江戸時代から続く「邪馬台国論争」畿内か九州か?謎と論点を徹底解説

江戸時代から続く「邪馬台国論争」畿内か九州か?謎と論点を徹底解説

ここ十数年の間に、歴史教科書の記述が大きく変わっていることをご承知の方も多いでしょう。他分野に比べて変化が少ないと思われがちな歴史の世界ですが、研究の進展によって、新解釈や新事実が次々と発表されています。が、その一方で、日本の歴史には、いまだ解明されていない謎が多数存在しているのも事実です。

その中でも、特に一般的な関心や人気が高いとされるのが次の3つのテーマでしょう。

古代の「邪馬台国」。戦国時代の「本能寺の変」。幕末の「坂本龍馬暗殺」

和樂Webでは「日本史3大ミステリーシリーズ」と題して3回にわたり、これらの最新の説を紹介しつつ、皆さんとともに謎に迫ってみたいと思います。

日本史3大ミステリーシリーズ・第1回

さて第1回は邪馬台国(やまたいこく)の謎です。古代史に関心がなくても、名前は聞いたことがあるでしょう。女王卑弥呼(ひみこ)を連想する人も多いはず。邪馬台国がどこにあったのかについては不明で、今も議論が続いています。果たして最新説による決着は?

「実はね、昔ここに邪馬台国があったんだよ」。そんな話を耳にしたことはありませんか? 古代の日本に存在した国の一つで、女王が治めたという邪馬台国。中国の史書に記載されていますが、それが日本のどこにあったのかいまだによくわからず、さまざまな解釈をもとに各地が名乗りを上げています。

たとえば吉備(きび)説(現、岡山県)、出雲(いずも)説(現、島根県)、四国説、沖縄説などなど。その中で古くから最も有力視されているのが、九州説と畿内説(大和説)で、研究者の間で現在も議論が続いています。今回は邪馬台国論争の概略と最新の説を紹介しますので、ぜひ皆さんもご自身で推理してみてください。

邪馬台国の所在地論争は江戸時代から始まっていた

新井白石像(『先哲像伝 近世畸人傳 百家琦行傳』国立国会図書館デジタルコレクションより)

『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』という名前を聞いたことがあるでしょうか。邪馬台国についての記述がある中国の史書です。ただし『魏志倭人伝』という名称は便宜的なもので、正しくは『三国志』中の魏書「巻三十 烏丸(うがん)・鮮卑(せんぴ)・東夷伝(とういでん)」中の最後「倭人の条」を指しました。

『三国志』といえば日本でもおなじみの曹操(そうそう)や劉備(りゅうび)が登場する『三国志』ですが、いわゆる小説の『三国志演義』ではなく、こちらは同時代人の陳寿(ちんじゅ)が記した歴史書(正史『三国志』)です。

『魏志倭人伝』は2,000字ほどの記述で、邪馬台国までの行程と倭(日本)の諸国、倭人の社会と習俗、卑弥呼と魏王朝との外交などが記されています。そこには「倭国で大乱が起こり、争いが何年も続いたが、一人の女性を立てて王にした。名づけて卑弥呼という」とあり、邪馬台国は「女王の都(みやこ)するところなり」と記されていますので、邪馬台国に卑弥呼の王宮があったと考えられるでしょう。2世紀末、倭の諸国は卑弥呼を「共立」することで、大乱を収拾したのです。

問題は『魏志倭人伝』に記載された邪馬台国への行程で、記述通りに進んでいくと、九州のはるか南海上に飛び出してしまうのです。そこで記述をどう読み解くかについて、邪馬台国の所在地論争が起こることになりました。

まず江戸時代前期の歴史家・松下見林(まつしたけんりん)は、「邪馬台」を「ヤマト」と読み、大和国(現、奈良県)を指すとしました。6代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)を補佐した儒学者の新井白石(あらいはくせき)も最初は大和説を唱えますが、その後、『魏志倭人伝』の記述を重んじ、九州説に転じます。国学者として著名な本居宣長(もとおりのりなが)は、卑弥呼を九州の熊襲(くまそ)の女酋長ととらえ、九州説を唱えました。

距離か、それとも方角か…明治時代に東京と京都の帝大で論争勃発

明治時代に入ると、京都帝国大学の内藤虎二郎(ないとうとらじろう、湖南〈こなん〉)が大和説、東京帝国大学の白鳥庫吉(しらとりくらきち)が九州説を発表し、東京、京都の両帝大の間で論争が激化します。

白鳥は距離に着目しました。『魏志倭人伝』は帯方郡(たいほうぐん、朝鮮半島中西部)から女王国まで1万2,000余里、帯方郡から不弥(ふみ)国(日本にあった国の一つ。現、福岡県宇美〈うみ〉町付近とも)まで1万700余里とします。それならば不弥国から邪馬台国まで1,300余里となり、『魏志倭人伝』で使われている1里を約100mと計算すれば南に約130km。ちょうど熊本県付近で、白鳥は邪馬台国=肥後国(現、熊本県)としました。

これに対し内藤は、女王国という表現が邪馬台国を指すのか、女王が統治する国々を指すのか不明で、また海路が極めて遠く、陸路は近いなど、そもそも距離の記載が信用できないと反論。さらに中国の古書には方角の誤りが多いと指摘し、南を東と読み替えて、瀬戸内海を舟で東進後、山陽地方から陸路を1ヵ月ほどで邪馬台国=大和国に至ったとします。

どちらの説も、「距離を短く計算する」「方角を読み替える」という操作をしなければ成立しないものでした。その後、双方の説に補強する論も現れますが、『魏志倭人伝』の行程の解釈のみでは、邪馬台国の所在地は割り出せないというのが最近の見方になっています。

古墳から出土した大量の銅鏡は何を意味するのか…昭和の考古学から邪馬台国へ

一方、文献だけでなく、出土物から考古学的に邪馬台国にアプローチしたのが、戦後に研究成果を発表した京都大学の小林行雄(こばやしゆきお)です。小林は『魏志倭人伝』にある、卑弥呼が魏より100枚の鏡を下賜されたという記述に注目しました。

昭和27年(1952)に京都府の椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳から32面の三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が発見されました。縁が三角形で、神像や神獣の図が彫られたこの銅鏡は、同一の鋳型(いがた)から作られたものが関東から九州まで広く分布していることで知られますが、中には魏の年号が彫られたものも存在します。

小林は『魏志倭人伝』が記す卑弥呼が魏から下賜された「銅鏡百枚」は、年号が彫られた三角縁神獣鏡を指しており、邪馬台国は権威ある魏の鏡を複製し、地方の首長たちに分与することで、彼らを従わせたのではないか、という説を立てます。32面の銅鏡が出土(しゅつど)した京都府の椿井大塚山古墳は分与の一例であり、邪馬台国=大和国としました。

椿井大塚山古墳の墳丘復元推定図「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」{{国土航空写真}}

小林の説は考古学から邪馬台国を読み解く画期的な試みで、現在も影響力を持ちますが、反論も出ました。まず三角縁神獣鏡がかつての魏(中国)からは一枚も出土しておらず、魏が下賜したという裏づけがとれないこと。また大和で銅鏡が出土しているのは3世紀末から4世紀にかけての古墳で、邪馬台国が隆盛を誇った3世紀からずれがあり、邪馬台国=大和国の証明にはならないというものです。

とはいえ、その後も遺跡物の発掘は続き、近年では考古学的発見を『魏志倭人伝』の記述と重ね合わせる研究も進んでいます。特に奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡からは卑弥呼の宮殿跡とも考えられる大型の建物跡群が発見され、また同遺跡中の箸墓(はしはか)古墳が、卑弥呼が没した年代に近いものであることが炭素年代測定により判明。これにより最近は邪馬台国=大和国がやや優勢ともいわれますが、九州では倭人が使用していたという鉄製品が多く出土しています。こうした背景を踏まえつつ、以下、最新の説を紹介しましょう。

《畿内説》 各地の土器と巨大祭殿跡が見つかった纏向遺跡こそ邪馬台国の中心である

箸墓古墳「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」{{国土航空写真}}

奈良県桜井市の纏向遺跡は、三輪山(みわやま)の麓(ふもと)から大和川にかけて、東西2km、南北1.5kmに広がっています。昭和46年(1971)頃より現在に至るまで、150回を超える発掘調査が行われ、この地が高度な都市であったことを示す出土物が多数見つかりました。

まずは土器。弥生時代後期から古墳時代初期の、まさに邪馬台国があった時代と合致する土器が多く出土しています。しかも特筆すべきは、畿内以外の各地の特徴を持つ土器が、異常なほど多いことでした。つまり全国から人が移住してきていたと考えられ、都市的な性格の纏向は、倭国連合の中心地である邪馬台国の条件に合致するといえるのです。

また平成21年(2009)の調査で、3世紀前半の大型の建物跡が発見されました。3棟が東西に主軸をそろえて一直線に並んでおり、最も大きな建物の北辺より、南方に箸墓古墳を望むことができます。計画的な建物配置から巨大な祭殿跡と考えられ、さらにその寸法は魏で用いられていた「吉祥尺」に則っていました。これも邪馬台国の所在地を裏づけます。

そして箸墓古墳の存在。卑弥呼は西暦247~8年頃に没したと考えられますが、それとほぼ時を同じくして、従来の弥生墳丘墓(ふんきゅうぼ)とは全くスケールの異なる箸墓古墳が造られました(全長約280m、弥生墳丘墓は最大のもので全長約80m)。箸墓古墳は前方後円墳の最古級のものであり、これも大和を中心として、西日本全体に政治的統一がもたらされていたことの証と考えられます。

なお箸墓古墳の被葬者は、宮内庁は倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと、第7代孝霊天皇皇女)としていますが、卑弥呼の墓と考える研究者も少なくなく、倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼とする説も存在します。

桜井市埋蔵文化財センター展示室

《九州説》古代の都の条件、鉄の出土量、そして巫女王が邪馬台国の存在を裏づける

吉野ヶ里遺跡

九州説を語る上で外せないのが、佐賀県神埼郡吉野ヶ里(よしのがり)町と神埼市にまたがる吉野ヶ里遺跡でしょう。昭和61年(1986)からの発掘調査で発見された大規模な環濠(かんごう)集落(周囲に堀をめぐらせた集落)は外濠が約2.5kmにも及び、古代史研究のエポックとされます。

また吉野ヶ里遺跡は、『魏志倭人伝』の記す卑弥呼の「都するところ」の描写と符合していました。同書には「居所、宮室、楼観、周囲を囲む厳重な城柵」があったとしますが、吉野ヶ里遺跡ではすべてが確認でき、遺跡自体も3世紀の邪馬台国時代のものです。従って吉野ヶ里遺跡も、邪馬台国の中心地の有力候補の一つといえます。

また邪馬台国は、約30の国々からなる連合政権の都というべきものでした。畿内説では、その30の国が、近畿地方を中心に西日本全体を含む地域にあったとしますが、それではあまりに分散しすぎで、各地のこの時代の遺跡の実態とも合いません。むしろ当時の九州に確実に存在した伊都(いと)国(現、福岡県糸島市、福岡市西区付近か)のように、この時代の国は後の郡に相当する規模のもので、北部九州だけでも30を上回る国がありました。

そして邪馬台国連合は、別の勢力である男王卑弥弓呼(ひみここ)率いる狗奴(くな)国の勢力と、倭人社会の覇権をめぐって戦っていました。当時の戦いに不可欠なのが、鉄製の武器です。この点、纏向遺跡をはじめ、畿内の主要遺跡から鉄製品がほとんど出土していないのに対し、北部九州の遺跡からは豊富に出土、量で比べると畿内の100倍にもなります。これは鉄鉱石の産地・朝鮮半島との交流があったためで、他にも中国の貨幣や鏡などが出土する遺跡も北部九州に多く、邪馬台国が国際性豊かであったことと合致します。

さらに北部九州では、弥生時代の半ば(紀元前2世紀末~紀元前1世紀前半)頃より、高い社会的地位をもった巫女(みこ)が現われました。強い霊能力を持つと認められたシャーマンです。福岡県糸島市の三雲遺跡(紀元前1世紀末頃)からは男性と女性の墓が発見されましたが、これは夫婦ではなく、国を支配した男王と巫女王の墓であることがわかりました。つまり男王が世俗的権威、巫女王が宗教的権威という二重の政治形態が用いられており、邪馬台国の卑弥呼が巫女王、政務を司るのが弟であったことと合致するのです。

なお九州説における邪馬台国の位置は、吉野ヶ里遺跡も候補ではあるものの確定的とはいえず、福岡県南部の久留米市、八女(やめ)市、みやま市(旧山門〈やまと〉郡含む)の周辺を想定する研究者が少なくありません。これはその後もこれらの地域が、北部九州において一定の勢力を保ち、527年には大和政権に抗する「磐井(いわい)の乱」が起きているからです。ただし発掘が進んでいないため、裏づけとなる証拠は見つかっていません。

吉野ヶ里歴史公園

卑弥呼は邪馬台国の女王ではなかった? 果たしてヒミコ、ヒメコの正体とは?

「乃(すなわ)ち一女子を共立して王と為(な)す。名は卑弥呼と曰(い)う。鬼道に事(つか)え能(よ)く衆を惑わす。年すでに長大。夫婿(ふせい)なく、男弟ありて、佐(たす)けて国を治める。王と為りてより以来、見有る者少なし」

よく知られる『魏志倭人伝』の一節です。邪馬台国を探る上で重要な鍵を握る、卑弥呼の存在について見てみましょう。上記のように、諸国から共立された王(巫女王)である卑弥呼は、鬼道(神の意思を伝える)を司る独身女性で、弟(世俗王)とともに邪馬台国と連合国の政務をになっていました。ただし注意すべきは、『魏志倭人伝』には卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは、ひと言も記されていません。あくまで倭の女王であり、240年に魏が卑弥呼に授けた金印紫綬にも「親魏倭王」とあります。ここからも卑弥呼が30の国から成る連合政権(倭国)の巫女王であり、邪馬台国は卑弥呼が住まう中心都市の名前であったことがうかがえます。

ところで卑弥呼とは個人名だったのでしょうか。「卑しい」という文字を使っている点からも、おそらく中国人が倭人の発音を聞いて、文字を当てたものでしょう。倭人がどう発音したかはわかりませんが、「ヒミコ」であれば「ヒ+ミコ」で「ヒ=特殊な能力」を持つ「ミコ(御子)」となり、男女問わず用いられる名称です。また「ヒメコ」であれば、「ヒ=特殊な能力」を持った「メ(女)=姫」、「コ」は接尾語で、霊能力を持つ尊貴な女性となります。

江戸時代に新井白石は「日御子(ひみこ)」、つまり太陽神を表わす「日の御子」と解釈し、本居宣長は位の高い女性の子を意味する「姫児(ひめこ)」としました。明治時代の白鳥庫吉は「姫尊(ひめみこと)」説を唱えています。いずれにせよ卑弥呼とは女王の個人名ではなく、女性が就任する地位や身分を表わす呼称であったと考えられます。

なお248年頃に卑弥呼が没すると、倭国が再び乱れたため、卑弥呼の宗女で13歳の台与(とよ)を女王とすることで鎮めました。宗女とは普通、姪など一族の女性のこと。卑弥呼の血縁の娘で、卑弥呼と同様の霊能力を持ち、「卑弥呼職」を継承した者と見る説もあります。なお台与は266年に晋(しん、魏の後継国)に使いを送りますが、その後は交渉が途絶えており、邪馬台国と倭国連合のそれからについても、史料からは確認がとれません。中国の史料で倭人からの使いの記述が再び現われるのは、150年後のことです。

邪馬台国の所在地次第で、日本の国家史は大きく塗り替えられる

吉野ヶ里遺跡

さて、いかがでしたでしょうか。一般に邪馬台国というと、古代日本に生まれた最初の大国というイメージがありますが、実際は倭国連合の中心都市の名称であり、卑弥呼もまた、邪馬台国の女王ではなく、倭国連合の巫女王というべき存在であったようです。

では邪馬台国の所在地は畿内なのか、九州なのか。畿内であれば、邪馬台国が後のヤマト王権、古代律令国家に一元的につながることになります。そして巫女王の卑弥呼や台与も、ヤマト王権や大王(おおきみ)家に連なる可能性が高くなるでしょう。一方、九州ということになれば、邪馬台国とヤマト王権は別のものと考えるべきです。つまり邪馬台国の所在地次第で、日本の国家史が大きく塗り替えられる可能性が高く、極めて重要な問題をはらむからこそ、多くの研究者が邪馬台国の謎に現在も取り組んでいるのです。

また、九州説をとる場合、邪馬台国とヤマト王権は別のものと考えるのが科学的ではありますが、ここで「神武東征神話」を思い浮かべる人も少なくないかもしれません。南九州から畿内へと東征したという神武天皇の話は、あくまでも神話なのか。何かの暗喩(あんゆ)という可能性はないのか。そんなことを想像してみるのも楽しいでしょう。

なお畿内説・九州説を問わず、研究者が今後、邪馬台国所在地の決め手になるとしているのが、「封泥(ふうでい)」の発見です。封泥とは古代中国で重要な物を入れた容器や、木簡(もっかん)・竹簡(ちくかん)など書簡類の束を封緘(ふうかん)した粘土の塊のことで、魏の皇帝から送られたそれを開けるのは時の権力者、邪馬台国であれば卑弥呼か弟にしか許されないものでした。つまり中国から卑弥呼宛てに送られた物の封泥が見つかれば、その地こそが邪馬台国と特定できるというわけです。

歴史は人間の営みの記録ですから、人間ドラマの宝庫であり、それが魅力でもあるわけですが、古代史においてはそれ以上に、「謎解き」が大きな魅力であるようにも感じます。自分なりの仮説を立て、それに沿った読書や情報収集をし、時には現地の遺跡や博物館などに足を運んで体感しつつ検証してみる。そうすることで、遥か遠い昔の出来事がリアルなものとして実感できるでしょうし、何か現代につながるものも見出せるかもしれません。さて、邪馬台国の所在地を、あなたはどこだと考えますか。

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