覚寺(みょうかくじ)であった。『信長と弥助』のロックリー氏は伝承をもとに、弥助は信長から形見の刀を信忠に渡してほしいと託されたのではと推測しているが、確証はない。ただ、弥助が信長の密命を受けて脱出した可能性は高いだろう。本来、同僚らとともに、最後まで主君を守ることこそ、小姓である弥助の役目であるはずだった。しかし異国人の弥助であれば、脱出しても明智勢は手を出さないかもしれない。その可能性に賭けて、信長は密命を与えたのではないか。密命の内容とは、息子の信忠に「京都から脱出せよ」と伝えることであったろう。

織田家において信長の存在は絶対的であったが、信忠は誰もが認めるその後継者であり、たとえ信長が討たれても信忠が健在であれば、織田家は一丸となって巻き返しを図ることができた。それゆえ今は戦わず、血路を開いて速やかに京都を離れ、態勢を整えることを、信長は弥助を通じて息子に命じたのではないだろうか。

弥助を描いた来栖良夫『くろ助』

二条御所での奮戦、そして…

明智勢による本能寺襲撃の報せを受けた信忠は、信長を救援すべく妙覚寺を出た。しかし、すでに本能寺が焼け落ちたという続報が届き、救出を断念。近所の誠仁(さねひと)親王の二条御所を借りて、敵と一戦交えることを決する。弥助が信忠のもとに駆けつけたのは、その頃だったろう。弥助は信長の言葉を伝えるが、信忠が首を縦に振ることはなかった。「あの明智が、京の出口を固めていないはずがない。ぶざまに逃げたうえで討たれるのは無念である」と判断したのだ。実際はまだ脱出できる可能性があったのだが、信忠は気が早すぎた。信忠の手勢は信長よりは多かったものの、明智勢に攻められれば、万に一つの勝ち目もない。しかし信長が討たれ、後継者の信忠が二条御所で最後の戦いを挑むと言う以上、弥助もまた、ともに戦う覚悟を決める。それが織田家の侍としての、弥助の選択であった。

ほどなく明智の手勢が二条御所をとり囲み、迎え撃つ信忠の手勢との激闘が始まる。「つぎつぎと討って出て、切り殺し切り殺されしながら負けじ劣らじと」「刀の切っ先から火花を散らして」戦ったと『信長公記』は記す。その中に、弥助の姿もあった。信忠の忠臣たちは、劣勢をものともせず見事な戦いぶりを示しながら、みな倒れていった。やがて明智の手勢は隣接する屋敷の屋根上から鉄砲を撃ちかけ、御所にも火がかかる。頃合いを見て、信忠は、自分の首を敵に渡さぬよう命じ、自刃して果てた。小姓たちも信忠の盾となり、ほとんどが討死して、戦いは収束へと向かう。時刻は午前8時頃であったという。

この時、弥助は庭でまだ戦っていた。満身創痍となりながらも、刀を振るっていたのである。弥助の腕力を知る明智方は、接近戦で斬り合うことを敬遠したのかもしれない。しかし味方は全滅し、弥助は敵に取り囲まれた。やがて明智の将が恐れることなく弥助に近づき、刀を差し出せと言うと、彼はこれに従ったという。弥助の処分について明智光秀は「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でない故これを殺さず。聖堂に置け(イエズス会の教会堂に引き渡せ)」と命じた。弥助は教会堂に引き取られ、傷の手当てを受ける。ここに弥助の本能寺の変は幕を閉じるとともに、彼の消息を伝える記録も途絶えるのである。

弥助はまぎれもないサムライだった

弥助が命を落とさなかったことを感謝する文章を、ルイス・フロイスが本能寺の変の5ヵ月後に記しているので、重傷の弥助が死ななかったことは確かである。ただし、その後の彼の行方はわからない。

実は本能寺の変から2年後、弥助かもしれない人物が九州の戦場に現れる。天正12年(1584)3月24日、肥前島原半島(現、長崎県)で起きた沖田畷(おきたなわて)の戦いである。勢力拡大を目指す龍造寺隆信は、2万5,000の大軍で島原の有馬晴信(ありまはるのぶ)を攻め、有馬は薩摩の島津家久(しまづいえひさ)の援軍を加えた6,000でこれを迎え撃った。この時、有馬が所有しながら日本人が扱えなかった大砲2門を操作し、龍造寺軍を攻撃した黒人がいたという。この黒人が弥助であったのか、確証はない。しかし信長や信忠の死後、弥助が勝手を知った九州に戻った可能性はあるだろう。なお、沖田畷の戦いは、劣勢の有馬・島津連合軍が龍造寺隆信を討ち取る殊勲を挙げ、九州の勢力図を一変させる結果となった。大砲を撃った黒人に関するその後の記録は、残っていない。

弥助はその後、どんな生涯を送ったのだろう。人知れず、日本のどこかに骨をうずめたのか。あるいは九州の港から船出し、新天地でそれまでとは全く別の人生を歩んだのか。現代の私たちは想像するより他ない。

ただ一ついえるのは、弥助が信長に仕えた期間は1年半にも満たぬ短い期間だったとはいえ、彼は正真正銘の織田家の侍だった、ということである。それも信長が小姓として認めた有能な人材だった。そして本能寺の変において、最後まで戦った弥助の姿は、武士の行動原理に基づいたものであり、彼が「サムライの心」を抱いていたことを雄弁に物語っている。彼は外国人でありながら、まさしく「日本のサムライ」であった。そんな人物が戦国時代に実在していたことを、私たち日本人は知っていてもよいだろう。そしてこれからハリウッドで製作される映画で、弥助がどんな姿で現代に甦るのか、楽しみに待ちたい。

参考文献:ロックリー・トーマス『信長と弥助』、太田牛一原著、榊原潤訳『信長公記(下)』、谷口克広『信長の親衛隊』 他

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。編集部を離れるも、いまだ燃え尽きておらず、noteに歴史記事を自主的に30日間連続で投稿していたところ、高木編集長に捕獲される。「歴史を知ることは人間を知ること」だと信じている。ラーメンに目がない。