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蛍のみていた世
あはれにもみさをにもゆる蛍かな声たてつべきこの世と思ふに 源 俊頼
古の野守の鏡跡絶えて飛ぶ火は夜半の蛍なりけり 寂蓮
はじめに一つの逸話からみてゆきたい。
ある殿上人(てんじょうびと)が、帝(みかど)のお血筋ながら古めいた宮さまのお邸(やしき)に、心通わす女房(にょうぼう)などがあったのか、忍んでゆくと折よく御前から女房たちが局(つぼね)に下りる気配がしきりなので、そっと様子をうかがっていた。
庭の遣水(やりみず)のほとりには蛍が沢山群れていたが、女房たちもそれに目を留めて立ち止まる。
すると一人が「まあ何と『蛍火(けいか)乱れ飛んで』という風情ではありませんか」と言うと、次の女房は、「『夕殿(せきでん)に蛍飛んで』も身にしみますわ」と言う。
すると三人目は「『かくれぬものは夏虫の』ですわ」と、三人静かに局へ下りて行った。
この逸話は中世初頭の都の上流女房の教養の深さをみせたものかもしれない。
会話の種をあかせば、はじめの言葉は「蛍火乱れ飛んで秋すでに近し」という『和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)』にある晩夏の詩。
秋近い涼味を蛍によって詩化し、次の女房は「夕殿蛍飛んで思ひ悄然(しょうぜん)」という、楊貴妃(ようきひ)を失った玄宗(げんそう)皇帝の傷心に蛍を加えた白居易(はくきょい)の詩句で夕暮の寂しい情緒を示した。
三人目の女房は「包めどもかくれぬものは夏虫の身よりあまれる思ひなりけれ」という歌の二・三句目を口ずさみ、叶(かな)わぬ思いの哀れを加えている。

人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)した詩歌の部分をさりげなく会話の言葉として取り入れつつ、文芸的雰囲気を作り上げて楽しむ方法を身につけた上流女房たちであった。
こうした蛍の情緒の伝統も時代とともに少しずつ変化がみられる。
あはれにもみさをにもゆる蛍かな声たてつべきこの世と思ふに 源 俊頼(みなもとのとしより)
(こころに沁みるよ。川舟のほとりの水馴〈みな〉れ棹〈ざお〉のあたりに、じっと声も立てず悩み苦しみ、心の火を灯している蛍よ。今はもうその苦しみの声をあげるべき世がきていると思うのだが)
作者の俊頼は大納言経信(だいなごんつねのぶ)の子だが、官職を捨て歌の道に進んだ。白河法皇(しらかわほうおう)の命により、『金葉集(きんようしゅう)』を撰進した。
歌は「みさを」に水棹(みさお)と操(みさお)とを掛けている。俊頼も蛍のように悩みつつ歌の道へと梶(かじ)を切ったのかもしれない。

古(いにしへ)の野守の鏡跡絶えて飛ぶ火は夜半(よは)の蛍なりけり 寂蓮(じゃくれん)
かつて春日野(かすがの)には烽火台(ほうかだい 緊急時の伝達手段であるのろしを上げるための施設)が設けられていたため、「飛ぶ火野(とぶひの)」とも呼ばれていた。
ここではその飛ぶ火を蛍の幻影として詠っており、少しきびしいイメージが加わった。
また春日野には「野守鏡(のもりのかがみ)」という古蹟(こせき)があった。
それはこの野を管理した野守の姿見の池であったといわれるが、伝承では昔、帝が愛していた鷹に逃げられ、たずねあぐんだ末この池のほとりに来て水鏡に映った鷹を発見したともいう。
その後この水鏡は鬼のもつ鏡とされ、世間や人の心の善悪まで映し出したといわれる。
するとこの歌、そうした鏡がなくなった末世(まっせ)を嘆き、烽火の上がることなく蛍火が幻のように燃えるばかりだとうたう。
寂蓮は中世初頭の歌人。大きな政変をみつつ生きた人だ。
馬場あき子 歌人。1928年東京生まれ。学生時代に歌誌『まひる野』同人となり、1978年、歌誌『かりん』を立ち上げる。歌集のほかに、造詣の深い中世文学や能の研究や評論に多くの著作がある。読売文学賞、毎日芸術賞、斎藤茂吉短歌文学賞、朝日賞、日本芸術院賞、紫綬褒章など受賞歴多数。『和樂』にて「和歌で読み解く日本のこころ」連載中。映画『幾春かけて老いゆかん 歌人 馬場あき子の日々』。

