なぜ死なねばならなかったのか?幕末最大の謎、龍馬暗殺事件に迫る!

なぜ死なねばならなかったのか?幕末最大の謎、龍馬暗殺事件に迫る!

歴史上の人物の中で、とりわけ日本人に人気の高いのが幕末の志士・坂本龍馬(さかもとりょうま)でしょう。「尊敬する偉人」のランキングなどでも、たいてい1位に輝きます。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』を読んで、好きになったという人も多いようです。

しかし、龍馬は明治維新を目前にして、何者かによって暗殺されました。龍馬を襲ったのが誰なのかについては、いまだ諸説あり、謎に包まれているのです。そこで和樂Web「日本史3大ミステリーシリーズ」最終回となる第3回では、龍馬暗殺の概略と諸説を紹介しながら、事件の真相に迫ってみたいと思います。ぜひ皆さんも推理してみてください。

日本史3大ミステリーシリーズ・第3回

事件は一瞬の出来事だった

龍馬暗殺(イラスト:森 計哉)

慶応3年(1867)11月15日は、太陽暦では12月10日にあたります。朝から午後まで雨、後に曇りという寒い一日だったその夜。京都河原町蛸薬師(たこやくし)下ルの醤油商・近江屋新助方の二階で、坂本龍馬は来訪した同じ土佐(現、高知県)の中岡慎太郎(なかおかしんたろう)、岡本健三郎(おかもとけんざぶろう)と話をしていました。二階には龍馬の家来・藤吉(とうきち)も同居しており、近所の書肆(しょし)菊屋(中岡の宿所)の倅(せがれ)・峰吉(みねきち)が、中岡に手紙を届けに来ていました。やがて龍馬が「軍鶏(しゃも)鍋が食べたい」と言うので、峰吉が近所の店に肉を買いに行き、一緒に岡本も辞去します。

その少し後、数名の武士が龍馬を訪ねて来ます。階下で取り次いだ藤吉が階段を上がると、背後からいきなり斬られて転倒。その物音に、藤吉と峰吉が遊んでいると勘違いした龍馬は「ほたえな(騒ぐな)」と叱りました。直後、二人の武士が龍馬と中岡のいる座敷に殺到。火鉢を挟んで座っていた龍馬と中岡に斬りつけ、龍馬は額を割られます。それでも龍馬は背後の床の間にある刀を取ろうとしますが、背を袈裟(けさ)斬りにされ、さらに三太刀目を鞘のまま刀で受けますが、敵の刀が再び頭部を斬り、昏倒。中岡も後頭部に重傷を負いました。刺客たちは二人が動かなくなるのを見届け、立ち去ります。ほんの一瞬の出来事でした。

刺客たちが去ると、龍馬は意識を取り戻し、「残念、残念」「慎太、手は利(き)くか」と中岡を気遣い、階下の店の者に「医者を呼べ」と声をかけ、「わしゃあ脳をやられた。もういかん」と言って絶命したといいます。この日は龍馬33歳の誕生日でした。なお藤吉は翌日、中岡は翌々日に死去します。中岡享年30、藤吉享年20。龍馬と中岡らが殺害された近江屋跡は現在、河原町通の繁華街で、石碑のみが事件を伝えています。

坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地碑

事件直後から流れた奇妙な風説

近江屋古写真(国立国会図書館蔵)

事件の報せは、すぐに土佐藩をはじめ、各方面に伝わりました。龍馬らが襲われたことを、近江屋の主人・新助や峰吉らが近所の土佐藩邸や白川の陸援隊(中岡が組織した武力討幕のための浪士隊)屯所(現、京都大学農学部付近)に急報し、駆けつけた土佐藩関係者が、まだ息のあった中岡から事件の様子を聞くことができたからです。事件当日に報せを受けた土佐藩側用役・寺村左膳(てらむらさぜん)は、その日の日記に次のように記しています。

「子細は坂本良(龍)馬、当時変名才谷楳太郎(さいだにうめたろう)、ならびに石川清之助(いしかわせいのすけ、中岡の変名)、今夜五ツごろ(20時頃)、両人四条河原町の下宿に罷(まか)りあり候(そうろう)ところ、三、四人の者参り、(中略)やにわに抜刀にて才谷、石川両人へ切りかけ候ところ、不意のことゆえ、両人とも抜き合い候間もこれなく、そのまま倒れ候よし。下男もともに切られたり。賊は散々に逃げ去り候よし。才谷は即死せり。石川は少々息は通い候に付き、療養に取り掛かりたりという。多分、新撰組等の業(わざ)なるべしとの報知なり」(『寺村左膳道成日記』)。

新選組局長近藤勇

その日のうちに、かなり正確に情報が伝わっていたことに驚かされますが、注目すべきは最後の「多分、新撰組のしわざであろうとの報せであった」という部分です。事件直後、土佐藩関係者はまず、幕府方の警察組織である新選組を疑っていたことがわかります。ただし、襲撃された中岡自身は、「敵を知らず」と伝えていました。少なくとも顔見知りの者の襲撃ではなかったのです。

一方で別の、奇妙な風説も流れていました。
・「坂下(本)龍馬、暗殺に逢う。(中略)けだし龍馬を刺すは土州人(土佐藩士)なり」(肥後藩士上田久兵衛〈うえだきゅうべえ〉『日録』12月4日)。
・「元来、土佐の内間探索候ところ、藩士二気にあい分かれ、(中略)梅太郎(龍馬)となおまた今一手とは、たちまち不和を生じ、ほとんど殺伐の次第に及ばんとする」「おそらく右(龍馬)切害人は、宮川(助五郎、土佐藩士)」(鳥取藩『慶応丁卯(ていぼう)筆記』)。
・「坂本を害(がいし)候も薩人(薩摩藩士)なるへく候」(『改訂肥後藩国事史料』12月9日)。
つまり龍馬と中岡を殺害したのは、所属する土佐藩、もしくは龍馬の同志であったはずの薩摩藩であったろう、とするものです。なぜ、そうした風説が他藩で流れることになったのか、まず龍馬の来歴と当時の状況を紹介しておきましょう。

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