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Culture
2019.10.04

徳川秀忠。家康の息子が関ヶ原の戦いで「世紀の大遅参」をした理由とは?

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大事な約束に遅れてしまった、試験の開始時間に間に合わなかった、予約していた飛行機に乗り遅れた……。誰でも一度や二度、そうした苦い経験はあるだろう。しかし、たった一度の遅刻のせいで、「ダメな奴」というレッテルを歴史上で貼られてしまった人物がいる。徳川家康(とくがわいえやす)の息子、秀忠(ひでただ)だ。彼は父・家康の生涯をかけた大勝負である関ヶ原合戦の折、徳川家の半分の軍勢にあたる3万の大軍を預けられていながら、合戦に遅参してしまうのである。合戦は幸い、家康の勝利となったものの、怒った家康は秀忠が到着しても面会を許さなかった。

しかしこの世紀の大遅参、すべてを秀忠の失態とするにはいささか酷であることが、最近わかってきている。むしろ秀忠は不運と理不尽の連続で遅参し、「ダメな奴」「父に似ぬ凡庸(ぼんよう)な二代目」というイメージを後世の人にまで抱かれることになってしまったようなのだ。秀忠が遅刻してしまうまでの過程を追いながら、何が起きていたのかを探ってみよう。

「ばっ、馬鹿な……」家康の手紙に愕然となる

「佐渡(さど)、今日こそはあの上田の小城を攻め落とし、真田(さなだ)父子の泣きっ面を見たいものよの」。慶長5年(1600)9月9日、信州小諸(こもろ)城内。徳川秀忠に話しかけられた本多佐渡守正信(ほんださどのかみまさのぶ)は、苦い顔で応える。「御意。されど中納言(秀忠)様、上田の城を攻めて早4日。かの城は容易には落ちぬやもしれませぬ。ここは信濃の諸将を城の押さえに残し、我らは先を急ぐが肝要かと」「なに、今日も落とせぬと申すか」。

秀忠はこの時、22歳。戦場での経験がほとんどない秀忠にすれば、上田城攻略はまたとない手柄であり、決戦前の父・家康への手土産になるはずだった。そのため、本多正信の返事に鼻白んだのである。何かを言いかけた秀忠のもとに、別の家臣が手紙を運んでくる。「江戸の殿より、ただいま使いが参りました」。家康からの手紙を読み始めた秀忠の顔が、みるみるうちに青ざめていった。「ばっ、馬鹿な。佐渡、今日は9日であったな」「いかにも」「これを見よ、父上が本日までに美濃赤坂に参れと申されておる」「なんと」。小諸から追分宿に出て、中山道を急いだとしても、追分宿から赤坂宿までおよそ275km。しかも山間の険しい道程を考えれば、10日ほどを要してもおかしくない。「すぐに出立(しゅったつ)じゃ」。秀忠軍は真田勢への押さえを手配りすると、あわただしく陣を払い、走り始めた……。

以上は、上田城攻めをしていた秀忠が、家康からの命令を受け取って、大いにあわてる場面として知られる。しかし、なぜ家康は、とても間に合わぬ日程を秀忠に指示したのだろうか。これについては当時の通信事情も影響しているようだ。事の次第を、順を追って見てみたい。

そもそも徳川秀忠とは、どんな人物だったのか

浜松城

11人の息子の3番目

まず、徳川秀忠の来歴を、簡単に紹介しておこう。
家康には11人の息子がいた。長男信康(のぶやす)は正室・築山殿(つきやまどの)との間に生まれ、将来を嘱望(しょくぼう)されていたが、同盟する織田信長(おだのぶなが)に敵への内通を疑われ、天正7年(1579)に自刃している。

二男秀康(ひでやす)は築山殿の侍女だった女性との子で、家康は本当に実子なのか疑っていたという。信康亡き後、本来であれば秀康が後継者候補筆頭であるところ、羽柴秀吉(はしばひでよし)との和睦の証として、11歳の時に秀吉の養子(実質的には人質)となった。その後、家康が関東に所領を与えられると、秀吉のはからいで関東の名門結城(ゆうき)家を継ぎ、結城秀康と名乗る。徳川家からは、やや距離を置いた存在であった。

そして、三男が秀忠である。母親は家康の側室西郷(さいごう)の局(つぼね)で、兄信康が自刃する半年前に生まれた。幼名は長丸(ちょうまる)。二人の兄は気性が激しかったとされるが、秀忠にそうした話は伝わっていない。家康は早くから秀忠を後継者に考えていた節があり、天正11年(1583)正月、5歳の秀忠は父・家康と並んで、浜松城で家臣らの年賀の挨拶(あいさつ)を受けたという。なお、1歳下に同じ西郷の局を母とする弟・忠吉(ただよし)がいる。四男の忠吉はのちに、秀忠が遅参した関ヶ原合戦で大いに活躍する。

豊臣秀吉

危うく秀吉の人質を免れる

ところが、ひそかに後継者に想定していたであろう秀忠を、家康は人質として大坂の豊臣(とよとみ)秀吉のもとに送らざるを得なくなる。秀吉による小田原北条(ほうじょう)攻めが迫る天正18年(1590)1月のことで、時に秀忠12歳。家康はかつて北条氏と縁戚の同盟関係であったため、秀吉からあらぬ疑いをかけられぬための保険だったようだ。その辺のことは秀吉もわきまえていて、自ら秀忠の元服式をとり行い、「秀」の字を与えて長丸から秀忠に改めさせると、さっさと家康の元に帰している。「人質はもはや無用、その代わり忠勤に励め」という秀吉の家康に対する無言のメッセージであったろう。

同年2月から始まる小田原攻めには、秀忠も家康とともに参陣している。その最中、秀忠は箱根湯本に到着した秀吉に呼ばれると、秀吉の甲冑を与えられ、「わが武運にあやかりたまえ」と声をかけられた。こうした秀忠への厚遇もまた、家康を従わせるための秀吉のパフォーマンスであったろう。そして北条氏が滅び、天下統一がほぼ成ると、家康は否応なく関東の旧北条領に移され、三河、遠江・駿河、信濃、甲斐(現、愛知県東部、静岡県、長野県、山梨県)という自ら苦労して切り取った領地は、秀吉にすべて没収されてしまうのである。なお、秀忠の小田原攻めはかたちだけの参陣で、武功をあげるような働きはしていない。

秀吉の勧めで姉さん女房をめとる

家康は新たに与えられた関東の本拠地を江戸に定めるが、一から町づくりを始める必要があった。ところが秀吉が朝鮮出兵の大動員を始めたため、家康は上方や、前線基地である肥前名護屋(ひぜんなごや)城(現、佐賀県唐津市)に詰めなくてはならなくなる。そんな家康不在の江戸を守ったのが秀忠だった。文禄2年(1593)正月には家康に代わって、15歳の秀忠が家臣らの年賀の挨拶を受けている。

文禄4年(1595)、17歳の秀忠は、秀吉の声がかりで図らずも嫁を迎えることになる。相手は秀吉の側室・茶々(淀殿)の末の妹、江(ごう)。2011年に上野樹里主演で大河ドラマにもなったが、江はこの時、23歳。すでに2度、嫁いだ経験のある、姉さん女房だった。父は信長に滅ぼされた浅井長政(あざいながまさ)、母は信長の妹・お市(いち)の方で、信長の姪にあたる。信長の血筋もさることながら、一説に江は秀吉の養女として秀忠に嫁いだともいう。秀吉の絶大な権勢を背景にした姉さん女房に、秀忠は頭が上がらなかったようだ。以上が、関ヶ原合戦までの秀忠の主な歩みである。

上杉征伐から反転、東西決戦へ! この時、秀忠の武運も一転した?

上杉景勝甲冑のレプリカ

兄・秀康、弟・忠吉を指揮下に

慶長3年(1598)に秀吉が没すると、まだ幼い遺児・秀頼(ひでより)を支える豊臣政権内で、自らの勢力拡張を図る人物が現われる。他ならぬ、家康であった。豊臣政権は5人の大老と5人の奉行の合議で運営するしくみであったが、家康は巧みに他の大老や奉行を失脚、あるいは弱体化させて権力を一手に掌握。そんな家康と武力に訴えてでも対決しようとした大老の一人が、会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)であった。慶長5年(1600)6月、家康は上洛要請に従わない景勝を豊臣秀頼への反逆と見なし、「上杉討伐」を諸大名に布告。自ら諸大名から成る大軍を率いて大坂城を出陣し、会津を目指した。

家康が東海道を下る間、江戸城にいる秀忠は北関東の諸将に上杉討伐への動員をかけていた。もちろん家康と相談の上のことで、秀忠は家康とうまく連携していたようである。7月7日には、家康が率いて江戸に到着した諸大名を江戸城でもてなしている。また、その頃に決まったのであろう討伐軍の編制では、秀忠が率いる前軍が会津へ先発し、それから家康率いる本軍が続くことになった。秀忠の前軍には、本多忠勝(ほんだただかつ)・石川康長(いしかわやすなが)・真田昌幸(さなだまさゆき)らの他に、兄の結城秀康と弟の松平忠吉も加わっている。弟の忠吉はともかく、兄の秀康を秀忠の指揮下に置いたことからも、この時点で家康が、息子の中で秀忠を最も重んじていたことは間違いない。

上杉討伐は中止、反転西上して石田三成らを討て

秀忠率いる前軍が会津に向けて江戸城を出陣したのは、7月19日である。その2日前、上方で大きな動きがあった。大坂城において、大老の毛利輝元(もうりてるもと)を総大将とする石田三成(いしだみつなり)ら奉行衆が、家康を弾劾(だんがい)する文書を全国の大名に送り、協力を呼びかけたのだ。いわゆる西軍の挙兵、及び宣戦布告である。家康がこれを知ったのは7月23日頃で、すでに秀忠に続いて江戸城を出陣した後であったという。上方での西軍挙兵に家康は全軍の進軍を止め、諸大名に進退を諮(はか)ったところ、上杉討伐を中止し、反転西上して石田三成らを討つことに決まった。

かくして会津に向かっていた諸将は陣を払い、江戸を経由して西に向かうことになる。上杉の押さえには、山形城の最上義光(もがみよしあき)、岩出山(いわでやま)城(現、宮城県大崎市)の伊達政宗(だてまさむね)に加え、白河口(現、福島県白河市)に結城秀康を残すことになった。西に向かう諸将は家康を支持しているとはいえ、豊臣家に忠誠を誓った大名たちであり、今後の展開次第でどう転ぶかはわからない。慎重な家康は彼らの真意を見極める意味もあって、8月末まで江戸城から腰を上げなかった。

なぜ家康と秀忠は別ルートをとることにしたのか

一方の秀忠は、江戸に戻らず宇都宮に在陣していた。これは西上する際、家康と別ルートをとるためで、家康は東海道、秀忠は中山道を用いる予定であった。別ルートをとる最大の理由はリスク管理である。万一、災害などでルートに障害が生じた時、全軍で移動していると、徳川勢はすべて足止めされてしまう。そこで家康、秀忠で、およそ7万の徳川勢を半分ずつに分け、2方向から西上することで危険を半減させたのだ。もう一つの理由に、信州の真田氏の存在があるが、これについては後述しよう。

なお徳川勢を家康と秀忠の二つに分ける際、上杉討伐における前軍、本軍がそのまま踏襲されたわけではなく、再編成されている。秀忠の兄・結城秀康は上杉への押さえとして白河に残り、弟・忠吉は父・家康の軍に編入された。また秀忠を支える存在として榊原康政(さかきばらやすまさ)、大久保忠隣(おおくぼただちか)ら歴戦の武将に加えて、軍監(ぐんかん、軍事の監督・評価を行う者)的な立場で、家康の謀臣・本多正信が加わった。この正信の存在も、後に火種の一つとなる。

敵味方に分かれる父子、足並みがそろわない父子

真田父子の「犬伏の別れ」で知られる犬伏の薬師堂

真田父子の別れ

前軍の徳川秀忠に従って会津を目指す真田昌幸と息子たちが、石田三成より挙兵の知らせを受けたのは、犬伏(いぬぶし、栃木県佐野市)においてであった。このまま家康に従うべきか、それとも三成らに加担するか……昌幸は迷う。というのも長男信幸(のぶゆき)は家康の重臣・本多忠勝の娘を正室としており、一方、次男信繁(のぶしげ)は、石田三成の盟友・大谷吉継(おおたによしつぐ)の娘を正室としていたからである。昌幸は二人の息子と三人だけで犬伏の薬師堂に籠り、真田家の将来を決める相談を行う。その結果、導いた結論は、親子で敵味方に分かれるというものだった。いずれが勝っても、真田の家名を残すと決めたのである。長男信幸は徳川方に残り、真田の決断を家康、秀忠に伝えた。一方、昌幸と信繁は三成方につくため、陣を払って居城の信州上田城に戻り、籠城の準備にとりかかる。

そもそも真田昌幸は、家康に心服していない。というのも15年前の天正13年(1585)、当時、家康の配下だった昌幸は、家康が真田領の一部を無断で他家に与える約束をしたことに怒り、手を切った。そして、攻め寄せた徳川軍を上田城で迎え撃ち、破ったのである。この時の真田勢がおよそ2,000に対し、徳川勢は8,000前後といわれ、真田の快挙は天下を驚かせた。真田と徳川にはこうした確執の過去があったのである。とはいえ、もし秀忠率いる徳川軍が上田に攻め寄せるとなれば、軍勢の規模はかつての比ではない。だが、権謀術数に長けた昌幸は、さまざまな秘策を用意して待ち構えていた。

中山道

当初、家康は上田攻めを秀忠に命じていた

宇都宮にいた秀忠が、西上を開始したのは8月24日である。その前日に秀忠が出した手紙には「信州真田表仕置(しおき)のため明二十四日出馬」とあり、西上の第一目的が東海道を進む予定の家康と合流することではなく、まずは信州上田城を攻略することにあることがわかる。従来、功をあせる秀忠が独断で上田城攻めを行ったかのように語られてきたが、むしろ上田城攻めは家康が秀忠に命じていた既定路線であったと見るべきなのだ。

ところが先発していた東軍諸将が、西軍の岐阜城を攻略すると、家康はようやく重い腰を上げるとともに、重大な方針変更を伝える手紙を秀忠に送る。それは「こちら(家康)は9月1日に江戸を発って東海道を上るので、秀忠も(上田城攻めは行わず)そのまま中山道を西に進め」というもので、9月9日頃には秀忠が美濃に到達するであろうと見越していた。この手紙を秀忠に宛てて江戸から送ったのが、8月29日のこと。秀忠は9月1日に中山道の軽井沢に着いているので、通常であれば、早ければ1日に、遅くとも2日には家康の手紙を読むことができたはずだった(江戸~軽井沢間は約150km)。そうであれば確かに家康の計算通り、秀忠軍は9月9日頃、美濃に到達していただろう。しかし、ここから秀忠の不運が始まるのである。

徳川にとっての「鬼門」と恐れられた真田の上田城

上田城

真田の変幻自在の戦法

9月2日、中山道から分岐する北国街道を進んだ秀忠は、小諸城に入った。家康の当初の命令に従い上田城を攻めるためで、上田城からは20km弱の距離である。15年前に徳川軍8,000が苦杯をなめた時とは違い、秀忠軍は3万数千の大軍であった。真田勢は3,000程度で、よもや真田昌幸がまともに抵抗するとも思えず、降伏勧告の使者を送ると、昌幸はあっさりと交渉に応じるという。そこで翌3日、秀忠軍に属する昌幸の息子、信幸が使者となって、昌幸と交渉することになった。昌幸は「降伏し、城を明け渡すので、清掃のため明日まで待ってほしい」と信幸に伝えたという。それを聞いた秀忠は「さもあらん」と喜ぶが、翌日になると、昌幸は「ようやく戦いの支度も万端整ったゆえ、存分に攻めてこられよ」と態度を豹変させる。最初から降伏する気などなく、時間をかせぎ、秀忠をからかっていたのだ。これには秀忠も怒り、5日から上田城を攻めることになる。

しかし戦いにおいては、昌幸が一枚も二枚も役者が上であった。5日に真田信幸が支城の戸石(といし)城を攻めると、昌幸は手勢を退かせて信幸に攻略の手柄を立てさせる。6日には秀忠が上田城下の染谷台に布陣。城下の稲を刈って城兵を挑発し、城兵が打って出てきたところを徳川勢が迎え撃つ。城兵はたまらず城に退却し、徳川勢は勢いに乗って城に取りつくが、実はこれも昌幸の作戦のうちだった。敵を十分に城に引きつけてから、鉄砲と弓の猛射を浴びせ、ひるんだところを主力が城から打って出て、痛撃を与える。態勢を立て直そうと徳川勢が城下に退くと、城下に潜んだゲリラ兵が退路を塞いだ上で家屋に隠れて狙撃し、あるいは伏兵を率いる真田信繁が奇襲をしかけるなどしたため、徳川勢は大混乱に陥り、目も当てられぬ状況となった。秀忠は家臣らの惨敗に呆然とするほかなく、多数の死傷者を出して小諸城へと退却している。

小諸城

秀忠軍内部の不協和音

上田城は小規模で、堅城と呼べるような城ではないが、二度にわたって徳川勢を翻弄したのは、城を活かした真田昌幸の戦法の勝利といえる。やはり真田と上田城は徳川にとって「鬼門」というべきなのだろう。ただ徳川勢の惨敗には、別の要因もあった。それは秀忠軍内部の不協和音である。すなわち、本多正信に対する榊原康政、大久保忠隣らの反発だった。

本多正信は家康の信任篤い参謀的存在だが、武功はほとんどない。そんな正信が軍監的立場で実質的にあれこれ指図するだけでなく、上田城攻めの失敗を現場の侍大将の責任としたことで、諸将が強い反感を抱いたのである。上田城攻めは8日まで続くが、徳川勢の士気が低調であったのは、そうした内部の問題に起因するところも大きかった。そして9日、秀忠は8月29日に家康が江戸から送った手紙を入手する。通常より10日近くも遅れての到着であった。理由は、折からの大雨で遅れたということしかわかっていない。が、秀忠にすれば極めて不運な、そして致命的な出来事であった。秀忠軍は美濃を目指し、走り始める。

後継者を誰にすべきか、改めて問う家康

妻籠宿

関ヶ原合戦から5日後に追いつく

北国街道から中山道に戻り、少しでも早く美濃に到達したい秀忠だが、真田勢の追撃を警戒してわざわざ本道から外れた古道を使うなどしたため、思うように進まない。追分宿から中山道を60km余り先の下諏訪(しもすわ)宿に至ったのが9月13日。同日、家康は岐阜城に着陣している。決戦当日の9月15日には、福島宿あたりを進んでいたのではないだろうか。9月17日、下諏訪宿からおよそ100km先の妻籠(つまご)宿において、「15日に関ヶ原で決戦が行われ、味方が勝利した」という知らせを受け取っている。 記録には秀忠が「大いに驚かれ」とのみあるが、その心情を踏まえて意訳すると「ああーっ、大事な合戦に間に合わなかった。父上、お許しくだされ」といったところだろうか。しかし落胆している場合ではない。遅参の不名誉をこれ以上広げないために、一刻も早く家康と合流しなければならず、昼夜兼行で進軍。決戦から5日後の9月20日、近江の大津でようやく家康に追いつくのである。しかし家康は「気分がすぐれない」と言って、秀忠に面会しなかった。遅参だけでなく、秀忠軍が急ぐあまりに、堂々と隊伍を整えず、三々五々とまばらに大津に現れたことも家康の機嫌を損ねたらしい。

琵琶湖

3人の後継者候補から誰を選ぶか

秀忠が家康と面会できたのは、大津到着の翌日とも、3日後であったともいう。その間、複数の家臣たちが家康にとりなしたという記録があるが、いずれが史実かはわからない。家康にすれば、秀忠不在で余計な負担をかけた東軍諸将の手前、すぐに許すわけにはいかなかったのだろう。が、今回の不手際が、すべて秀忠の落ち度というわけではないことも理解していたはずである。しかし、天下分け目の決戦に遅参した息子を、後継者としてふさわしいと世間が容認するものなのか、不安も覚えていたようだ。

家康は密かに重臣たちを集め、誰が後継者にふさわしいかを問うている。集められたのは大久保忠隣、本多正信、井伊直政(いいなおまさ)、本多忠勝、平岩親吉(ひらいわちかよし)の5人である。家康の問いに対し、本多正信は結城秀康を推し、井伊直政は松平忠吉の名を挙げた。本多忠勝、平岩親吉は回答せず、秀忠を推したのは大久保忠隣のみであった。家康はこの結果を踏まえ、2日後に「後継者は秀忠とする」と表明したという。関ヶ原遅参という失態を割り引いても、次の時代の徳川家当主に最もふさわしいのは秀忠だと、家康は判断したのである。

運不運だけでは人間の評価は定まらない

家康が秀忠こそ後継者にふさわしいと判断した理由は、独断で武功を求めるタイプではなく、家康の方針を忠実に守る「守成」のタイプであったからだという。関ヶ原遅参にしても、秀忠が家康の方針に背いた点は何一つない。戦国乱世の時代が終わり、天下の静謐(せいひつ)が求められる時代には、秀忠タイプのリーダーこそが適任ということなのだろう。

関ヶ原遅参で、秀忠はとかく「ダメな奴」と見られがちだが、同時代においてはその事情が知られていたこともあってか、必ずしもそうした評価は多くない。むしろ後世、姉さん女房に頭が上がらず、側室も持てなかったエピソードなどともに、遅参が面白おかしく語られてしまったことで、事実と異なる秀忠のイメージが一人歩きしてしまったのではないだろうか。

秀忠の関ヶ原の遅参が不運によるものであることを、少なくとも家康は見抜いていた。だからこそ秀忠への信頼を失わず、後に徳川将軍家を継がせて二代将軍とするのである。運不運だけで人の評価は定まるものではない。たとえ不運に直面したとしても、そこでどう行動しているかを見ている人は必ずいる。そして、それがむしろ次の飛躍のきっかけになることも多い。秀忠の世紀の大遅参は、そんなことを私たちに教えてくれているのかもしれない。

参考文献:小和田哲男『徳川秀忠』、渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』他

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。編集部を離れるも、いまだ燃え尽きておらず、noteに歴史記事を自主的に30日間連続で投稿していたところ、高木編集長に捕獲される。「歴史を知ることは人間を知ること」だと信じている。ラーメンに目がない。