さらに江戸時代、これらの夜話や笑話を書き溜めた本が人気を呼びます。それが『醒睡笑(せいすいしょう)』です。この著者とされるのが、美濃国(現在の岐阜県)出身の僧侶・安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)、落語の祖のひとりと言われる人物でした。なぜ、僧侶が笑話を?と思うでしょう。そこには不思議な縁が絡み合っていたのです。
落語の元ネタ?『醒睡笑』は現代の「あるある」とも!
まずは江戸時代に人気を博したという『醒睡笑』の一節を意訳にてご紹介します。
ある人が、「秀吉公を豊国大明神として祀り、吉田の神主には知行一万石をお与えになった」と語ると、宮川殿は、「驚かされますね。秀吉公が神になられ、神主は人になられた」といった
『醒睡笑』には、こういった御伽衆が話したという夜話が収められており、信長や秀吉など戦国大名をネタにした話がたくさん出てくるのです。天下人となった秀吉はまさに神と崇められたのですが、神に仕えし者が人となるというオチは皮肉めいていて面白い。こういった話は、泰平の世となったからこそ、気軽に話せたのかもしれません。
続いてはよく聴く落語のネタにもある名付けの噺です。
いろはの文字もわからない男が、「自分も中年になり、〇〇左衛門や□□右衛門など、それなりの名をつけたい」と身分の高い者のところを訪れた。どんな名前がいいのか?と尋ねられると、「日本左衛門とつけたい」といったとか。「そんな大きな名をつけたら、私までがけなされる」というと、男は「あまり大きな名前とは思いません。『唐左衛門』とつけた者もいらっしゃるので」と言いました。
名付けは、最近でも話題に事欠かないネタのひとつです。キラキラネームしかり、今の時代にも「名前負け?」なんて言われることも。ドラマの主人公に流行りの名前が一気に増えたり、ここまで名付けにこだわるのは日本人ならでは? 落語でいえば、あの有名な『寿限無』も、まさに名付けがこじれて笑わせる噺。安楽庵策伝は、このような話を千以上蒐集したり、自作したりしたと伝わるのです。
次は、現代の高座でも語られる「星取り竿」です。
小僧が夜更けに空に向かって竿を振りながら歩いていた。それを見た住職が「その竿で何をしているのだ」とたずねると、小僧は「空の星が欲しいので、叩き落そうとしているのですが、落ちてきません」と答えた。すると住職は「そんなことにも考えが浮かばないのか。そんなところから竿が届くはずがない。屋根にあがりなさい」といわれた。
小僧が小僧なら、住職も住職という話ですが、現代でも弟子と師匠、子と親にこういう笑話は多いでしょう。その他にも「平林」「子ほめ」「無筆の犬」など、落語の原話や、小噺の多くが『醒睡笑』に収められていると言われています。
安楽庵策伝は7歳で出家、各地の寺で修行を積み、60歳で高僧に
策伝の人生は、永禄3(1560)年7歳の時に美濃国浄音寺(現・岐阜県岐阜市)へ出家し、そこから流転の人生が始まります。この時代、幼くして出家することは珍しくありませんでしたが、策伝は数々の寺を渡り歩き、修行を重ねていったのです。永禄7(1564)年11歳の時には、京に上り、禅林寺(永観堂)で曼荼羅講説の権威・甫叔上人(ほしゅくしょうにん)に師事したと伝わります。後に高僧となる策伝ですが、一方で文人として様々な芸能文化に精通していました。そうした人格は、京都での風流な生活に触れたことも大きかったのではないでしょうか。
この後、25歳頃から禅林寺を出て、備前・備中・備後などの中国・山陰地方を回り、布教活動を行います。さらに、倉敷誓願寺をはじめ、6とも7ともいわれる多くの寺院を創建するのです。こういった地方での様々な活動が認められてか、文禄3(1594)年41歳で、堺の正法寺に十三世として入山し、住持職(じゅうじしょく・宗派によっては住職)としての地位を得ました。立派な僧侶となった策伝は、慶長元(1596)年には、故郷に錦を飾るべく、出家した美濃国の浄音寺に戻り、二十五世となって17年間を過ごしました。
名高い僧侶こそ説法上手!「笑いの種」を後世に
60歳となった策伝は、慶長18(1613)年に再び京に上り、浄土宗西山深草派総本山誓願寺第五十五世法主という誉ある僧職に就任。誓願寺で僧侶としての仕事を全うした策伝は、元和9(1623)年70歳を機に誓願寺内の竹林院に隠居します。

このような大僧侶がなぜ笑話をというと、当時、説法とは、単なる教えだけでなく、いかに面白く、民衆に伝え広めるかというのも大切な勤めであり、話術も求められていたのです。策伝の話の面白さは評判を呼ぶようになり、その能力が認められ、それらを書きとめ、まとめるよう勧められたのが始まりと言われています。8巻の草子をまとめ、『醒睡笑』と名付け、寛永5(1628)年、江戸幕府京都所司代であった板倉重宗(いたくら しげむね)に献呈しました。『醒睡笑』には、42項目に分類された千余りの話が収められています。
このことについては、江戸時代の絵師であり戯作者であった山東京伝が『近世竒跡考』の中でも、「安楽庵策伝は、おとしばなしの上手なり。元和九年、七十の年、醒睡笑という笑話本八冊つくる。此人、茶道においても名高しといへども、おとしばなしの上手なる事を知る人もまれなり。世に称する所の安楽庵の裂(きれ)は、此人より出でぬ」と記しています。

古田織部に私淑?小堀遠州とは年齢を超えて深い親交も
さらに、竹林院に茶室『安楽庵』を造り、自らの号も安楽庵とします。この隠居生活が、策伝にとっては人生の黄金期だったのかもしれません。趣味多き、文人として知られた策伝は、茶人としても名を馳せました。茶の湯においては、策伝が誰に師事したかというのは諸説ありますが、弟子入りをしたというよりは、いろいろな人に私淑し、そのうちのひとりが古田織部※1だったようです。また、「綺麗さび」で有名な小堀遠州※2とは親交も深く、庭園づくりなども彼に学んだとされています。竹林院の茶室は遠州の指導によって造られ、庭園も遠州好みとされ、洛中でも評判を呼んだそうです。また、和歌や俳句も嗜んでいたことから、江戸時代の俳人・歌人の松永永貞(まつながていとく)※3との交流もありました。
このように多方面の文化人に人脈をもち、そういった人々との交流の中からまた面白い笑話を思いつき、徒然と書き連ねていったのもかもしれません。
安楽庵策伝は実は武家の出身?兄は信長の家臣の金森長近?
現代に生きていれば落語家やお笑い芸人となっていたか、あるいは軽妙洒脱な編集者になっていたか、安楽庵策伝は、とにかく才多き人であることは間違いありません。出自に関して、史料が残っていない策伝ですが、一説に彼の兄と伝わるのが、信長、秀吉、家康三英傑に仕えた金森長近(かなもりながちか)※4だといわれています。とはいえ、年齢が30歳近く離れていること、金森家の家系図に策伝の名前がないことから、この説の真相はわかっていません。
ただ、縁の寺に残る記録帳には金森家の名前が出てきます。金森長近は仏門にも通じ、茶人武将といわれていたこと、また策伝自身が茶人であったことなどと関連付けて記されているものもあるのです。これも策伝の名が知られるようになったからこそ、生まれた逸話であるといえるのかもしれません。
現在でも笑いに大きな影響を与える功績
京都誓願寺では、現在も、毎年10月初旬の日曜日「策伝忌」に、奉納落語会が開催されています。そこには、「大事なのは上段に構えずユーモラスに教えること、そして、情念を持って大衆に語りかけること」という誓願寺の説教における布教術が受け継がれているのです。
また、岐阜県多治見市にある美濃焼ミュージアムでは、特別展『落語でトリップ 江戸の暮らしと文化』が開催されていて、美濃国出身の策伝を落語の起源として、安楽庵策伝についても紹介。策伝の笑話が落語となって人々に受け継がれ、親しまれていった様子が江戸時代の陶磁器とともに展示されています。
大衆の暮らしの中で、大きな舞台や衣装がなくても始められる落語。この笑話の魅力の深さに触れ、僧侶としても、人としても愛された策伝の想いが、現代の私たちの生活も楽しませてくれているのです。
浄土宗西山深草派 総本山 誓願寺
飛鳥時代、天智天皇6(667)年に、天皇の勅願により創建される。鎌倉初期に奈良より、京都の一条小川(現在の上京区元誓願寺通小川西入る)に移転、その後、天正19(1591)年に豊臣秀吉の寺町整備に際して現在の三条寺町の地に移る。歴史に残る清少納言や和泉式部、秀吉の側室であった松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺としても名高い。京都の中心地に位置する誓願寺は、戦乱等の影響を受けやすく、これまで10回もの火災に遭った。しかし、そのたびに多くの信者たちによって再建されてきた。現在の鉄筋コンクリートの本堂は、昭和39(1964)年に再建。
多治見市美濃焼ミュージアム
飛鳥時代の須恵器から美濃の現代陶芸作家まで「美濃焼1300年の流れ」や、美濃を代表する6人の人間国宝の作品「現代美濃陶芸の精華」など、美濃焼の歴史と現在の陶芸作家を紹介。特別展「落語でトリップ 江戸の暮らしと文化」は、9月6日まで開催中。
多治見市美濃焼ミュージアム×らくごんなあれ 特別展「落語でトリップ 江戸の暮らしと文化」
参考文献:『安楽庵策伝』 関山和夫著 青蛙房 『安楽庵策伝ノート』 鈴木棠三著 東京堂出版 『醒酔笑』安楽庵策伝著 宮尾 與男 (訳注) 講談社
アイキャッチ:安楽庵策伝上人像 出典:誓願寺蔵

